Episode2 決意

 お父様との電話を切った瞬間、どっと汗が噴き出した。先ほどまでの猛然とした勇気がウソのよう。もう一度シャワーを浴びる必要がありそう。

 結局、まだほんのりとあたたかいバスルームに向かい、シャワーを浴びた。再度バスローブに身を包み、ソファに身を投げるみたいに座りこんだ。

 わたしの人生には、巨大な後悔が根づいている。

 ローレル家で育ったらマフィアになる。そんなルールは断じてない。だが、優遇はされる。安定した将来を得ることが出来る。

 ハイスクールの終わりごろ。時期的に、学校でも将来の話が平等にやって来る。その時は、マフィアになりたいと答えるわけもなく、ユニバーシティで勉強してテキトーに就職とか答えた気がする。

 そのときには、わたしとレイは恋仲にあった。野心も、また心の中に芽吹いていた。過去のわたしは、強い野心と狂熱の恋心とで、板挟みになっていたのだ。

 紆余曲折あり、わたしは、レイと別れることを選んだ。

 今思えば、気の狂うような決断。だが、そうするしかなかった。その選択肢以外、なにも思いつかなかった。それくらい、わたしは組織と裏社会を恐れていた。好きにはっちゃけられるのは、学生時代の特権なのに。全て放り捨てて二人で逃げるみたいなこと、大人になってからじゃできないのに。

 結局、レイはわたしの前から姿を消した。街からも姿を消した。

 わたしの心でくすぶる炎は、鎮火しないまま熾火となって残り続けている。燃え盛るそのときを、待ち続けている。もうそんなときは来ないのだと知りながら。

 マフィアになるという選択。それは確かに夢であったが、人生における恋愛の重要さを鑑みれば、間違いであったかもしれない。

 だけどわたしは、その選択に報いることができる。ここで行動するために、街を守るために、わたしはマフィアになったのだ。

 取り出してきたグラスにワインを注ぐ。鼻に近づけると、わずかながら、香りが数分前と違って感じられた。

 五感に関係する各器官は、頭の中でつながっている。今日は、醜悪な父の声を聞きすぎた。

「……まったく。酒を不味くするなんて。最悪の父親」

 それでも今夜は、飲み明かしていたくて。冷蔵庫から、追加のワインとつまみを取り出した。



 翌日。起きた瞬間に目に入ったのは、空いたワインボトル×3であった。痛む頭とフラつく体をどうにかこうにか起こして、駆動開始する。

 父を殺す。それは生半可な覚悟ではできない所業。わたしも情がある人間。血縁者を殺すことに関して、躊躇がないわけじゃない。ここまで育て上げてくれたのは親で、良い暮らしをくれたのは親で、今の地位につけたのも親のおかげ。感謝の気持ちだってある。

 だが、それとこれとは話は別だ。父はずいぶんと年を重ねていて、欲にまみれた煩悩人間と化している。過去の父には感謝だが、今の父は疎ましい。それに、わたしの母。彼女は父が変わっていく過程で夜逃げを敢行し、父の出した刺客に殺された。

 わたしだって今は優しく接されているが、牙を剥けばどうなるか。巨大組織のボスは情というものがこれっぽっちもないので、実の娘だって平気ですりつぶすに違いない。

 ともかく、慎重に事を運ぶ必要がある。わたしの人生史上、一番の大戦おおいくさとなるだろう。

 幸い、わたしがプロジェクトの主導メンバーとして入ったことで、麻薬事業の動きは遅らせることができそうだ。だが、事が動けば、クライアントである麻薬カルテルの人員にもいずれ会うことになる。恐ろしい話だが、やるしかない。

 かといって、猶予がたくさんできたわけではない。ゼロが二か三になった程度だ。ないよりはマシだが、事は早急に動かさねばならない。慎重に、かつ迅速に。難易度は高い。

 このことについて、信頼できる部下に相談しようかと考えた。だが、どこに父の息がかかっているか。というか、かかっていない方がおかしいというもの。頼るとしたら、おのずと外部の人間に限られる。

 人を殺すに際して、やはり有用なのは殺し屋。ローレル・ファミリーの仕事でも、命を扱う仕事は自然と発生するため、専属の殺し屋を何人か雇っている。だが、組織の飼い犬でしかないため、それらをあてにすることは不可能。フリーランスの者を雇わねば。



「インドネシアの件、お疲れ様でした。大変だったでしょう」

「大変にしたのはあんたでしょう。少しくらい手伝ってくれてもいいじゃない?」

 わたしの問いかけに笑みを浮かべるのは、スーツの男。ひょろりと細長い容姿や顔つきがなんとなくキツネを思わせる彼は、オスカー・キャッシュマン。

 わたしに「早く本国に帰って来て」と電話してきたのはこの男だったりする。長年父に仕えており、わたしのお目付け役みたいなことを務めていた時期もある男だ。

「私にも仕事があるんです。あの日は……そう、ミネソタにいまして」

 涼しい顔で告げる。それが嘘か誠か判断しかねるが、既に過去のことを掘り返してもしょうがない。

 ここは、ファミリーが商談や話し合いによく使うイタリアンレストラン。ほどよく狭く、隠れた名店としてファンがいたりもする。経営者がローレルの協力者なので、人払いしたいときなど融通が利くのが特徴だ。

「インドネシアより近いし……。ま、本題に入りましょ。実はね、新しい殺し屋を雇おうと思ってるの」

 オスカーはローレル幹部の一人で、様々な機関や人とのパイプ役として名高い。こういった相談をするにはもってこいだ。 

「なぜです? 今いる分で十分でしょう」

 鋭利な瞳が光る。わたしの意志を見抜こうとしている顔だ。そこいらの人にはわからない変化だが、長年の付き合いのわたしにはお見通しである。

「お嬢、昨日も自ら手を下したそうじゃないですか。今の部下は不服で?」

「わたしの権威を示すためよ。別に不服ってわけじゃないけど」

 本質を悟られてはならない。テーブルの上には、店の名物であるジェノベーゼピッツァ――残り三切れ――と、飲み物。それとなく手を出し、食べ始める。食べたいときに食べ、飲みたいときに飲む。自然体を心掛ければ、怪しまれることはない。

「わたしが新しい仕事始めるの、知ってる?」

「ああ、小耳には挟んでいますよ。新事業のプロジェクトリーダー。まったく、出世が速くて恐ろしい。血縁というのは、恐ろしいものです」

「……どういう意味?」

「お父上から、良い遺伝子を受け継いだのだろうという意味です。で、それがどう殺し屋に?」

 わたしの血縁について、真面目に話をしても仕方がない。アイスコーヒーを一口飲んでから、話を本題に戻す。

「わたしの……というか、組織の新事業が危険なものなのはわかるでしょう? 信頼できる取引先とはいえ、いつどんな危険があるか。そこで――」

「ずいぶん心配性ですね。お父上にはもう相談を?」

 さらりと話題を差し込んでくる。彼の話にくいついてしまえば、イニシアチブを取られてしまうことは自明の理。まあ、大事な商談というわけでもないので、今回は話に乗っておく。

「どうしてそこでお父様が出てくるの」

「お嬢、その年でまだ反抗期を続けるおつもりで? 長年見てきたが、あなたはとても優秀だ。だが、まだギリギリのところで情を捨てきれていない」

 彼はわたしがティーンエイジャーのときから父についている。それゆえか、わたしに対し保護者目線を感じる言いぐさが今でも時折表れる。そういうところは、気に食わない。

 ピザは残り一切れ。オスカーが手を出す気配はなく、視線がお食べください、と言っているよう。仕方なく――美味なので食べたくないわけではないが――手にとり、ぱくついた。

「あなたが父上のやり方に反対しているという噂も、あながち間違いではなさそうだ」

 ピザに行っていた目線が、思わずオスカーの方に向かう。その瞬間を、彼は見逃さなかったろう。

 この一瞬で、意志を掴まれた。人の意志は、一挙手一投足からごくわずかな仕草にまで表出する。わたしたちのようなビジネスマンは、そういった行動に伴う意思を見逃さないように。また、表に出さない配慮を徹底するもの。今回は、してやられた。

 自分の部下たちにだけぽろりと漏らした内容が、既にオスカーには伝わっている。どこから漏れたかは明白だが、彼のネットワークは広大かつ動きが速い。警戒しておくにこしたことはないだろう。彼のポテンシャルは、それだけ高い。

「噂は噂。そんなものを信じているようじゃ、この先どうなることやら。情報の取捨選択は徹底しないと」

「していますとも、いつもね。危険な仕事に臨むなら、ボディーガードの数を増やせばいいことでしょう」

「優秀な私兵が欲しいの。こちらから打って出られるような。そして、お友達になれるような」

「ああ、なるほど。私にもいますよ、そういうの」

 そう言うと、オスカーは鼻で笑いつつ携帯を取り出した。

「ボスの娘だけあって、こだわりがお強くあられる。わかりました、私の知る仲介人を紹介しましょう。ユニークな惨殺専門から、命令に忠実なワンちゃんまでなんでも揃っているはずです。お気に召したのがいれば、札束を積み上げて買い取って、私兵にでもなんでもすればいい」

「そんなことできるの?」

「望んだのはあなたです。それに、世の中金。感情よりも、損得勘定ですよ」

「面白いこと言うのね。ありがと、ここは奢るわ」

「奢られるようなことをした覚えはありませんが、せっかくのお嬢のご厚意だ。ありがたく受け取っておいてあげましょう」

「そういうこと言ってると割り勘にするよ?」

「構いません。お金には困っていませんので」

 なんだかイラっと来る言い方だったので、わたしが全部払った。

「お嬢に奢ってもらう日が来るなんて、感無量ですよ」

「そちらさえよければ何度でも奢るけど?」

「ふふ、私も一介の男。レディにそこまでさせては、人脈に支障が出てしまいます」

「どうだか」

 オスカーは優秀な男だ。わたしがボスになった暁には、是が非でも近くに置いておきたい人材である。父を殺すに際して障害になるなら排除するが、そうはならないことを願いたい。

 レストランを出ると、オスカーを待つ車が待機していた。車の中にはスーツを着込んだ妙齢の女。アレがオスカーの言う私兵だろうか。中々に美人だ。ああいう私兵なら、わたしも欲しいかも。

「それでは。お互い良い一日にしましょう」

「ええ、お互いに」



 オスカーに紹介されたのは、殺し屋仲介人のメールアドレス。怪しさたっぷりなので、捨てメアドを作って捨て端末でやりとりを開始してみる。

 返信はすぐに、しかも気さくなものが帰って来た。彼は自分を〈ルギッドゥ〉と呼んでいる。わたしもそれに倣い、彼をルギッドゥと呼ぶことに。

 何通かメールでやり取りすると、条件を指定してほしいとの通達が来た。性別、使用武器、金額などのカテゴリがあるとのこと。彼は膨大な数の殺し屋と繋がっているらしく、カテゴリ分けしないとお客様に提供する選択肢が多すぎてしまうんだとか。世に殺し屋どんだけいるんだよとツッコミたくなる。

 やはり望むのは優秀な人材。オールマイティーに武器を扱えて、状況判断がちゃんとできる人がいい。しかし、それくらいの条件ならごまんといるとのこと。わたしは試しに、女性の殺し屋を指定してみた。

 それでも数は多い。本名っぽいものから、いかにもコードネームっぽいもの。名前だけでは判断がつかないので、仲介人に「金はいくらでも出るからオススメを」と尋ねてみた。

 返答には、三つの名前が並んだ。〈ソフィア〉、〈パルメザン〉、〈シュライク〉の三つ。本名っぽいの、チーズっぽいの、鳥の名前。ソフィアという名前は響きが良くてなんとなく気に入らない。チーズはそこまで好きではない。消去法で、シュライクの詳細を聞いてみることにした。

 シュライク。気鋭の女殺し屋で、武具や乗り物、格闘術など戦闘に必要なことならなんでもござれのオールラウンダー。いつもモッズコートを身に着けているのが特徴で、それが彼女のトレードマーク。暑い夏は活動を控えている。

 まさか――思い至り、わたしは小さく笑ってしまった。

 シュライクという鳥は、日本語でモズという名前だったはず。彼女のコードネームであるシュライクは、トレードマークのモッズコートをもじってつけたのではないか。

 そんな安直なものでもないだろうが、わたしはその真実が気になった。仲介人が提示した残り二人と比べても、値段はそこまで高くない。

 念のため残り二人の詳細も聞いたが、実績ある殺し屋であることには変わりない。パルメザンの由来が標的を粉みじんにした経験からというのには驚かされたが、あいにくお父様を粉みじんに砕く気はさらさらない。

 至極安直な決め方。だけど、迷っていても仕方がない。シュライクが、わたしに幸福を運んでくれる青い鳥であることを願うばかりだ。シュライクに青い種はいないけれど。



 今回の依頼は、おそらく綿密な計画を立てた殺しになる。それには時間が必要となるため、早めにシュライクと対面しておく必要を感じた。

 シュライクとのやりとりは、ルギッドゥと同じくメールからスタートした。相手から送られてくるメールの文面は中々に丁寧なもの。少なくとも、モッズコートだからシュライクなどという安直ネーミングはしそうにない。

 依頼内容は軽く伝えたが、ディープな部分は対面で話をしたいと言うと、返信がやや遅れてやって来た。あまり乗り気ではないが、応じてくれるという。恥ずかしがり屋さんなのだろうか。ますます彼女のことが気になってしまうわたしなのであった。

 民間の殺し屋に依頼した経験などないため、どんな人が来るのか、期待で胸が踊ってしまう。鳥の名前を名乗る、恥ずかしがり屋の殺し屋女。設定だけ羅列すると、コミックに出てきそうな不思議ちゃんだ。

 待ち合わせ場所は、先方の決めた場末のカフェ。携帯で地図を開くか、カーナビに導いてもらわないと行けそうにない場所であった。

 組織がよく使う場所では誰が見ているかわからない。そういったリスクを避けるべく、ローレルの手が及びづらい場所まで出向くことにしよう、という提案。どうやらこちらを案じてくれているらしい。もしかして彼女、優しい?

 前日の夜。わたしはフィールドトリップ前夜の小学生みたいな気分だった。シュライクがかわいい子だったらなあという想像をしつつ、眠りにつく――が、中々寝付けない。これでは本物の小学生みたいではないか。自分を恥じつつ、目を閉じた。


 新しい朝――プロジェクト始動の朝。

 これまでは、父が主導のものをわたしが動かすことばかりしてきた。けれど、今日からは違う。一人で、自分のために、戦う。既に二十代も後半となって、ようやく独り立ちの時が来たのだ。

 シャワーを浴びようとして、時計を見た。デジタル時計は午後十三時五十五分を示している。ちなみに、シュライクとの待ち合わせ時間は、十四時。

 サーッと、血の気の引く音が聞こえた気がして、

「うわーっ! 寝過ごした!」

 顔洗って歯を磨いて髪をセットしようとしたけどさすがに時間がなくて。さっと香水つけてからスーツを着用。化粧する時間はないので、車の信号待ちでなんとかするしかない。テーブルに転がってるハンドガンを懐に突っ込んでバックひっつかんで。

「……いってきます」

 まだ起きて数分なのに、もう疲れてしまった。だがここで止まってる場合ではない。

 小綺麗な白い壁が、照明でオレンジがかって見える廊下を走ってエレベーターへ。わたしが忙しくする以外には、なにも音が存在しない。

 しんと静まりかえっているのは防音設備のおかげもあるが、そもそもわたしがこの階と設備をまるごと買い取っている。これでもマフィア一家の一人娘ということで、安全には気を使えという父からの教えを実践しているのだ。

 エレベーターに乗り、地下駐車場に続くボタンを押す。降りるのを待つ間、シュライクに待っていてほしい旨のメールを作成。遅れる理由は、緊急の商談が入ってしまったということにしておいた。

 駐車場に到着。そこそこ広いわりに、さほど車は多くない。その中でも少しだけ目立つ、赤のマツダ6――日本での名称はアテンザ――がわたしの所有物であり、お気に入りの車だ。

 だが、今回はそれに乗るのを避ける。ローレルの人間にバレてはならない密会なので、わたしですと喧伝して回るのと同義である自車を乗り回すのは、避けねばならない。

 幸い、幹部であるわたしは何台か車を所有している。プライベート用、仕事用、その他用といった具合に。今回はその他用に買った黒のセダンタイプに乗っていくことに。

 カーナビの導きに従って、シュライクの待つカフェへと驀進。信号待ちで化粧をしつつ、これからのことをぼんやりと考えることにした。

 マフィアという、大衆とは一線を画す生き方。幼いわたしはそんな生き方に憧れたし、権力を持ってみたいという野心もあった。そして、今に至る。

 だけど、巨大な権力を手に入れて、なにをする? 

 そういえば、考えたこともなかった。巨大な力の獲得という、漠然とした目標。そこに辿り着いたとして、なにがしたかったのだろう。幼いわたしは既にここにおらず、問うことはもちろん不可能。

 わたしが、したいこと。もう長らく忘れてしまった感情の名前が、胸中に浮かび上がる。

 恋愛。

 人間の三大欲求は食欲、睡眠欲、性欲。これらが満たせていれば、生きてはいける。だが、これ以外のエッセンスが、人生には必要なのだ。ただわたしは、その欲求に至る心に、蓋をしてしまっているだけで。

「……レイ」

 名前を呼んでみる。六年も過ぎたら、忘れるかと思っていた。だが、時限式の感情は、時間経過に合わせて肥大化を始めつつある。おそらく、性欲のアシストも働いているのだろう。自分を慰めるだけでは、体が満足しないのだ。レイとの情事が、身体に刻み込まれているから。

 恋は盲目ラブ・イズ・ブラインド。心にからみついた恋情の鎖を、解こうとする気は毛頭ない。仕事に支障がないからと放置しているわけではない。その鎖に縛られることを望むわたしがいるから、視線を向けないで放置するのだ。

 レイを探そう。それしかなかった。そして、わたしの世界にレイを招き入れるのだ。彼女のための、とびきり安全な場所も用意しなければ。

 ローレルの力は大きい。人員と情報網を駆使すれば、世界のどこかに居るはずのレイだって探せるだろう。

「待っていて、レイ」

 ここではないどこかに居るであろう彼女へ。愛する彼女へ、呼びかける。返事はなくとも、それでいい。わたしが勝手に終わらせた恋愛だ。わたしが勝手に始めたって、構いやしないだろう。

 わたしの化粧は、顔をラクガキ帳代わりに塗りたくる類のものではないので、信号待ちの時間くらいで事足りる。ちょうど最後の工程を終えたところで、目的地近くの駐車場に到着した。

 車を降りて、周囲に目を向ける。これといって重要な建物やお店があるわけでもないため、人通りは少ない。車の通り道か、周辺に住む人たちの散歩道としての意味合いが強い地域のようだ。こんな場所にあるカフェなのだから、運命の偶然にでも遭遇しないとまず訪れそうにない。

 地図で示された位置情報に従って、指定された道――明らかに回り道っぽい――を経由しつつ、なんとか到着。手作りっぽい看板とか、店主が趣味でやってますという趣を感じる店構え。あまり人は寄りつかなさそう。

 中に入ると、軽快なドアベルの音がわたしの来店を知らせる。店員のいないレジカウンターの代わりに、迎えてくれたのはコーヒーの香りだった。

 中はテーブル席がいくつかあるだけで、カフェというよりはイートインスペースに思える作りをしていた。実際、レジカウンターにはガラスケースが配備されており、いくつかケーキが並んでいる。見れば見るほど、ケーキ屋としか思えなくなってきた。

 閑散とする店内に、ぽつんとある人影。店の雰囲気に溶け込んでいたらしく、気付くのが一瞬遅れた。モッズコートに身を包んだその人は、たった一人のお客さんで、わたしと待ち合わせをしているであろう人のはず。フードを被っているので、顔は見えそうにない。

「遅れてごめんなさい、シュライク」

 ファーストインプレッションは大事だ。ややビジネス風味ないい感じの笑顔を心掛けつつ、彼女の方へと歩を進める。

 テーブルには、瀟洒なカップに注がれたコーヒーと、美味しそうなショートケーキがあった。シュライク、ショートケーキとか食べるのか。なんだかかわいい。

 ますます彼女のことが気になるわたしなのであった。どんな人間なのか――

「緊急の商談って話、ウソでしょ」

 耳心地の良い声音。しかしその内容は、虚を突くものであった。完全に油断していた。今わたしの顔には、図星ですと書いてあるに違いない。ここは、正直に話すほかあるまい。

「……ごめんなさい。その通りよ」

「ふふっ……だって。髪の毛がハネてるもん」

「えっ、ほんとに?」

 小さい鏡で化粧をしていたためか、髪の毛まで見えていなかったのだ。これはしくじった。クライアントとしての威厳的なものは、既に皆無に違いない。

 どうやら彼女は、人間に対して好意的な人物らしかった。殺し屋というのはただでさえ人道を逸する働き口ゆえ、頭のネジが二、三本外れた人間も多いと聞く。その点では、意思疎通なども当たり前のように可能な彼女は、当たりの人材と言える。

 シュライクの対面に腰かけるべく、椅子に近づく。

「………………」

 わたしに聞こえない程度で、なにかぼそぼそと呟いた。そして彼女は、突然立ち上がった。まだコーヒーもケーキも途中。それに、なにも話していないというのに。

「……リサ、かっこよくなったね」

 リサ。そう呼んでいいのは家族だけ。でも、家族にすら呼ばれたくないと思うようになった今では、誰にも呼ばれたくない愛称。この地球上で、ただ一人を除いての話だが。

「どうして、わたしの愛称を?」

「知ってるよ。だって、あたしだもん」

 そう言って、シュライクは、フードを外した。

 霹靂のごとき衝撃は、錯覚であるかのようにわたしを揺らがす。フラついた足元。寄る辺ない身体を支えるために、テーブルに手を突かなければならなかった。

「……ライリー?」

「レイって呼んでよ」

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