第3話 頭未満足元未満……

 逃げ場もない。水の中は夜よりも真っ暗で何も見えない。

 足をバタつかせても、その場に留まっているだけで、全然壁まで進んでいかない。

 水が虫のように、どんどん口の中へ入ってくる。


 苦しい。


 ケンジ……。


 意識が薄れていく。


 でも、その瞬間、頭の奥から光が見え、私は何かを思い出した。


 小さい頃の記憶だ。


 私が川の中にいて……今のように、誰かと一緒に溺れている。


 思い出した……なんで今まで忘れていたんだろう? もしかして、浸水の原因って……あの子?


 記憶を思い出したのと引き換えに息がもう限界だ。死神がただネタバラシをしたかっただけみたいに、体に力が入らなくなってきた。


「恵那!」


 声と一緒に腰のあたりにサメに噛み付かれたような強い力を感じた。その強い力によって、私は無理やり光の方へ引っ張られていった。


「ブハッ!」


 水の向こうの空気に出た。荒い呼吸で、一気にその場の酸素をかき集める。


「大丈夫か! 恵那!」


 ケンジの声。

 見るとそこはマンションの廊下。


「助かった」


 ホッとして、とっさに彼に抱きついた。


「怖かった。水が、急に」

「わかった。わかったから」


 ケンジは宥めるように私の背中を優しくポンポンと叩いた。


「水、まだ見えるか?」


 ケンジに言われ、ハッと辺りを見渡した。そういえば、さっきからコンクリートの地面が見えている。


 あれだけあった水が全て消えていた。


「見えない。普通の地面……に、戻ってる」

「そうか」


 ケンジも空気が抜けたように、その場にへたり込んだ。よく見たら、ひたいに汗が滲んでいる。本当に心配してくれてたのか。


「あの後、川田さんと話をして、もっとお前のこと信じないとって。悪かったな、今まで嘘だと思ってて」


 嬉しくて、涙が溢れてきて、ケンジに抱きつきたかった……けど、我慢した。だって、抱きついちゃったら……


「恵那ちゃん、大丈夫?」


 私の部屋のドアが開いて、川田さんが顔を出した。


「ちょっと、掃除しといたわよ」


 床が綺麗になっている。川田さんが、床に落ちていたものを綺麗にしてくれたようだ。

 壁に貼ってあったテープが消えて、そこの色が変わっている。


 久しぶりに自分の部屋を見て、ホッとした。




 その後、二人と私の作戦会議を開いた。

 私はそこで、さっき思い出したことを二人に打ち明けることにした。


「私、思い出したんです。小さい頃のことを」


 小さい頃、私は友達と川で溺れたことがあった。水の中で意識を失って、私は助かったけど、一緒に溺れた友達は亡くなってしまった。


「水の感じ、あの小さい頃の川に似てたんですよ」

「霊……的なものってこと?」


 川田さんが苦い声をする。カウンセラーの専門外なんだろう。でも、私には確信があった。きっと、あの川に何かがあるんだ。


「いや、一個一個、可能性を潰していきましょう」


 ケンジが川田さんにそう言ってくれた。彼が凄く逞しく見えることに、私は安心を感じていた。


 ただ二人に言えないことが一つあった。

 死んだその子も、ケンジのことが好きだった。もしかしたら、私のことを今でも恨んでいるんじゃないだろうか?


 翌日。

 私は、ケンジの運転する車で地元に戻った。川田さんは「家のことがあるから」と着いては来なかった。


 昨日から、少しだけ川田さんは私の言うことを疑っている節があったので、しょうがない。霊的なことなんかカウンセラーは専門外だろう。


 それよりも彼と二人きりになるのは、いつ以来だろうか。


「ねぇ、ケンジ」

「ん?」


 運転しながら、答える。


「私……結婚のことなんだけど」


 その時、窓から見える景色に違和感を覚えた。こっちは逆方向だ。


「ねぇ、ケンジ。道、間違ってるんじゃない?」


 ケンジは返事をしない。車はしばらくして、どこかのビルの駐車場に入って行った。


「降りてくれ」


 シートベルトを外しながら、彼が言った。


「どこなの、ここ?」

「……川田さんに紹介してもらった。一度、診察を受けてくれ」


 目の前の世界が一瞬で崩れた気がした。


 ケンジだけじゃなかた、川田さんもグルだったなんて。


「卑怯者」

「降りろ!」


 ケンジがシートベルトを外して、昨日と同じ力で私を引っ張る。


「いやっ! 離してよ!」

「そんな状態じゃ結婚なんかできないだろ! これ以上、高村さんに迷惑かけるな!」


 彼の口からその言葉が出た瞬間、もう何かもがどうでも良くなってしまった。


「俺も兄貴として、お前をちゃんと嫁がせる義務があるだろ。今のままで結婚したら、相手の方々、どうするんだ」


 足元からジワジワと嫌な感じが昇ってくる。恐る恐る、足元を見る。


 水だ。


「俺も兄貴として、もうお前に付いてられないだろ。これからは高村さんがお前の旦那さんになるんだから」

 

 ジワジワと凄いスピードで私の体を伝ってくる。


「いやぁ!」


 私は車を飛び出した。走りづらいヒールだが、浅いうちに逃げようと決めた。


「恵那!」


 ケンジの声がコンクリートに響いた。

 エレベーター、じゃ閉じ込められる。階段を走って昇る。私を追いかけてくるように水が下から迫ってくる。


 昇っても昇っても。


 ビルの屋上のドアを開ける。

 波のような水が、階段を登って私を追いかけてくる。


「いや」


 もう、上には行けない。

 後ろに後ずさりしていく。


「いやああ!」


 気付けば、私の体は下へと落下して行っていた。ヒールは知らない間に屋上で脱げていた。



 思えば、あの時からか、水が浸水して来たのは。


「恵那、俺、結婚することになった」


 実家に呼ばれた私、ケンジの横には知らない女性の姿。向かいに座らされた、お父さん、お母さん、そして私。


「恵、これが俺の妹の恵那。妹だけど俺と同い年だから」


 笑って彼女に私を紹介するケンジ。


 そこで世界が真っ暗になった。














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