第2話 膝以上天井未満
ベッドで体を横にして目を開くと、視線の先には水面が広がっている。もう、マットレスにも余裕がない。
海のど真ん中で寝ているような威圧感と孤独。眠るのがこんなに怖いと思う日が来るなんて。
目を瞑ると水がマットレスを這い上がる足音が聞こえて、恐怖でスグに目を開けてしまう。
医者から貰った睡眠薬が無理やり眠気を与えてくれるけど、寝ている自覚がないまま朝を迎え、会社に行くことが増えた。
小さい不注意のミスが増えて、仕事にも支障がではじめた。
でも、こんな状況を上司に知れたら、せっかく勝ち取った今の仕事から外されてしまう。
代わりなんていくらでもいるし、虎視眈々と隙を狙っているライバルも大勢いるので、職場で相談する人もいない。
肝心のケンジに相談しても「少し休んだほうがいい」といなされてしまうだけ。
ケンジにそう言われるのが一番のストレスだと、どうして気付いてくれないの。
心のすれ違いで、いつも怒鳴って電話を切ってしまう。
友人のツテを頼って、川田さんというカウンセラーの方に話を聞いてもらうことにした。
結婚して、本業としては引退されていた方だったので暇らしく、親身に話を聞いてくれた。
「本当に……大変そうね」
私の部屋を初めて見て、川田さんは目を丸くしていた。水でわからないが、部屋の中は相当散らかってしまっているのだろう。
やっと信じてくれる人ができたことに私はホッとしていた。
しかし、川田さんが帰ったその晩。
眠っていると、突然、息ができなくなり目を覚ました。呼吸をしようと口を開けると、中に水が侵入してきてしまう。
起き抜けで、最初は何が起きているのか解らず頭が混乱したが、ジタバタともがくと頬に当たる泡の感触で、「水がベッドの上まで来てしまったんだ」と気付いた。
「ブハッ!」
体を無理やり起き上がらせて、なんとか水面から上半身を脱出させられた。大きく乱れた呼吸とともに、全身に伝わって来る水圧の強さにゾッとする。
ベッドに座った状態だと水面が既に私の胸の辺りまで来ていた。枕元の小物を置く棚が見えなくなっていた。
「どうしよう」
私は顔を覆って、その場で涙を流した。水位が急に上がったせいで、もう横になって眠ることもできない。
翌日。
私は会社を休んだ。川田さんと会って、どうやって眠ればいいのかを話し合った。
私のせいで、立ち飲みの喫茶店に入るしかなくて、申し訳なかった。
「台でベッドの高さを上げるしかないかもね」
川田さんのアイデアだが、私もそれは考えた。でも、ジリ貧で問題の先延ばしにしかならない気がした。
「カプセルホテルとかなら、高い位置の部屋に泊まれば、大丈夫じゃないの?」
川田さんのその言葉を聞いて、昨日のことを思い出しゾッとした。閉じ込められた状態で、あの水が迫ってきたら、もうどうすることもできない。
「もう、ベッドで眠るのが怖いです」
川田さんには自分の正直な気持ちを打ち明けることができた。。
けど、物足りない。
私が本当に聞いて欲しいのは、この人じゃない。
「私の方からも、ケンジさんに言ってみるわ」
そう言ってくれた川田さんと別れ、私は立って眠る場合を想定し寝袋を買いに行くことにした。
キャンプ用品店に入っても、ほとんどの商品はもう水の中で、高いところに置いてある商品以外は店員さんに頼んで選んでもらった。
一人でぼーっと店を回っていると、ふと昔にケンジと買い物をした時のことを思い出してしまった。
帰りはバスがあったが、空いているにも関わらず、ずっと立っている私を周りは少し変な目で見ていた。
水が重い。前に進むのも一苦労だ。しかも、横断歩道やドブも見えないので、注意して歩かないといけない。
なんとか重い足取りで、ヘトヘトになりながらマンションにたどり着いた。
「ケンジ」
マンションのロビーのところに彼が一人で立っていた。
「どこに行ってたんだ?」
と、ケンジは私の買い物袋をちらっと見た。私は水面の中にあるために見ることができない。
「ちょっと……友達とキャンプに行くから……」
そう言った途端、ケンジが私の右手を無理やり掴んできた。
「行こう」
「なにっ?」
「川田さんから連絡が来た。病院に行こう」
その言葉に、彼の手を思いっきり振りほどいた。やっぱり、ケンジは私のことを信じていなかった。
「恵那!」
ケンジは、私をまるで子供のような叱り方で、もう一度腕を強く握って来た。咄嗟に私もカッとなり、さっきより強い力で振りほどこうとするが、ケンジの手がスッポンのように離してくれない。
「なんで信じてくれないのよ! どこも悪くないって言ってるでしょ!」
「いいから、俺のいう通りにしてくれ! 一回、病院でちゃんと診てくれ!」
私の手首を握り潰すような強さで、さらに握って来た。
「このままじゃ結婚なんて、とてもできないだろ!」
彼にそう言われた途端、頭に一気に血が上っていき、私は我を忘れてケンジの手を振りほどいた。
勢いで、ケンジはよろめいて、床に倒れこんでしまい、私の視界から消えてしまった。
私は涙を流しながら、マンションのエレベーターに飛び乗った。
部屋に帰ってからも、壁に顔を埋めて、泣き続けた。
どれだけ泣いても、ケンジの足音か近付いてこなかった。
その晩。
私は寝袋で壁にもたれながら、立って眠っていた。すると、また息苦しさに目を覚ました。
また水位が上がっている。苦しくて、足をバタバタさせてモガいた。
え?
どれだけ足を伸ばしても、床がない。
水に体が浮いている。
苦しむ頭で理由を考えると一つしかない。部屋が全て水で満たされてしまったということだ。
「助けて……ケンジ」
そう、心の奥で願っていると、次第に意識が遠のき始めた。
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