浸水する女

ポテろんぐ

第1話 足元以上膝下未満

 ベッドから起き上がるとピチャンと足先からヒンヤリと音がした。

 見下ろすと……ちょうどマットレスの少し下の高さまで部屋中、水で満たされている。先週、壁に貼った水位のテープはもう水に隠れて見えなくなってしまった。


「また、水位が上がってる」


 私は起き上がり、膝下まで水に浸かった足を引きずって私は、浸水した部屋を歩き出した。


「ドワッ!」


 足元にあった何かを踏んづけた。浸水した水のせいで、床に落ちているものがほとんど見えなくなっている。


「ドライヤーか」


 そういえば、数日前に使ってから、見ていなかった。こんなキッチンとお風呂の近くに落ちていたのか。

 私は、まだ水が上がってきていない高さにドライヤーを置き直した。コンセントは、水面の中で、もうどこにあるのか見えないから挿したままだ。


「とにかく会社に行かないと」


 

 もう、随分と前で詳しい日まで覚えていない。ある日、突然、私の足元から水がじんわりと滲み上がって来るようになった。


 最初は足が隠れるくらいだったが、徐々に足首、すね、膝と日を増すにつれて、水位はじわじわと上がって来ている。

 医者にも行ってみた。

 が、「精神的なストレスや慢性的な疲れが、水のように見えている」としか言ってくれない。


 私は、今の仕事にはやりがいを感じている。

 念願だったコンペにも通り、やっとやりたい仕事ができる環境になって来た。ストレスも、なんせ再来月には結婚を控えている身だ。むしろ今が幸せの絶頂期のはずだ。


 なのに……。



 からん。

 ケンジとの食事中、レストランの床にフォークが落ちてしまった。ちょうど垂れ下がっているテーブルクロスの下にまで水位があるせいで、私のフォークは水の中へ見えなくなってしまった。


 水は濁っていて生臭い。それに……


 ちゃぽん。


 私が顔をつけると、本物の水と同じ感触が帰って来る。もちろん、中に顔を入れると呼吸もできない。


 幻覚ではない、本物の水なのだ。


「はい」


 彼が心配そうな顔でフォークを取ってくれた。


「ありがとう」


 私は苦笑いでフォークを受け取る。


「一度、病院に行ったほうがいいんじゃない?」


 店員がすぐに変えのフォークを持ってきた。


「行ったんだけど……ストレスだとか、仕事の疲れとかって言われて、全然相手にされないのよ」


 もう、二人の間を何度も交換しているやりとり。彼はそれ以上、突っ込んだことを言ってくれない。


 私は左腕につけたスマートウォッチを彼に見せた。婚約を期に「家族の健康が第一だからね」とケンジがお揃いのものをプレゼントしてくれた。


 私は、彼のこういう優しいところが好きだった。


「これで調べても何の異常も見当たらないわよ」

「じゃあ、ストレスとかではないのかな? 自律神経とかも乱れてないなら」


 そう言って、彼は口を押さえて、考え込んでしまった。少し理屈っぽいところがケンジの難点だ。「一緒になんとかしよう」とか、安心する言葉を欲していることに気付いてくれない。


 私だって二ヶ月後、浸水した式場でウエディングドレスを着るなんて、真っ平ゴメンだ。というか、このままじゃ結婚どころか日常生活に支障をきたしてしまう。


 食事の後、彼と別れ、私は自宅で一人お風呂に入っていた。

 水は湯船のヘリのすぐ下辺りまで来ている。これ以上、水位が上がったらお風呂も入れなくなるんじゃないだろうか?


「恵那! 恵那!」


 ハッ! と目を覚ますと、ケンジが目の前に座っていた。ベッドの上、自宅のではない感触。見慣れない景色。辺りを見回し、消毒臭い匂いがする。


「ここ、病院?」

「浴室で倒れてたんだよ!」


 え? 倒れた?


 ケンジは、私に連絡をしても全然応答がないので、心配に思って見に来たら、浴室に倒れている私を発見し救急車を呼んでくれたそうだ。


 ベッドの下を見ると、水位がかなり上がっていた。


 そうか、お風呂で眠っている間に水が上がって来て、溺れたのか。もう、お風呂にも入れないのか……。


「どうしよう、ケンジ」


 私はベッドの上で涙を流した。お風呂どころか、このままでは私の命が危ない。

 なのに……


「とにかく、いい病院を見つけよう。まずは、そこからだ」


 彼から帰って来た言葉に、私は突き放された感覚を覚えた。薄々気付いていたけど、やっぱりそうなんだ。


 ケンジは、私が浸水して行っていることを信じていないのだ。












  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る