白昼夢

 これは夢だ。


 そう思いたい局面はこれまでの一〇年間でも数えきれないほどあったけど、今回は特に切実だった。


 バイクにはね飛ばされて、宙を舞うわたし。


 これが現実なら、現在進行形で死に向かっていることになる。


 死神の姿は人によって違って見えることだろう。それがレントゲンに映った影のこともあれば、通り魔のにたついた表情だったりすることもあるんだろうけど、わたしの場合は黒いアスファルトだった。あとはぼんやりとして見えない。衝突の瞬間、眼鏡を飛ばされてしまったのだ。


 眼鏡という覆いを失った世界はその本性をあらわにしている。


 どろどろで、曖昧で、不定形な、裸のままの世界。


 わたしは目を閉じた。そうすれば、この悪夢から目覚めるとでもいうように。いつか見たノワール映画みたいに、主人公の死から時間が逆戻りして物語がはじまるのを期待するように。


 全身を襲う衝撃。


 何かが砕ける音。


 体が地面で跳ねるようにして転がっていく感覚。


 その全てが夢であることを願いながら、わたしは意識を失った。


   ※※※ ※※※


 といってものっぺらぼうなわけじゃない。むしろ、は百面相だ。夜ごと顔を変える。だけど、彼自身の顔というものはない。だから、顔なし。


 その夜は、古い映画俳優の顔をしていた。君のお父さんがよく見せてくれる、白黒のアメリカ映画で何度か見た顔だ。そのせいだろうか、昨夜の夢はモノクロからはじまった。


 夢の中ではなんだってできる。どこだって行ける。顔なしはその案内人だ。君は彼の導くまま、世界中の名所を巡り、歴史的事件の現場に立ち会って来た。


 その夜はどこかの捕虜収容所が舞台だった。怖い看守が見回りに来る、薄暗くてじめじめとした牢の中。しかし、君には顔なしがすぐ迎えに来てくれることがわかっていた。映画と同じだ。これは、脱出の解放感を演出するための前フリに過ぎない。自然と頬がにやけ、看守の不審を買ってしまった。可愛そうな人、自分が夢の住人だってことにも気づかない。果たして、その夜の顔なしは看守の相方に化けていた。もう一人の看守を適当な口実で追い払うと、悠々と牢を開き、君を連れ出した。


「待たせたね。お姫様princess


 手に手を取り合い、くたくたになるまで走り続けた。夢の世界は融通無碍だ。気が付いたら視界いっぱいに色とりどりの花が咲き誇っていた。遠景にはアルプスの山々が軒を連ねている。これが今回のご褒美。鞭に対する飴だった。二人で寝転がり、抜けるような青空と吹き抜ける風に自由を実感した。これが映画ならエンドロールが流れる頃合いだろう。神様もそう判断したのかもしれない。君はそこで目覚めた。


「『サウンド・オブ・ミュージック』みたい」友達の一人が言った。


「なにそれ」別の友達が言った。


「ほら、ミュージカル映画の。見たことない?」


 顔なしのことは、友達ならみんな知っている。君の夢に夜ごと出てくることも、君には彼がすぐにわかることも、映画俳優からスポーツ選手、歴史上の偉人まで自由自在に顔を変えることも。


「やっぱり、お医者さんに一度話した方がいいんじゃない」そう心配するのはミクだ。「だって、事故以来なんでしょ」


 五年生に上がる少し前、君は自宅の近くでバイクにはねられた。一時は昏睡状態に陥ったがその日のうちに意識が戻り、一週間後には退院した。顔なしの夢を見るようになったのは、それからすぐのことだった。

 

「大丈夫だよ」


 君は言った。顔なしのこと以外は何もかも以前と同じなのだ。肋骨や脚の骨もとっくにつながってる。勉強だって絶好調だ。


「そう?」なおも心配するミクだったが、それ以上は何も言わなかった。


 君が昨日の夢について話し終えると、話題は別の「夢」に移った。といっても文字通りの夢ではない。最近、友達がよく出入りしているお店の名前だ。フランス語で白昼夢を意味するらしいが、何度聞いても覚えられそうにない。話を聞いてるだけだと、アパレルショップなのか雑貨屋なのかの区別もつかなかった。あるいは、全然別の業種なのを君が勘違いしているだけかもしれない。白昼夢は校区の外だ。お父さんに出入りを禁じられている。あの事故以来、特に厳しく言いつけられていた。


 君が、生来の弱視であることに感謝するのはこんなときだ。眼鏡の掃除で時間が潰せる。年季の入ったべっ甲フレームの眼鏡だ。ウェットタイプのクリーナーとクロスを使って優しく丹念に磨いてあげると、きゅっきゅっと気持ちのいい音で孤独を慰めてくれる。


「退屈してるね」


 それは紛れもなくオクダさんの声だった。五年生になって一緒のクラスになった、ちょっと「進んでる」女の子で、特にミクと仲良くしている。いまではグループの中心的存在になっていた。しかし、その口調と抑揚のつけ方は紛れもなく彼の――のものだった。


 顔なし。


「こんな子たちはほっといて遊びに行こう」僕は続けた。「どこがいい? ヨーロッパのお城? それともニューヨークの摩天楼かな?」


   ※※※ ※※※

 

「驚かせたのは謝るよ」


 顔なしが謝罪したのは、次の日の夢のことだった。わたしがむかし通っていた英語教室の先生の顔だ。まるで出来の悪い生徒に相対したときのように、澄んだサファイア色の瞳に困惑の光を浮かべている。


「でも、退屈していたのは事実だろう?」彼は続ける。「どうせ夢なんだ。自分の好きにすればよかったのに」


 そうもいかない。そう思ったのは、昨日の夢があまりに生々しかったせいだろう。夢と気づけなかったのもそのためだ。普段なら、顔なしに気づかないなんてありえない。


「君はいつも仲間外れにされてるじゃないか」顔なしは弁解する。「見ていて痛々しかったんだよ。だから、せめて夢だけでも助けてあげようと思ったんだ」


 それは事実だった。退院して以来、友達の話に入っていけないことが多くなった。おそらく、オクダさんの影響だろう。みんな彼女に感化されて、大人っぽくなった。ついていけないのはわたしだけだ。共有できる話題なんて何ひとつなくて、昨日見た夢の話くらいしかできない。


 あるいは、顔なしが元凶なのかもしれない。彼がいればこそ、わたしは夢に魅せられたのだ。頭の中がそれでいっぱいになって、周りの変化についていくことができなくなった。


「僕のせいにするのかい」


 ジム先生の顔が悲しげに歪む。わたしがどうしてもRの発音ができなかったときと同じ表情だ。その顔を見ると、いつも自分がとても悪いことをしている気分になった。自分が世界で一番愚かな子供であるかのように思えた。


「そんな顔をしないで」わたしは顔を背けながら言った。「わたしだっていつまでも子供のままじゃいられないの。いつか恋だってするだろうし、メイクだってするようになる。あなたとばっかり遊んでもいられない」


 そうだ。そうなのだ。いつまでも夢の話ばかりしていたんじゃきっといまに呆れられる。


「本当に? 本当にそう思ってる?」顔なしは言った。「友達っていうのはそこまで大事なものかい? 自分に嘘をついてまで守らなきゃならないものかい? 僕はどうなる? 僕だって友達だろう。君の一番古い友達」気づけば、すぐ目前にジム先生の顔があった。長い脚を折りたたみ、わたしに目線の高さを合わせている。驚く間もないまま、顔なしはわたしの手を取り、こうささやいた。「いや、友達よりももっと大事な存在だ。そうだろう? お姫様princess


 完璧な発音の「princess」に背筋がぞっと粟立った。


 出会ってからおよそ半年間、わたしたちはずっとうまくやってきた。なのに、どうしてだろう、ときおり彼のことが怖くてしょうがなくなるときがある。日中、ふとした瞬間に彼のことを思い出して背後を振り返ることがある。もちろん、そこには誰もいない。いたとしても、それは顔なしではない。そのはずだ。彼は特定の顔を持たない。誰でもなくて、誰にでもなり得る。その気になればどこにだって潜り込めるし、四六時中わたしを観察することも可能なはずだった。その可能性を否定することは、誰にもできない。


   ※※※ ※※※


 君がミクに頼んで例のなんだかわからないお店に連れて行ってもらうことにしたのは、その数日後のことだった。


「校区の外だよ、いいの?」


 ミクの声を落として尋ねた。


「わたしだってもう五年生だよ」君はあえて冗談めかして言った。「校区の中で飼い殺しにされたんじゃ、息が詰まっちゃう」


 最近は二人きりになるだけでも一苦労だ。朝から機会を窺っていたのに放課後までまるで隙がなく、ようやっとオクダさんたちがいなくなった頃には、もう君の家のすぐ手前まで来ていた。「じゃあね」という言葉を遮って用件を切り出す。ミクは驚いたようだった。ミクはしばし呆然とした後、今度は周囲を見回し、それから傘がぶつかる距離まで寄ってきてひそひそ声で話しはじめた。君の家を避けるようにして、同じ小路を何度も往復する。まるでスパイの密会だ。曲がり角の理髪店で、主人のおじさんがいぶかしむような目線を投げかけてくるのがわかった。


 ミクは、小学校に上がる前からの友達だ。近所の英会話教室で隣同士になって以来、ずっと一緒にいる。きっかけは眼鏡だった。「眼鏡かけてるのわたしたちだけだね」小柄な女の子がそう話しかけてきたとき、君たちは友達になった。以来、クラスで「眼鏡の二人」と言えばそれは君たちのことだった。


 ミクがコンタクトレンズに鞍替えしたのは、オクダさんの後押しによるものだった。オクダさんに出会ってからというもの、ミクは一足飛びに大人の階段を上って行くような気がした。門限は延びたし、「白昼夢」にだって頻繁に足を伸ばす。君が勝っているのは身長だけだ。それだっていつ逆転してもおかしくない。胸が膨らみはじめたのだって彼女の方が先だった。


 うらやましかったわけじゃない。妬ましかったわけでも。ただ、ほんのちょっと悲しかっただけだ。そして何より、そのことを負い目に感じているらしいミクを見ていると胸を締め付けられる思いになった。自分はきっと、ミクの負担になっている。その事実が、君には何より堪えた。自分みたいに陰気な人間がそばにいることで、ミクの印象を損ねているとしたら、君には耐えられない。彼女の友人として、恥じるところのない存在になりたかった。笑い者にされることのない存在になりたかった。そのためにも、君は「白昼夢」に行かないといけない。


「わかった」


 ようやくミクが折れたとき、雨はすでに小降りになっていた。


「じゃあ、今度の土曜日ね」


 そう約束して、別れた。理髪店のおじさんに見せつけるようにして、大げさに手を振って見せる。ちらりと窺うと、おじさんは興味をなくしたように手元の新聞に目線を落としていた。


   ※※※ ※※※


「いいのかな。お父さんの言いつけを破って」その夜、顔なしは言った。「いまの君はどうかしている。こんなのは全然君らしくないよ」


 顔なしの言いそうなことだ。だけど、もう相手にしない。わたしは理髪店のおじさんの顔から目を背けた。


「本当は興味なんてないくせに」顔なしは冷たく言った。「そうだろ? そのお店の名前だってすでに忘れているはずだ」


 我慢しろ、と言い聞かせた。ここでむきになったら顔なしの思うつぼだ。


「あくまで無視するつもりか。いいだろう。君がその気ならこっちにも考えがある」


 その考えがどのようなものかはすぐわかった。


   ※※※ ※※※


 その日は久しぶりに晴れ間が広がった。昨夜まで降り続いた雨が道路のいたるところに水たまりを作っているが、それもすぐに干上がるだろう。太陽はこれまでの鬱憤を晴らすようにして燦々と照り付け、まるで夏が戻ったような暑さだった。とはいえ、真夏ほどではない。絶好のお出かけ日和だ。これが夢ではないことを願う。


「待った?」


 ミクとは近所の交差点で合流した。肩が出たカットソーに、キュロット。肩からポシェットをかけている。途端に、自分の格好が子供っぽく見えてくる。


「じゃあ、行こうか」心配をよそに、ミクはにっこりと微笑んだ。


 今日はミクと二人きりだ。他の友達を誘うことも考えたけど、どことなく気が引けた。校区の外に出る、という後ろめたさがそう感じさせるのかもしれない。


 「白昼夢」へは歩いて向かう。校区の外とはいえ、そう遠くないらしい。十五分も歩けば着くとのことだった。


「ねえ、昨日も見た?」ミクが尋ねた。


「テレビのこと? ごめん。昨日は塾があって……」


「そうじゃなくて夢のこと」


 息を飲んだ。それから慌てて首を振る。


「ううん。もう見なくなっちゃった」


「そう」ミクはどこか考え込むように言った。「その方がいいんだよ、きっと」


「夢の話はもういいじゃない」努めて微笑んだ。「わたしたちこれから白昼夢に行くんでしょ」


 ミクは苦笑して、正しい店の名前を発音した。やはり何度聞いても覚えられない。それも店に行けば変わるだろうか。


 近所の中学校を迂回するようにして進むと、産業道路に出た。向かいの歩道に見覚えのある顔を見つける。理髪店のおじさんだ。目が合うと、驚いたようにして、なんでもなかったように歩きはじめる。


「どうしたの」ミクが怪訝そうに言った。


「ううん。なんでもない」


 本当はいまにも心臓が口から飛び出しそうだった。理髪店の休業日は月曜日だ。今日じゃない。どうしてこんなところにいるんだろう。まさか顔なしが? ということは、これは夢なの? 疑問がどんどん膨れ上がって、胸を押し潰そうとする。


 向かいの歩道に目をやる。おじさんは同じ方向に向かって歩いていた。やがて、ミクは右手に折れ、細い道に入ったが、ずっと背後が気になっていた。そのせいだろうか、それに気づくまでずいぶんと時間がかかった。


「ねえ、来た道を戻ってない?」


「そんなことないよ」ミクは否定した。


「でも、この方向って……」


 疑念は確信へと変わっていった。白昼夢へと向かっていたはずの道はやがて見覚えのある道、毎朝通っている道になった。


「ねえ、ミク……」


 ミクは君の腕をつかみ、どんどん進んでいく。理髪店の前で折れ、そして……


「本当は白昼夢なんてどこにもないの」ミクは言った。「リサ……オクダさんが勝手にそういう設定を考えて、みんなが追従してるだけ。あの子はそうやって自分の嘘が広がるのを楽しんでる」


 彼女が示した建物は、二階建ての一軒家、君の家に違いなかった。


「顔なし」君はつぶやいた。


 ミクの顔をしたがにたあと笑うのを見て、君は駆け出した。


 夢だったのだ、と君は思った。これは顔なしが周到に仕組んだ罠。そうに違いない。


 逃げるようにして、住宅地を駆け抜け、二車線の広い道路に出る。信号が青に変わるのを見て、そのまま横断歩道を駆け抜けた。


 次の瞬間、君は大きな音を聞いた。


 それがバイクのブレーキ音だと気づいたときにはもう、宙を舞っていた。スローモーションで流れていく景色をぼんやりと意識しながら、君はゆっくりと降下し、地面に叩きつけられた。


 意識が暗転する。


 目覚めると病院のベッドの上だった。


   ※※※ ※※※


 わたしは春休みに家の近所でバイクにはねられたらしかった。衝撃で意識を失い、半日ほど眠り続けていたが、その日の夜には意識が回復した。肋骨と脚の骨が折れているという。映画でよく見るように、脚がベッドで宙吊りになっていた。とはいえ、それ以外は軽傷で済んだらしい。一週間ほどで退院でき、しばらくは松葉杖をつきながら生活することになった。


 意識を失っている間、長い夢を見ていた気がする。それがどんなものだったかは思い出せない。ただ、誰かとずっと一緒にいた気がする。顔も名前も思い出せない。思い出そうとすると、どこか懐かしくも物悲しい気持ちに襲われる。


 学校に復帰すると、もう新年度に入っていた。ミクと同じクラスになったことはすでに知っていた。他の何人かの友達も。しかし、その中に見知らぬ顔があった。オクダさんという少し「進んだ」女の子だ。大人っぽい服装をして、こっそり色付きのリップを塗っている。特にミクと仲がいいらしく、休み時間はいつも一緒になった。


「ねえ知ってる?」その日、オクダさんはわたしたちに尋ねた。「いい店があるんだよ。名前は……」


 その店の名前はフランス語で白昼夢を意味するらしかった。


   ※※※ ※※※


 夢の中で、僕らは何度でも巡り合う。


「あなた、前にもいなかった?」


 それが僕らの合言葉、かくれんぼの「みーつけた」だ。


 幾多もの顔の中から、君は僕を探し出す。


 毎夜毎夜、飽きることなく探し出す。


 これは束の間の蜜月。


 いずれ終わる夢の時間。


 僕らは何度でも繰り返すだろう。


 君が目覚めるその日まで。

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