御伽噺
それはありきたりな御伽噺。
囚われのお姫様と、それを助け出す王子様。ありふれて、何の目新しさもない物語だ。だけど、世界がどうしてそんなことに頓着するだろう。現実っていうのは時に物語作家を唖然とさせるほど非現実的でメルヘンチックになりうるのだ。自然界の法則だとか社会的なルールだとか、それら無数の力学が互いに干渉し、その結果として思いもよらぬ現実をわたしたちの前に運んでくる。
何が起きたって不思議ではない。
この世界で起こることすべてがそうであるように、王子様の出現もまた唐突だった。そこには何の伏線もなく、前兆も予感もない。世界はわたしの知らないところで回り続け、わたしの知らないところで結論を出し、わたしはそれを自分にかかわる形でしか知ることができない。その結論とはたとえば、城の周りに張り巡らせた塀や厳重に施錠したはずの門戸をすりぬけてやってくる王子様だ。鏡だけが友達だったわたしに、笑みを浮かべて手を差し伸べる王子様。
――ほら、顔を上げて。ドアを開けて飛び出そう。足元が不安定ならこの手を握るといい。いつまでって? この曖昧でどろっとした世界が、きみが感じていた孤独のように確かなものになるまでずっと。
王子様と言うには、ぱっとしない男だった。そう言うわたしだってお姫様なんて柄じゃない。鏡に訊かずとも自分が美しい女の子じゃないことはわかる。
なのに、なぜだろう。わたしは差し出された手を握り返していた。この御伽噺を受け入れた。
――やっぱり無理。
言ったそばから、わたしはぬかるみに足をとられた。
――ほら、無理なんだよ。わたしにはあなたみたいに穴ぼこやぬかるみを避けてとおる方法がわからない。
――いつかわかるようになる。それまでずっと僕が手を引いている。
――本当に?
――ああ、本当に。
彼はまた歩き出した。
彼はまるで世界のすべてを知り尽くしているかのようだった。地面のくぼみや鳥の糞を器用に避け、野犬の群れをやり過ごし、トラックが信号を無視して交差点に突入してくるのを察して立ち止まった。
わたしは手を引かれるまま、おそるおそる彼についていく。何かに躓くたび、空から何かが落ちてくるたび、逃げ出したいと叫びたくなる。目の前でトラックと車が正面衝突したときは、実際に悲鳴を上げてその場にへたり込んでしまった。彼はわたしを少し休ませた後、また歩きはじめる。ちっとも動揺しない彼が呪わしい。犬の糞でも踏んでしまえばいいのに。
そこまで考えてはっとした。
どうして、わたしは「彼」を認識できているのだろう。
人間もまた世界の一部だ。この曖昧でどろっとした世界、めまぐるしい速度で回転する世界の。お城の外にいた頃、わたしには家族や友人でさえも蜃気楼のように曖昧に思えた。白昼夢のように非現実的に思えた。彼らの像は安定せず、瞬きの度にその姿や名前を変えた。昨日まで親しかった友人が意地悪な上級生になり、出張から帰って来た父親はまったくの別人になっていた。世界はわたしが成長するにつれていっそう早く回るようになった。
これで、いったいどうして他人に対して一貫した感情を抱くことができるだろう。怒り、憎しみ、嫉妬、愛情、友情、どんな感情をぶつけたところでまるで手ごたえがない。虚空に向かって喚いている自分に気づくだけだ。後ろ指を差され、笑われるだけ。そちらに怒りを向けたところで、彼らはもう存在しない。わたしの感情は宙をさまよう。鏡ひとつを手にお城にひきこもったわたしを誰が責められよう。
なのに、彼は消えない。
ずっと一貫した人格として、わたしの前に存在する。
――ほらね。もう転ばなくなった。
彼が振り返って微笑む。若い男性の顔だ。その後もずっとそうだった。瞬きをしても一緒。信じられなくて何度も目を瞑り、開いた。彼はそこにいた。瞬きのたびに移り変わる世界の中で、彼だけが不変だった。
――手を離して歩いてみるかい?
当然そうすべきだ。なのに、わたしは答えることができない。彼の目を避けるようにしてうつむき、それでいて、手のぬくもりだけはしっかり意識していた。
ここで手を離したらどうなるだろう。彼は消えずにそのまま存在していられるだろうか。わたしはこのだだっ広い世界に置き去りにされたりしないだろうか。久しぶりに灯った感情が消えたりしないだろうか。次々と湧き上がる不安が涙となってこぼれた。
――君は僕が嫌いかい。
――嫌い。でも……
――何だい。
――責任は取ってもらうから。
――責任?
――そう、わたしを連れ出した責任。だから……
わたしは男に表情を見られないようにうつむきながら続けた。
――もう少しこのままでいい。
わたしは彼の手を握りなおした。彼の手がぎゅっと握り返す感触がした。
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