第九章 8

 ニコライを除くスモレンスク・シェルター出身の五人は引き離され、船底近くにある複数の部屋を改造して作られた牢に、一人ずつ閉じ込められた。


 アレクセイ達は、ニコライが復讐を掲げる連中にくみしたことに激しく落胆し、再び絶望の渦に突き落された。




 午後九時。


 アレクセイは、ニコライがわざとノヴェ・パカリーニャに加入し、潜入作戦を遂行して活路を切り開こうとしているのではないかと考え、わずかではあるが希望を見出していた。


 その望みを糧に、前向きに脱出方法を検討し始めた時だった。突然、壁に備え付けられた簡素な通話機の呼び出し音が鳴ったかと思うと、聴き慣れた声が聞こえてきた。



「理想ではなく、現実についての話をしよう、アリョーシャ。オレ達はもう、平和には生きられない。また、あいつらがやって来る。兄弟姉妹を殺しに来る。ここ以外に居場所はないんだ。ノヴェ・パカリーニャから守ってもらおう」



 通話機を介して扉の向こうから語りかけてきたニコライに対し、アレクセイは静かに、しかし強烈な怒りを込めて反論した。



「ふざけるな、ニコライ。あいつらは戦争をしようとしている。あいつらの思想は危険だ。言葉の端々から、べたつくような悪意を感じる。ブルガーニンは復讐に狂った男だ。俺たちを守るのではなく、飲み込んで利用しようとしているだけだ!」



 裏切られた。ニコライは演技をしてノヴェ・パカリーニャに入り込んだのではなく、望んで加入したのだ。


 アレクセイはそう確信して絶望し、無意識のうちに、兄弟を愛称で呼ぶのをやめていた。叫ぶアレクセイに対し、ニコライは冷たく反論する。



「ノヴェ・パカリーニャは安全な隠れ家を持っているが、トムレディーは違う。彼女は駄目だ。オレ達を拉致したCIAの一員なんだからな。たとえ彼女が善人だとしても、オレ達を拉致した派閥からは守りきれないはずだ。情報は筒抜けだろうからな」



「そうかもしれないが、でも――」



「理想にすがるのはもう止めろ、アレクセイ。お前の悪い癖だ。いいか、何度でも言うぞ。トムレディー一人だけで、オレ達を守れるとは思えない。相手は国家なんだ。オレ達を守れるのは、相応の力を持った同胞だけだ。ノヴェ・パカリーニャ以上に安全な場所はない」



「安全に思えるのはわかる。でも、それは安堵感のせいだ。ノヴェ・パカリーニャの思想は危険だ。あいつらは、ベロボーグ計画のしき部分を崇拝してるんだぞ?」



 ニコライはまばたきの回数が極度に減っている目を見開いて、強く反論した。


「危険なのは、アメリカ政府の連中のほうだ。あいつらから守ってくれるノヴェ・パカリーニャこそが、オレ達の味方だ。ベロボーグ計画の何が悪い。自分の身を守るだけだ。アトヴァーガを殺した連中から逃げ、いつか必ず、かたきを取るんだ」



 アレクセイが兄弟の心を叩き直そうとするかのように、扉を何度も殴りながら反論する。



「復讐することなんか考えるな。皆で一緒に生きることが重要なんだ。だから、俺から離れるな。トムレディーさんがきっと助けに来てくれる!」



「何度も言わせるなよ、アレクセイ。相手は、トムレディーがわざわざ単独行動しなければ出し抜けないような大組織だ。彼女は、情報が漏れてしまわないように単独行動したんだぞ。つまり、周りは敵だらけだということだ。逃げ切れるとでも思ってるのか?」



「だからといって、あんな危険思想を抱く連中の仲間になってはいけない!」



「危険思想を抱いているのは、オレ達を拉致して拷問した、あの連中のほうだろう!」



 ニコライが言い放った言葉に、アレクセイは一切反論できなかった。


 沈黙するアレクセイに、ニコライが声色を落ち着かせて語りかける。



「頼むよ、わかってくれ、アリョーシャ。オレ達がいだいていた平和への覚悟は、踏みにじられたんだ。戦わなきゃ居場所は得られない。アトヴァーガのように殺されるだけだ。きっと、拉致された時に通信していたブリャンスク・シェルターのみんなも殺されただろう。オレ達のせいで、うまく隠れていた彼らまで巻き込んでしまった。オレ達は、力を合わせて隠れるしかないんだ。ノヴェ・パカリーニャには力がある。必ず守ってくれる」



「違う。逃げ切る方法は、きっとある。だから――」



「逃げられないんだよ。現実は残酷なんだ。オレ達の世界は変わってしまった。それを受け入れろ。オレはもう駄目だ。駄目なんだよ。オレは憎んでるんだよ。あの日、警戒を解いた自分をな。オレが心変わりせずに、お前らに嫌われてでも武装をして地上に出ていたら、拉致なんかされずに済んだ。兄弟姉妹が傷つかずに済んだ。ブリャンスク・シェルターのみんなやアトヴァーガを殺されずに済んだ。オレはもう後悔したくないんだよ。みんなを守るためなら、居場所を作るためなら、何だってする。だから、オレは戦うんだよ」



 アレクセイはまたも反論できず、兄弟の心を慰めるための言葉しか用意できなかった。



「お前はみんなを守ろうとしていたのに、俺たちはそれを否定し続けた。すまなかった」



「そう思うなら、オレと共に来てくれ」



「それはできない」



「どうしてだよ。ここで居場所を得て暮らすんだ。どうにかして、父さんと母さんと第二世代の奴らを呼んで暮らすんだ。言うことを聞いてくれ。頼むよ」



 すがるように言ったニコライに対し、アレクセイは心の中で燃え上がった炎をどうにか鎮火させ、努めて冷静に語りかけた。



「家族を復讐に巻き込んではいけない。父さんの言葉を思い出してくれ」



「オレは、ちゃんと覚えてる。そして、その理論の間違いも理解した。父さんが言ったことは、ただの理想に過ぎなかったんだ。恐怖は、そう簡単には克服できず、この世界に残留し続けるんだ。だからオレ達は、拉致されて尋問されて拷問されて、同胞と家族を殺されたんだ。ガキの頃からそうだったな、アレクセイ。お前は現実を見ようとしない。人間が抱く悪意の本質から目を逸らしたままだ。また来る。それまで、しっかり考えておけ」



 ニコライはそう言い残し、怒りに強張る両手で丸刈りの頭を強く撫でながら立ち去った。


 残されたアレクセイは独房の中で立ち尽くし、扉と向き合いながら黙考する。



 やはり、コーリャは本気だ。俺だけが気づくことのできる暗号もなければ、声色に迷いもない。演技をしている様子はなかった。あいつは本気なんだ。



 兄弟の心がもう戻らないであろうことに気づいたアレクセイは、深く絶望し、蠢くような悲観思考に支配され、膝から崩れ落ちた。


 金属製の牢の床が、彼の体温と気力を奪う。




 四人の兄弟姉妹と対話し終えたニコライは、階段を昇り、船長室のドアの前に立った。


「失礼します」


「入れ」


 入室したニコライに、高級椅子に座っているブルガーニン暫定大統領が問う。



「説得の首尾は?」



「無理でした。みな同様に、現実から目を背けています。特に、アレクセイはかたくなです。外の世界との付き合い方については、子供の頃からずっと対立していました。オレはずっと、こちらに敵愾心がなくとも、向こうが敵愾心を持っていた場合は戦闘状態になり得るのだから、攻撃に備えるべきだと言っていたんです。でも、兄弟姉妹は理解してくれませんでした。拷問をされても、まだ気づかないようです」



「兄弟であるお前が長年に渡って説明し続けても、彼らは変わらなかった。被害を受けてなお聞く耳を持たないのであれば、もう説得は不可能だろう。こちらに来い、コーリャ」



 ブルガーニンは椅子から立ち上がり、近くまで来たニコライの目の奥深くを見つめながら、その双肩を両手で掴み、冷たい瞳をそのままに微笑んで言った。



「我々は、お前の考えを理解しているぞ、コーリャ。お前は正しい」



 ブルガーニンは微笑みながら、冷徹に思考した。


 もし運命の巡り合わせというものが存在するのだとしたら、それは、この青年との出会いなのかもしれない。

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