第九章 4
二二五六年、九月四日。午前三時。
拉致されてから、一ヶ月と三日が経った。
緩やかに波打っていたアレクセイの美しい髪は、頭皮油を
彼の精神は崩壊寸前だった。
数日前に聞こえてきた、断末魔のようなニコライの叫び声。
そのあとに見せつけられた、アトヴァーガの首。
首を見せられたであろう兄弟姉妹の精神状態への憂惧。
それらが、耐え切れないほど膨大な質量となって彼の心を押し潰し、睡眠を阻害する。
地獄のような日々が続くのかと思い、精神が砂のように崩れ去りそうになった時だった。突如、アレクセイの脳神経インプラントに通信音声が届いた。
「私の声が聞こえますか?」
眠気さえ覚えるほどに聞き触りのいい、上品な女性の柔らかな声だった。
「聞こえる。聞こえます。あなたは誰ですか?」
「私は、アメリカ合衆国政府の諜報機関に所属しているトムレディーという者です。あなた方を助けに来ました」
イタリア風の姓を名乗ったその女性は、諜報部員であると明かした。
アレクセイはその意図を探ろうとするが、頭が正常に働かず、思ったことを口に出すことしかできなかった。
「通信機の類は無効化されているはずなのに、どうやって?」
「ここにいる職員の端末に侵入し、成りすまして接続しているんです。くれぐれも、不自然な行動をしないように。あなたを監視している者から感づかれると、救出しにくくなってしまいます」
突然に現れた希望によって、アレクセイの頭は徐々に思考力を取り戻した。脳の血流を阻害するものが取り去られ、彼の脳細胞が冴えていく。
「信用できない。不自然だ」
「気持ちはよくわかります。でも、ここを出るには、私を信用してもらうしかありません」
「混乱して、何がどうなっているのかわからない」
トムレディーは語気を強めて、弱っている被害者を勇気付けるようにして言った。
「落ち着いてよく考えてみて、アレクセイ。これは罠なんかじゃない。私は、あなた方を救い出そうとしてるの。わたしは味方。あなた方を騙して情報を引き出したいのならば、より激しい尋問や拷問をしたほうが得策でしょう?」
アレクセイは考え込んで、彼女の発言が正しいことを認識した。
「……確かに、そうだ。こんな罠を仕掛けたとしても、連中にとって良い結果は引き出せない。無意味だ。つまり、あなたは本当に助けに来てくれた味方なんですね?」
「わかってくれて嬉しいわ。この国は悪人ばかりじゃないの。味方だって存在してる」
言葉遣いが荒くなっていることを自覚したトムレディーは、丁寧な口調を心がけて通信を再開した。優しい人柄を感じさせるその声で、アレクセイに経緯を説明する。
「私は、ご兄弟のニコライさんが残したビデオメッセージを観て、権限と能力を駆使してあなた方を見つけ出し、今こうして助けに来ました。ニコライさんは、新生ロシア人の存在を快く思わない国家から何らかの攻撃が行なわれる可能性があると予測して、世界中のコンピュータ上にビデオメッセージを忍び込ませておき、一ヶ月経ってもログインが行われない場合は、そのビデオメッセージが報道関係者や投稿サイトに送信されるように仕込んでいたのです。今、そのビデオメッセージの音声を再生しますね」
『このメッセージが皆さんの目に触れているということは、オレ達の身に何かが起こり、一ヶ月経っても端末にログインできていないということを意味している。つまり、オレ達は今、どこかの誰かによって拘束されているか、消されている。各国の政府は、オレ達が事故に遭ったと繰り返すだろうが、それは嘘だ。皆さん、どうか助けてほしい。政府の言うことを信用しないでほしい。さらに一ヶ月が経ったら、新たな情報が流れるように設定してある。政府の人間よ。その情報が流れる前に、オレ達を解放したほうがいい。証拠は揃っている』
「このメッセージを観た人々が、次々に行動を起こしています。特に、ロシアの血を引く者たちが。脱出作戦には、彼らにも協力してもらっています。今は、私の指示に従ってください」
トムレディーの説明を聞いていたアレクセイの耳に、突然、聞き慣れない音が飛び込んできた。
ドアの向こうから聞こえてきた、分厚い布にサッカーボールが蹴り込まれたようなその音は、トムレディーが見張りの男の腹を殴り、肺の空気を強制的に吐き出させたことで生じた音だった。
ドアの上部にあるガラスの向こうで、女性の人影が通り過ぎるのが見えた。
アレクセイが目を見開いてその人影を追っていると、トムレディーから通信音声が届いた。
「見張りを片付けました。今、管理室からドアを開錠します。もう部屋の外に出ても平気ですよ。手錠をされていますか?」
「いえ、されてません。部屋に入ったら外されるんです」
「よかった。では、ドアが開いたらすぐに部屋を出て、私の指示に従って逃げてください」
ドアが開かれ、恐る恐る廊下に出て左右を確認すると、兄弟姉妹が同じようにして部屋から出てくるのが見えた。
髪も顔も制服も汚れきっていたが、その瞳は希望に輝いていた。
六人は足元に倒れる見張りの男を起こさないように避けて歩きながら、静かに集結した。
「みんな、トムレディーという女の人から誘導されているんだよな?」
アレクセイが確認すると、ソーフィアが少し長くなったショートヘアを手ぐしで整えながら答えた。
「うん。でも、信じていいの?」
するとニコライが、無表情のまま即答した。
「いいさ。オレ達を脱出させてくれるんだからな」
ニコライの瞳が曇っているように感じたアレクセイだったが、アトヴァーガの命を奪われたのだから無理もないと考え、彼の肩を掴んで無言で見つめ合って、生存を祝う気持ちを伝えた。
ニコライもまた同じようにして、兄弟の生存を喜んだ。その手は少し頼りなく感じられたが、再び触れ合えた喜びが、その憂いをかき消す。
アレクセイ達は廊下に立ち尽くし、トムレディーの登場を待ったが、彼女は一向に現れなかった。
敵が来るのではと焦ったアレクセイが、彼女に通信を入れる。
「一緒に逃げてくれないんですか?」
「この支部にいる人員の数があまりにも多くて、あなた方に同行する余裕がないんです。全員を無力化しなければ、あなた方はまた拘束されてしまいます」
「俺たちだけで脱出するなんて無理です」
「あと五十七――、少し待ってください。失礼しました。あと五十六人を無力化しなければ、すぐに追われて捕まってしまいます。この支部の外には、ロシア系住民への差別に対応するために設立された互助団体の職員が、トラックを用意して待ってくれています。彼らのところまで行って、荷台に乗って逃げてください。いま、私が安全を確保した脱出ルートを送信します」
六人はトムレディーの導きに沿って、道中に転がる職員たちを慎重に避けて通り、六つの階段を降りて、施設からの脱出に成功した。
真っ暗な敷地内を走り、トムレディーによって無力化された正面ゲートを通り抜けて振り返ると、そこには、ごく普通の商業ビルがそびえ立っていた。
辺りには同じようなビルが立ち並んでいるが、
諜報機関の拠点は、どうやら寂れきった田舎の商業ビルを装っているようだった。
アレクセイは真っ暗闇の中を全力で走りながら、トムレディーに通信を入れて報告した。
「脱出に成功しました。追っ手もありません」
「よかった。そのまま地図の指示通りに進んだ先に、灰色のコンテナを載せたトラックが止まっているはずです。そのトラックに乗っている二人が、あなた方を安全な場所に連れて行ってくれます」
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