第三章 6

 十二時間後。


 休止状態での最適化を終えたロボット兵は、これ以上ないほど良好な状態で起動した。


 不具合の残存は確認できず、動作は円滑で、思考も安定している。記憶媒体にはまだ読み込めない隔離領域が残ってはいるが、それが動作に悪影響を及ぼすようなことはなかった。




 夫は意気揚々と研究室を出て新生児保育室に舞い戻り、自動ドアが開くと同時に、子供たちを見守っている伴侶に話しかけた。


「最適化は滞りなく行われ、無事に終了した。私が有用であることを証明するよ」


「それは頼もしい」


 次はないと思ってくださいね。妻はその思考が表情に出てしまわないように微笑んで、手招きをしながら言った。


「さあ、子供たちに声を聞かせてあげてください。そうすると、子供たちの心が落ち着くのだそうです。抱きながら話しかけてみてはどうでしょう」


 夫は、保育器の中で眠るエカテリーナを眺めながら首を横に振って、残念そうに言った。


「抱いてみたいが、この角張った胸ではな。きみと違って擬似皮膚もないから、硬くて寝心地が悪いだろう。それに、私の顔には目も鼻も口もない。私があやしたら、全員もれなく泣いてしまうだろうな。私に育児はできないと思う」


 不具合を乗り越えたことで意気軒昂と復帰したロボット兵だったが、彼は子供たちと対面したことで、自身が家庭用ではなく戦闘用であることを再認識し、抱きしめられないことをはっきりと自覚したのだった。


 このままでは役に立たない。そう思った妻は、シェルターのメインコンピュータに無線接続し、新世代ロボット兵に関する情報を引き出して精査した。



 答えは、機密情報の中にあった。



 妻はその機密情報を読み込み終えてすぐ、歓喜の響きを纏う音声を発した。


「あなたには、背景の情報を取り込み、外殻の表面に背景映像を映し出して、敵から視認されないようにする擬似透明化迷彩が搭載されていますね?」


「ああ、確かに、私には擬似透明化迷彩が搭載されている。完璧ではないが非常に有効な擬装技術で、戦場でよく使用した」


「その機能を用いて、あなたの頭部に男性の顔画像を映し出したら、子供たちは安心するかもしれません。どうです、試してみませんか?」


「その手があったか。試してみよう」




 唯一にして最高の解決法は、彼の機体に備わっていた。


 ロボット兵の外殻表面に搭載された擬似透明化迷彩は、全方位の風景情報を取り込むと同時に、反対方向にその情報を描写し、透明になったかのように擬装する迷彩技術だ。


 複数の地点から同時に目視されても違和感が生じないように、機体表面に無数に並ぶ電磁波発生機構から全方位に向けて背景を完全再現した可視光を放ち、違和感なく風景に溶け込んで、透明になったかのように敵の目を欺く。


 高い処理能力を誇るコンピュータと同期することで、高速移動している状態でも背景をリアルタイムで描写できるので、滅多なことでは発覚しない。




「妻よ、少し待ってくれないか。機能の立ち上げに多少の時間を要する。機構の状態を確認したところ、どうやら頭部の迷彩機構は無事らしい。よかった」


 頭部が無傷であることを夫が殊更ことさらに喜んだのには、理由があった。表面に並ぶ電磁波照射機構は、内部構造があまりにも複雑であるため修理できず、分子構築機で複製することもできないので、このシェルターでは入手できないからだ。


 もし破損していた場合、擬似透明化迷彩を利用して顔画像を映し出すという妙案は頓挫してしまっていただろう。


 夫は安堵しながら、擬似透明化迷彩の起動が済んだことを妻に報告した。


「無事に起動できた。指示をくれ」



「わかりました。擬似透明化迷彩の使用は負荷が大きいはずなので、人間の頭部を丸ごと描写するのではなく、前面の顔を映し出すだけで充分です。たった今、メインコンピュータから顔写真のデータを入手しました。送信するので、その中から任意の顔画像を選び、擬似透明化迷彩を使用して描写してください」



 顔写真データを受け取った夫は、全ての画像を確認し、気に入った一枚を選び取って頭部前面に描写した。


 その顔を見た妻は、一瞬驚いたような表情をしたあとに、笑顔を浮かべて言った。



「なんという巡り合わせでしょう。その顔は、マリーニン・ユーリ・ドミトリエヴィチ大統領閣下のものです。彼は、ベロボーグ計画を発動させたロシア連邦最後の大統領です」



「それは驚いた。穏やかそうではあるが威厳もあり、落ち着いた印象を受ける顔を選んだだけなんだが、まさかベロボーグ計画を発動させた大統領だったとはな」



「運命的なものを感じますね。すぐにでも最終決定を下したいのですが、少し問題があります。その画像は晩年に撮影されたものなので、初めて育児をするあなたの顔としては、少々不釣合いです。他の写真を使用しましょう。今、若い頃の画像を抽出します」



 妻はデータを参照して別の画像を探し始めたが、すぐに顔を曇らせ、人間の真似をして溜息を吐きながら言った。



「参りましたね。高解像度の画像がありません。マリーニン大統領は対外情報庁の非公式機関員、いわゆるイリーガル出身であるため、過去の画像データが残されていないようです。では、画像を少し若返らせて使用しましょうか。顔面整形のシミュレーションソフトウェアを送信します」



「受け取った。しかし何故、顔面整形のシミュレーションソフトウェアがあるんだ?」


「さあ、何故でしょう。このシェルターには様々なものが遺されていますからね」


 妻は、それがベロボーグ計画の最終段階に向けて用意されたソフトウェアの内の一つであることを伏せた。


 夫は多くの人間男性と同様、妻の隠しごとに微塵も気づかぬまま、受信した顔面整形のシミュレーションソフトウェアを使用して、頭部前面に映し出されたマリーニン大統領の顔を加工し始めた。


「若返りというと、このような具合でいいのだろうか?」


 マリーニン大統領の眉間に深く刻まれた皺は消え、弛んだ頬と目尻が重力に逆らって上がり、頬は適度に肉付けされ、肌は艶やかさを増し、若々しい顔立ちへと変貌していく。



 その変化を観察していた妻は拍手をしたが、すぐに取り止め、感想を述べた。



「素晴らしいのですが、頭部前面の表面に画像を貼り付ける形になっているせいで、横から見ると不自然です。例えるならば、イングランド童話に登場するハンプティー・ダンプティーの顔のように見えます。顔を持つ卵の登場人物なのですが、それに酷似しています」



「それは困るな」



「私の顔を参考にして描写するとよいでしょう。いいですか、前面が透明になったフルフェイス型のヘルメットを被っていると仮定しながら、私の顔を多角的に観察してください。奥行きを表現するのです。ヘルメットの奥に顔があるように描写するのです」



「なるほどね。理解した。描写を試みる」



 夫はそう言うと、妻の助言どおりに描写方法を調整した。


 彼は擬似透明化迷彩の特性を生かし、若いマリーニン・ユーリ・ドミトリエヴィチが前面透明式のフルフェイス型ヘルメットを被っているようにしか見えない描写を実現して、その具合を訊いた。


「これでよいはずなんだが、どうだろう?」


「私と視線を合わせているかのように、眼球の描写を変化させるようにしてください。体も首も動かさずに静止し、眼球の描写のみを変化させるのですよ。では、確認します」


 妻は、若返ったマリーニン大統領が描写された夫の瞳を見つめながら左右に移動し、さらに顔を上下に動かして、あらゆる角度から描写の精度を確認した。


 彼女は、左右それぞれ二往復して確認作業を終えると、大袈裟な笑顔を浮かべながら感想を述べた。


「素晴らしい。眼球移動の描写も完璧です。顔の件は解決しましたね」




 夫の顔問題を解決した夫婦は、続いて、夫の角ばった胸問題に着手した。


 妻は、柔らかな擬似皮膚が貼り付けられている平らな胸部外殻を作って付け替えてやり、そのおかげで、彼は子供を抱っこしてあげられるようになった。


 夫は早速、保育器の中で眠るコルマコフ・ニコライ・エフィモヴィチに両手を伸ばし、右手でうなじを、左手で尻を支えて抱き上げ、それからニコライの体全体を左の前腕に載せ、落としてしまわないように右手を添えて抱っこした。


 胸部に貼り付けられた擬似皮膚の柔らかさは効果絶大で、ニコライは不快感に身をよじることもなく、目を閉じて静かに休んでいる。




 初めての抱っこを楽しむ夫と、それを見守る妻の聴覚センサーが、空腹を知らせるときに発せられる鳴き声を捉えた。


 その声の主は、マラートだった。


 夫はニコライを保育器に戻してから、お腹をすかせて泣くマラートを抱き上げ、妻から哺乳瓶を受け取ってミルクを飲ませた。


 授乳作業を遂行する夫が、頭部前面に得意げな表情を浮かべながら言う。


「予習をしておいたんだ。哺乳瓶の扱いは完璧だろう?」


「ええ、完璧です」


 妻が褒めてやると、夫は早速、マリーニン大統領から拝借した顔画像を操作して、満面の笑顔の形に変えながら言った。


「褒めてくれて嬉しいよ、ありがとう」


 その笑顔は、かつて妻が地上にいた頃に、よく目にしていた人間の笑顔そのものだった。真似事ではない自然な笑顔が、機械である夫の頭部前面に表示されている。不自然なほどに自然な、まるで本物の人間のような表情が。


 しかし、機械が人間のような笑顔を浮かべることなど有り得ない。妻は冷静になって、その理由を分析した。


 彼は高性能ですから、より高い精度で表情を描写できるのかもしれません。しかし、これほど自然な描写など可能なのでしょうか。


「妻よ、どうした?」


「いいえ、何でもありません」


 このロボット兵には不明な点が多いですね。人間風に言うと、気味が悪い。

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