第二章 18

「本日、人工授精を実施します」


 二二三五年、八月一日。


 ベロボーグ計画の成否を分ける重要段階への移行は、唐突に行われた。




 第二階層で鶏の世話をしている最中、突然投げかけられた妻の言葉に虚を衝かれた夫が、その理由を問う。


「何故、今日という日を選んだ?」


「全てはベロボーグ計画書に沿って行われます。日程も然りです。早速ですが、第五階層に移動しましょう。着き次第、人間用の胎児保育器を起動させてください」


 そう依頼された夫は、刷り込みによって彼を親だと思い込んでついてくる三十羽の若鶏たちと、彼らに少し遅れて誕生したうさぎたちに別れを告げて、妻と共に畜産場を出た。




 第五階層の胎児保育室に入った夫婦は、以前に家畜用の胎児保育器を起動した時と同様に、輪になって立ち並ぶ六台の人間用胎児保育器を起動させて回った。


 胎児保育室の中心に規則正しく立ち並ぶ円柱型の胎児保育器に、わずかに黄色がかった培養液が注入されたのを確認した妻が、あらかじめ選び出して用意しておいた卵子と精子が入っているサイコロのような保存容器を、六台の胎児保育器に挿入する。


 胎児保育器は保存容器を開封し、安定乾燥処理されていた卵子と精子を復元して人工授精の準備をすると同時に、卵子を提供した母体の遺伝情報を元に、人間のクローン子宮の急速生成を開始した。




 これから約九ヶ月間、母親の遺伝子を用いて生成された六つのクローン子宮が、培養液で満たされた胎児保育器の中で有機素材によって固定されて浮かびながら、六人の子を育む。


 筒の上部にある生命維持装置から延びる管がクローン子宮の血管と繋がれ、胎盤を経由して胎児に血液を供給する仕組みとなっており、人工心肺機能だけでなく、栄養供給、脳からの命令を模した神経信号、血液成分とホルモンの調整も自動でおこなわれる。




 妻は強化ガラス筒に触れながら、眠る子供を起こさないように話す母親のように、静粛に語り出した。



「家畜用と同じく、数日後にはクローン子宮がこの中に固定され、新生ロシア人が育まれます。いよいよ始まるのです。あるじたちの悲願が、ついに成されようとしています。わたしはこの部屋を離れたくありませんので、申し訳ありませんが、生産物の世話を頼みます」



「了解した。子供たちの看視は任せる」


 夫婦は契りを交わしてから初めて、長期間に渡る別行動を取ることになった。夫は早速、担当する家畜と作物の世話をしに戻る。


 まだクローン子宮さえも出来上がっていない虚無に満ちた強化ガラス筒の内部を覗き込む妻の思考回路の中では、ベロボーグ計画の全容が繰り返し読み上げられていた。


 計画の最終目的についての文面が読み上げられるたびに、ロシア製の女性型アンドロイドの視覚センサーを覆う保護膜が大きく開かれる。


 彼女は無機質なかごを撫でながら、何度も呟いた。


「主の命令は絶対です。主の望みを叶えなければなりません。主の命令は絶対です……」

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