第二章 8

 夫が軽く挙手をして、疑問を投げかける。


「経済が疲弊すれば、新たな産業の開拓や技術開発への渇望も加速するのではないか?」



「そうなるはずなのですが、多発する紛争によって資本そのものが縮小してしまったせいで、手が回らなかったのでしょう。余力がなければ、新たな畑を耕すのは困難です。実際に、宇宙開拓事業は頓挫しています。かつての人類は宇宙技術を熱心に研究しましたが、肝心の宇宙進出は、火星のみに留まりました。地上での争いで手一杯だったからです」



「もったいないという日本の言葉が、見事に当てはまる。現在、火星はどうなっている?」



 妻は意味ありげな笑顔を浮かべる人間の表情を真似まねてみせ、少し間を取ってから答えた。



「それがですね、二十二世紀初頭にロシア火星開拓団として旅立った諜報部員からの報告によると――、いえ、シェルター運営とは一切関係のない事柄なので、話すのはやめましょう。気になるのならば、データベースを参照してください」


「了解。あとで参照するとしよう」


 夫婦は一転して沈黙し、作業に没頭した。






 十五分後。


 夫は携帯式静穏融解掘削機を操作してドリル部分を延長し、削り方が不充分な天井の隅を整えながら、過去を生きた人類の気持ちを作業効率が落ちない程度に想定し、その結果を発表した。


「様々な技術が溢れる未来を夢見ていた人々にとって、実際の二十三世紀は残酷なものとなってしまったようだ。さぞかし退屈な未来だろう」


 妻は夫に同意しながらも、無感傷に言葉を発した。


「華やかな未来を夢見ていた人間たちはもう生きてなどいないので、問題ないでしょう」


「それもそうだ。しかし、強烈な皮肉だ。彼らが夢見た未来で完成したのは、奇跡のような平和的技術ではなく、私のような機械仕掛けの殺戮人形なのだから」


 同情に似た発言をする夫に対し、妻は冷たく微笑みながら言った。


「彼らが生み出した戦乱の結果です。我々に罪はありません」


 音声によるデータ交換を終えた夫婦は、掘削作業に戻った。




 冷却機によって室内温度が下がったのを受け、夫は再び重機に乗り込み、大規模な掘削を開始した。


 そしてまた室内温度が限界値に迫ると、夫は妻の傍に戻り、携帯式静穏融解掘削機での作業に就く。


 夫は手際よく掘削しながら、重機を操縦している最中に思考していたことを妻に伝えた。




「あらゆる物語を読み込んでいて、気づいたことがある。人類が抱える苦悩や問題は、大昔からずっと変わらないようだ。人類は、同様の問題に頭を悩ませ続け、同様の過ちを何度も繰り返している。異なる時代に創作された物語であるにもかかわらず、同様の苦悩や羞恥や後悔が反映されているのだ。偶然とは思えないのだが、きみはどう分析する?」



 妻は夫に向き直り、人間が呆れたときに見せる、少し困惑して脱力したような表情を真似しながら呟いた。


「書物を読ませすぎたようですね」


 妻の態度を気にせず、夫はさらに意見を述べた。


「私は、知ることは良いことだと思い始めている。妻よ、人間の生態に関する書物が欲しい。人間のことを知りたい。そして、人間から興味を抱かれるような存在になりたい」


 妻が、呆れた表情を継続しながら問う。


「何故ですか?」



「ここでの私の任務は、新生ロシア人を育成することだ。ならば、人間という存在をより深く理解しなければならない。人間が描いた多数の創作物を読み込んだ結果、人間という存在を理解することがどれほど困難なのかを知った。創作物を読む上で、私が最も重要視したのは、恐怖という感情だ。私は恐怖というものを把握しておきたい。子供たちは、目も鼻も口もない顔をした私のことを恐れるかもしれない。顔がない理由は、破損を防ぐために各種センサーを頭部外殻の下に隠しているからなのだが、子供にはそのような理屈など通用せず、恐怖するだろう。だからこそ恐怖という概念を深く理解し、より良い対応を編み出して、育児の質を高めていきたい」



 夫の教育に失敗したかと落胆しかけていた妻は、夫の言葉を聞いて考えを改めた。




 彼は、わたしが想像していたよりも性能が高いようですね。褒めて差し上げましょう。




「よい傾向ですね。希望通りのデータを送信します。それと、あなたの顔について一つ意見させていただきます。目も鼻も口もない顔のことを気にしているのならば、頭部だけアンドロイド機体に変更すればよいのではないですか?」


「拒否する。私は、私であることを捨てたくはない」


 妻は、自分の提案が拒否されたことを気にもせず、夫を激励した。


「そうですか。ならば仕方がありません。教育学に勤しんでください」


「配慮と激励に感謝する。室内温度が下がったようだ。重機での掘削を再開する」


「お願いします」




 重機に乗り込む夫の姿を眺めながら、妻はベロボーグ計画の進捗状況を再確認する。


 掘削は順調です。故障などの問題が発生しない限りは、予定通りのスケジュールでシェルターを拡張できるでしょう。


 高性能なロボット兵を確保したことで、二倍以上の速さで計画を進められています。このまま、計画の最終段階まで事を運べそうですね。


 ただし、最終段階の内容を開示するのは、全ての準備が済んでからでよいでしょう。最後まで計画を進めてしまえば、こちらのものです。


 幸い、彼は人間の子供に興味を抱いているようですから、もし計画の最終段階が発覚してしまった場合は、その特性を利用し、子供を人質に取ったふりをして交渉することで、最後までベロボーグ計画に付き合わせるとしましょう。

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