序章 6

 防護壁の厚さ、残り十三キロ。


 マリーニン大統領が、急激に短くなってしまった余生の際で語る。


「核の恐怖は、人の理性まで焼き尽くす。核戦争が起こってしまったら、どちらかが壊滅状態になるまで撃ち合うことになる。世界はもう止まらない。ベロボーグ計画が発動されたからと言っても、楽観視はできない。ロシア連邦が破壊され尽くされて崩壊することに変わりはなく、ベロボーグ計画が成功するかどうかも定かではないからだ。しかし、一縷いちるの望みが遺されたことは事実だ。その希望を抱きながら、ただ静かに祈ろうではないか」


「ベロボーグ計画を推し進めてくださった歴代大統領に感謝を捧げます」


 恐慌をきたしかけていたノヴィツキー外務大臣も、ここへ来て落ち着きを取り戻していた。自身の力では状況を変えられないことを認識し、諦め、受け入れたからだ。


 それは、他の閣僚たちも同じだった。自身の余命を明確に認識した今、不思議なことに、恐れよりも誇りが心を満たすのだった。何十発の地中貫通ミサイルが着弾しようが、その心持ちが変わることはなかった。






 防護壁の厚さ、残り十キロ。


 盾の厚みが半分に迫ろうとしていたが、ロシア中枢の面々の心に築かれた要塞は、その堅牢さを保っていた。しかし、交わす言葉は一つもない。心の要塞を維持するには、絶えず自身を鼓舞し続ける必要があったからだ。


 彼らは毎秒ごとに、生還できると自らに言い聞かせながら、降り注ぐ敵意の塊が打ち止めになることを祈った。






 防護壁の厚さ、残り四キロメートル。


 彼らは、祈り続けるという行為が、どれほどの体力を奪うものなのかを知った。


 マリーニン大統領だけは、じっと目を瞑ったまま祈りの姿勢を崩さなかったが、数人の閣僚は、俯いたり、かすかに充血した目を爛々とさせて緊急執務室の天井にぶら下がるシャンデリアを見つめるなどして、自らが置かれた絶望的状況と懸命に戦っていた。






 防護壁の厚さ、残り一キロメートル。


 敵の地中貫通ミサイルが尽きることを期待していたが、その望みは叶わなかった。


 弾着報告が齎される間隔は少しも遅れることはなく、シェルターの防護壁は毎分ごとに厚みを失っていく。


 それと同時に、緊急執務室にいる面々が心に築いた要塞の城壁も、徐々に崩壊し始めていた。彼らは懸命に、崩れた心のレンガを積み直し続ける。






 防護壁の厚さ、残り六百メートル。


 幾度も幾度も襲来し、天井をえぐる、西側諸国の地中貫通ミサイル。


 やはり、打ち止めは期待できないようだった。


 安定して地中貫通ミサイルを発射させ続けられるということは、こちらが発射した核ミサイルが、期待するほどの戦果を上げられなかったことを意味していた。その事実が、緊急執務室の面々の心の要塞をさらに弱体化させる。






 防護壁の厚さ、残り二百メートル。


 くぐもった爆発音が、頭上から響いてくる。彼らの耳には、それが悪神チェルノボグの足音のように感じられた。


 刻一刻と迫る悪神の気配に冷える背筋と、対照的に熱を帯びる心臓。


 悪神の魔手が胸ぐらを掴むまでの猶予は、わずかしかない。






 防護壁の厚さ、残り三十メートル。


 地中貫通ミサイルによる処刑法は、圧死か、爆死か、焼死か、それとも蒸発死か。

 国の中枢を担って緊急執務室に詰めている者達は、死刑執行を待つ者の気持ちを初めて理解しながら、自分がどのような殺され方をするのかと思いを巡らせていた。


 理性的な思考は失われ、時折、夢であってくれと願う気持ちだけがふわりと浮かんでは、すぐ掻き消される。


 精神の限界が訪れるのが先か、天井が突き破られるのが先か。


 閣僚たちの平常心は、きわきわまで追い込まれていた。






 爆発音は明瞭に聴こえるようになり、振動は輪郭がはっきりとし始め、シャンデリアは明らかに揺れるようになっていた。地中貫通ミサイルの弾着地点が、すぐそこまで迫っている証拠だ。


 マリーニン大統領は、閣僚たちの顔を見渡した。このような場面でも、彼はつい部下の資質を探ってしまうのだった。



 部下たちの表情を読んだ彼は、消沈しながら思った。



 我ながら困惑する。長年に渡って培われてきた習慣は、死を目前にしながらも顔を出してしまうものなのか。ミハーイロフ首相は良き政治家だが、繊細すぎて覇気に欠けるようだ。もし生還できたならば、後継者は彼ではなく、ドミトリチェンコ国防大臣にすべきか。まあ、それは有り得ないことだが。天井は、あと一発か二発で崩壊する。このような事を考えるのは時間の無駄だな。これではいけない。最後は、厳かに迎えなければ。



 大統領が口を開き、深呼吸のように大きく息を吸うと、それを見た部下たちも同じように息を吸った。久々の大きな呼吸によってむせた数人の咳払いが、緊急執務室に響く。


「諸君、最後の祈りを。……アミン」


「アミン」




 祈りを終えたマリーニン大統領が、溢れ出る感情を言葉に変えて放った。


「ベロボーグ計画がある限り、ロシア連邦は不滅である。諸君の――」


 大国ロシア連邦大統領の口から発せられようとしていた心からの謝辞は、崩れ落ちたシェルターの瓦礫によって潰され、誰の耳にも心にも届かぬまま、された肉塊の中に閉じ込められて無に帰した。

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