序章 5

「では、緊急執務室に戻ろう。計画書をこちらに」


 補佐官から計画書を受け取ったマリーニン大統領が歩み出すと、閣僚たちは素早く左右に分かれて道を作り、誇り高き最後の大統領の横顔を、その目に焼き付けた。


 大統領の歩みは、彼らの目には厳かに映ったが、当人は重苦しい両足を前に出すのに人知れず難儀していた。体が、現実を拒否していたからだ。




 ウクライナからの不意打ちにより、核攻撃能力と防衛能力の大部分を失ったロシア連邦は、続いて加えられた西側諸国からの核攻撃によって風前の灯となった。


 ありったけの核兵器を撃ち込んで反撃したが、西側諸国のほうが迎撃能力に長けており、対立する全ての国を壊滅させることは不可能だった。つまり、完全敗北したのだ。


 ベロボーグ計画を発動し終えた今、彼の役目は終わった。もう核攻撃の決断をする必要はなく、国民の避難を指揮する必要もなく、敵国からの核攻撃が止んだあと、再起のために指揮を下す必要もない。彼はもう、何もできないのだ。


 彼に唯一残されているのは、緊急執務室で閣僚たちと共に過ごす無常な時間だけだ。その事実が、彼の足を鉛のように重くしていた。


 手に握られたままのベロボーグ計画専用通信機と計画書が、やりきれない思いを受け止めて、微かにきしむ。





 隠し階段をのぼり、全員が隠し区画から出たのを確認した大統領は、先ほどとは逆の順番で肖像画の額縁に触れていった。すると階段がせり上がり、地上へと続くエスカレーターへと戻った。


「ロボット兵たちよ。この書類と通信機、そして壁に飾られてある肖像画を、安全な場所で蒸発させて処分しろ」


「かしこまりました」


 最後になるであろう命令を大統領から賜ったロボット兵たちは、マリーニン大統領からベロボーグ計画専用通信機と計画書を受け取り、手分けして肖像画を壁から外して、廊下を曲がった先にあるトイレへと運び、それらをレーザー小銃によって蒸発処分した。





 緊急執務室に戻ったロシア中枢の面々は席に着いたが、体を休めるいとまは得られなかった。ベロボーグ計画を発動させていた間も、地上では凄惨な核攻撃が行われていた。


 そして今、戦況は知らぬうちに新たな段階へと移行し、彼らが置かれた状況は大きく変化しようとしていた。




 席に着いたばかりのドミトリチェンコ国防大臣が、諦念を顔に浮かべながら報告した。


「大統領。核ミサイルに混じって、複数の地中貫通ミサイルが飛来しているとのことです」


「具体的な数字を聞かせてくれ」


「四十二発です」


 それだけでは済まないだろう。これは第一波に過ぎない。そう考えた大統領は、望みのない現実を切り分け、それを少しずつ懸命に受け入れながら指示を出した。


「案ずるな。各自、管轄する部署の指揮を執り続けろ」


 マリーニンは、自らが発した言葉によって胸を痛めていた。


 明らかな嘘を言うのは苦しいものだな。第二波、第三波、第四波と、地中貫通ミサイルは飛来し続けるだろう。おびただしい数の地中貫通爆弾によって、ここは破壊される。




「一発目が迫っています。三、二、一、弾着」


 そう報告したドミトリチェンコ国防大臣の声からは、覇気も生気も消え去っていた。


 弾着した地中貫通ミサイルの衝突と爆風が強化鉄筋コンクリートとセルロース層を吹き飛ばし、炸裂後に残留するレーザー貫徹機が、金属壁を溶かしながら潜行し、最後に核融合反応によって爆発を起こして、シェルターをえぐる。


 緊張に満ちた沈黙。誰の呼吸音もなく、地中貫通ミサイルによる振動もなかった。


「ドミトリチェンコ国防大臣、報告を」


「少々お待ちください、大統領」


 国防大臣はセンサーの反応を参照し、すぐに詳細を報告し直した。


「地表から四百メートルが穿孔せんこうされました模様。二発目が来ます。三、二、一、弾着」


 一発目と同様、二発目も地下十五キロメートルにある緊急執務室を揺らすことはなかったが、緊急執務室で報告を聞く者たちの心は、のがれようもあらがいようもない巨大な恐怖によって大きく揺れていた。


「地中貫通ミサイルの数が多すぎます」


 ノヴィツキー外務大臣が弱音を吐くと、大統領は思いのほか寛容な態度で返答した。


「西側諸国が結託して、タイミングを計算しながら効率よく撃ち込んでいるのだろう」


 激高するかと思われた大統領が落ち着き払っている様子を見た閣僚たちは、終わりが近いことを予感した。大統領は運命を受け入れ、聖人のような心持ちで最後の時を待っている。マリーニン大統領の振る舞いは、そう思わせるような寛大さに満ちていた。


 閣僚の面々が感じ取ったとおり、マリーニンは実際に全てを受け入れ、今の自分に何ができるのかだけを考えて行動していた。



 やはり、地上では死ねないようだ。ならば、大統領としてできる限りのことをしよう。



 マリーニン大統領は卓上にある旧型通信機を使い、もう二度と軍事パレードで礼を交し合えないであろう兵士たちとの通信を開始した。


「地上の戦士諸君。私は無事で、現在も懸命に指揮を執っている。諸君の頼もしい姿が、目に浮かぶようだ。諸君の献身に、心から感謝する。我々の心は、この母なる大地を介して繋がっている。とても強く。この絆は、誰にも切り離すことはできない。我々は永遠に一つだ。共に戦おう!」


祖国ナシュ万歳ウラー!」


 通信機の向こうで、いくつもの雄叫びが上がった。その叫びは止むことなく、何度も何度も繰り返された。死への恐怖と生への渇望が渦巻くその声に、マリーニンは高ぶりと悲しみによって目頭を熱くしながら、敵国への怒りと恨みに歯を食いしばった。


 ああ、ベロボーグ計画のことを伝えられないのが悔しい。若者たちよ、ありがとう。そして、すまない。


 止まない地中貫通ミサイルによる攻撃が、少しずつ、だが着実に、地下十五キロメートルにある緊急執務室を守るシェルターの分厚い天井を削り取っていく。


 一同は、眼鏡型端末に表示された防護壁の厚みの数値を見つめることしかできなかった。

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