第3話 狂いたいって感情が既に狂ってるって知ってる?
これは夢だろう。明晰夢というやつか、眼前の状況を見てそう思った。
なにせ、目の前にいる私はナイフを持って、あの憎い男を刺し殺していたからだ。
「あは、あははははは、ああっはははははははははははははははははははは!!!!!!」
狂ったように笑い続ける自分。そんな姿を見て――こう、思ってしまう。
――羨ましい、と。
そんな考えが出てくる時点で、自分も既に狂っているのかもしれない。だからこそ、完全に狂ってしまいたかった。中途半端に理性が残っているせいで、こんなに苦しいんだ。だから、早く。
そして、ナイフを持っている私の前には、もう一人いた。
それは、男のようで、女のようで、若者のようで年寄りのような人間。
こんな人間、記憶にない。しかし、なんとなく――本当になんとなく、それがスターなのではないかと思った。
「あははははははははははははっははははははっはははははははは!!!!」
狂った自分を見せつけられて、私の心もだんだん軋んでくる。
――早く殺したい。
――早く狂いたい。
――早く死にたい。
――早く殺したい。殺したい。殺したい!!!
「あはははははははははははははははははは!!!!」
「はっ!」
ガバッ! と身を起こす。汗をびっしょりとかき、息も荒くなっていた。
「やっほー、お目覚め? 凄くうなされてたみたいだけど大丈夫?」
ラバーの暢気な声が聞こえてきて、少しだけ落ち着きを取り戻す。
「……ええ、大丈夫です」
寝汗が気持ち悪い。背中だけでなく全身びっしょりだ。
「シャワーを、浴びてもよいですか?」
「あー、はいはい。じゃあ着替えとか用意してくるからちょっと待って」
ラバーはにこやかな笑みを浮かべて、その場から去る。
(ああ……)
……なんて、酷くて、苦しくて、そして素晴らしい夢だったんだろう。
あんな風に狂えたらどれだけよいだろうか。ああやって復讐を遂げられたら、どれだけ気持ちがいいだろうか。
分からないけれど、それでもその道を選ぶのは破滅につながっていることだけは分かる。
けれど、そうしたい。そうやって、いっそ破滅してしまいたい。
復讐のためだけに生きるなんてばからしい。復讐したって何も始まらない。大切なことは許すことだ――何も知らない人は、そういうだろう。
だけど、そうじゃない。
復讐っていうのは、過去に区切りをつけるためでも、何かを始めるための物でもない。
こうして、生きている以上、それ以外のことが考えられなくなるのが復讐なんだ。
「わかるよー、その気持ち」
考え事をしていたからか、気づかなかった。いつの間にか傍にラバーが来ていた。
「声に出してましたか?」
「うん、割とはっきり」
「……お聞き苦しいことを」
「いや、いいって。あたしだって痛いほどその気持ちがよくわかるし」
ラバーがタオルと……そして、いつもとは違う、真っ白な服を渡してきた。
なんとなく見たことがある。これは、確か修行僧とかが滝行などを受ける時に着る服……行衣と言うんだったか。
「あの、これは……?」
「ああ、いやさ、ちょうどいいかと思って。さっきスターから連絡があったんだよ。復讐の準備が完了した、って」
「え……」
復讐の準備が完了した――
その言葉を聞いた時、私の心の中に激しい憎悪が再び呼び起こされた。
――やっとだ。
――やっとだ。
――やっと、殺せる!
「あははっ、いい目してるね、ほんと」
ラバーは何がおかしいのか、ケラケラと笑っている。
「いいよ、いい感じ。だけどちょっと足りないかな」
「足りない、ですか……?」
まさか、この復讐心でも足りないと言うのだろうか。
この、身を焦がすほど、なんてとうの昔に通りこした、身を焼き尽くすさんばかりの復讐心でも。
私の心境を察したのか、ラバーは再び笑い出す。
「違う違う。足りないのは復讐心とか気持ちじゃないよ」
「では……?」
「んー……なんて言ったらいいかな」
ラバーは少し腕を組んで考えるしぐさをした後に、手を打った。
「そうだ、アレだよ。狂気。狂気ってやつが足りない」
「狂……気」
「狂いきれてないね。必死に狂おうとしている感じ。その辺に……言ったら悪いけど、育ちの良さを感じちゃうかな」
少し、なんというか、憐れむような、悲しむような表情をするラバー。
そんな表情をされた理由が分からず、少し首を傾げるが、まあいいかと思い首を振った。
「それでは、すみません、シャワーをお借りします」
「はいよー。ああ、着替え終わったら言ってね」
「はい」
ラバーにそう言ってスタスタとシャワールームへ入る。
……外は一切見えないが、ここはどこかのホテルの一室何ではないかと推測していた。風呂は綺麗だし、冷蔵庫もあるし、なにより上と下の階に人の気配がする。
外が見えないホテルだって、やりようによってはいくらでも作れる。
「……まあ、冷静に考えればJACKが所有している建物の内装をホテル風にしているんでしょうけど」
私は嫌な汗を流し、そして髪までしっかり洗う。
……これから、汚れるんだ。それならば、隅々まで綺麗にしておいて、全身一気に汚れたほうがいい。
なんとなくそう思い、すみずみまでしっかりと自分の身体も洗う。
そして、しっかりと拭いて、ドライヤーで髪も乾かして……行衣に着替え終わった。
「ラバーさん、終わりました」
「うい、オッケー」
――その途端、案の定意識が途絶えた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「お目覚めですか?」
辺りをゆっくりと見渡すと、最初に連れてこられた場所とも今まで自分が過ごしていた場所とも違う場所だった。
強いて言うなら、応接室だろうか。ただし、やはり外は見えない。
「……やっぱり慣れません。気絶させずに運ぶ方法は無いんですか?」
「すみません、規則なものですから」
柔和な笑みを浮かべる……おそらく、スター。
やはり、彼(彼女?)は目の前にいてもよくわからない。すべてが印象に残らない、残れない。
……いったい、どんな人生を送ってきたんだろうか。
「さて、それでは貴女の依頼内容の確認です」
スターがどこからともなく紙束を取り出して読み上げる。
「吉村耕平への復讐……ですよね?」
「はい」
躊躇うことなく頷く。
彼に復讐できるというのなら、もはやこの身が無くなっても構わない。
それくらいの覚悟は、とうに出来ている。
「ッ」
思わず、ギュッ、と握り拳を作ってしまっていた。そんな私を見て満足したのか、スターはにっこりとほほ笑んで立ち上がった。
「では、どうぞこちらへ。貴女のご依頼の品が届いています」
恭しく礼をするスター。それを複雑な気持ちで見ながら、スターが案内する方向へ歩いていく。
するとそこには、
「――――!」
白いベッドの上で憎き吉村耕平が寝ていた。彼の姿を見た瞬間、ギリッ! と奥歯が軋む音がする。
目の前が真っ赤に染まる。今すぐにでもその首を締めあげてしまいたい。
「いいですね」
いつの間にか後ろに立っていたスターが少し嬉しそうな声をあげた。
「……では、最後の仕上げです」
そう言ったスターが手に持っていたのは……銃。詳しくないから名前は分からないが、黒くてシンプルなデザインだ。所謂リボルバーというやつだろうか。
ゴクリ、と生唾を飲む。いつの間にか喉がカラカラになっていた。目の前の濃密な『死』の気配に思わず体が震える。
「こ、これは……?」
あまりの非日常に――思わず、尋ねてしまった。
「ニューナンブM60……国産のリボルバー拳銃ですよ。警察にも正式採用されたりしてます。この銃、好きなんですよ」
「いえ、そうではなく……」
喜々として銃についての説明を始めるスターを遮り、銃――ニューナンブというらしい――を指さす。
「それで……その……?」
「はい、その通りです」
ニコリと笑ったスターは、私の手にニューナンブを乗せた。人を殺す道具をいともあっさりと――素人である私の手に。
「ひっ」
思わず手を引いてしまいニューナンブを落としそうになるが、落としたら暴発してしまいそうだったので慌ててキャッチした。
どくどくと心臓が早鐘を打つ。銃を持つなど人生で初めてだが――見た目以上に、重い。
相変わらずニコニコしているスターの顔を見返すと、スターは「どうぞ」と言って吉村耕平の方を指した。
「それでとどめを刺してください。どうせもう廃人なので貴女が手を下さなくても死んでいるも同然ですが……それでも、撃ってください」
先ほどと変わらぬ表情で。
最初会った時となんら変化ない笑顔で。
平然と……撃てと言う、スター。
人を殺めろと。
「――――ッ!」
ゾッ! と怖気が走った。今この瞬間だけ、吉村耕平への殺意を忘れそうになった。それほどまでに、スターは不気味だった。
これほどまで『死』に慣れ切ってしまうというのは……裏社会では当然のことなのだろうか。少なくとも、普通に生きていてこんな人間と出会うことなどあるはずがないだろう。
いや……本当に、人間だろうか。
「その……」
ガチガチと鳴る歯を抑えつつ、スターに問う。
「まだ、生きているの?」
「はい、生きています。たださっきも言った通り死んでいるも同然です。なんせ意識も無ければ正気もありません。心臓が動いていれば生きている――そう言うのであれば、間違いなく生きています」
やはり平然と言うスター。だんだんと感覚が麻痺してきて、それが正常なんじゃないだろうかと思うようになってきた。
「では、とどめを」
人を殺す――それが、どれほどの意味を持つのか、分からない程子どもでも無ければ常識が無いわけでもない。
(でも――)
彼を思い出す。優しかった彼、その彼を奪ったのは目の前の男。
やはり、思い出しただけで衝動的に殺してしまいそうになる。それほど憎い。
この手を真っ赤に染め上げてでも――殺したい。
殺したい。
あの人がいない世界で生きていることが許せない。
この世界から完全に抹消しないと気がすまない。
許せない。
許せない。
許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない許せない!!!!
「いい目です。本当にフォーチュンは選ぶのが上手い」
気が付くと、拳銃を構えて吉村耕平に向けていた。後は引き金を引くだけ――そう思った時、スターがそっと拳銃を握る手を抑えた。
「少し、待ってください。もう一つだけお聞きしたいことがあります」
「……なんですか」
一刻も早く殺したい、殺したい。
感情が全て憎悪で塗りつぶされていく。心の中が黒よりも黒い――どす黒い色で染まっていく。思考のすべてが「殺せ」と叫ぶ。
「貴方は殺した後、どうしますか?」
その言葉に――スッ、と頭の中を支配していた『狂気』が消え去り、冷静になった。その瞬間、思い知ってしまう。自分の器を。どれほど憎く思っていても――狂えない、冷静な思考をしてしまう。この後どうなるのかを想像してしまう。
あれほど――すべてを投げうってでも殺したい男なのに、全てを投げうってでも仇を討ちたいほど愛する人なのに。
狂えない、狂えない。
狂気は全身を支配してくれない。
「あ、あ、あ……」
ボロボロと涙が零れ落ちてきた。
たぶん、このまま引き金を引くことは出来る。だけど、その後自分はどうするだろうか。
生きていけるだろうか。
たぶん――無理だ。
彼への想い、そして自分が殺してしまったという衝動への後悔。
この二つの想いを背負ったまま生きていける自信が無い。
「……取りあえず、落ち着きましょうか」
スターがそう言うと、私の手からニューナンブを取り上げた。その眼は気遣っているのと同時に、悦びが入り混じっていた。
「今から選択肢を二つ、貴方にあげます」
「二つ、ですか」
「はい」
スターの顔がぼやける。おそらく涙のせいだろう。
二つ――それは、殺すか、それとも殺さずこのままかの二つだろうか。
復讐心は消えない。
殺そうとも、殺さなくとも、一生後悔するだろう。
だから、殺さないことはあり得ない。どの道後悔するのなら彼の仇を討ちたい。その結果狂えず、生涯苦しみ続けようとも。
だから、迷わず答えよう。たとえ具合が悪くなろうとも気絶しようとも――心が壊れようとも。
「なんでしょうか」
「二つ――こうして殺した後、生きてJACKに入るか、それとも死ぬかの二つです」
死ぬ――。
その発想は無かった。あれほど悲しみに暮れたというのに死ぬという発想は無かった。リスクや親への迷惑などを考えると死んではいけないとすら思っていた。
ああやはり、自分は狂えないらしい。
だからこそ――死ぬ、という提案はとても魅力的だった。
すべての思考や想い、背負うモノを放棄出来る。なんと耽美な響きだろうか。
「殺して……くれるんですか?」
――だが、自分から命を絶つ勇気はない。
だからそう問うた。
縋るように、冀うように。
全てを終わらせてくれるのか、と――
「ええ。それが僕ら、JACKの仕事ですから」
――至れり尽くせりだ。
そう思った。
目の前でほほ笑むスターがまるで天使かのように見えた。
自分は復讐を遂げ、最後は彼の場所へ行ける……それは、なんて、なんて、素晴らしいことなのだろう。
(自分が死ぬことを『素晴らしいこと』と思えるなんて――)
やっと、やっと自分は狂えたんだろうか。
復讐に、憎しみに。
「良い眼です」
にっこりとほほ笑むスターの顔は、もはや覚えていない。
ただ内から湧き上がる歓喜に任せて、吉村耕平に向けて銃口を向ける。
「……よくも、よくも……よくも! あの人を! 死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね! なんで、なんで、なんであの人が死んでお前が生きている! 死ね、死ね! 死んであの世であの人に詫びろ!」
思わず叫んだ。そうでもしないと引き金を引ける気がしなかったからだ。
私のありったけの復讐心――それを籠めて、引き金を引いく。
バシュッ! とくぐもった――それでいて鋭い音が銃から聞こえた。それが銃の音であるということにすぐには気づけなかった。
だから――そう、だから。
私は何度も、何度も引き金を引いた。
バシュッ、バシュッ、とさらに数発撃ち込む。撃つたびに、憎しみが、恨みが、怨みが自分の身体から流れ出し、全て吉村耕平に注がれている気すらする。
ああ、ああ――ッ!
「…………もう、良いですよ」
気づけば、銃の弾丸を撃ち切っていた。カチッ、カチッと引き金を引く音だけが虚しく響く。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
目の前に転がっているのは――血まみれの、死体。自分が、この手でやったことだ。
その事実に、何とも思っていない自分がいる。
こいつがこうなるのは当然だと。
あの人を殺しておいて――生きているなんて、烏滸がましいと。
悲願は叶った。
復讐は成った。
なのにどうして――
「ハンカチは、いりますか?」
「……いいえ」
――ああ。
なるほど、やっとわかった。
これが、この感情が――狂気だ。
殺したりない、この程度で済ませてしまって彼に申し訳ない――そんな、異常な感情が渦巻いているのだから。
彼が受けた痛みはこれほどじゃなかった。
彼が受けた苦しみはこれほどじゃなかった。
彼を失った私の悲しみはこれほどじゃなかった。
彼を失った私の怒りはこれほどじゃなかった。
こいつが――吉村耕平の行ったことは!
私と彼が受けた屈辱、恥辱、苦しみ、痛みは!
この程度のことで流せるほど生易しいものじゃなかった!
彼一人を殺したところでどうにかなるような……そんな、そんなことで許せるようなものではなかった。
もっと――彼の全てを粉々にすべきだった!
「スター……さん」
「はい」
「……お願いします」
私は、そっとスターに銃を返した。
その銃で、私を――殺してもらうために。
「では……覚悟は、いいですか?」
そう言って、スターは銃を構えた。
その仕草は堂に入っていて――なるほど、彼は日常的に銃を握る職業なんだなと思い知らされた。
彼が引き金を引いた時――私の人生は、終わる。
復讐したい相手ももういない。
私は最後に狂えた。
ならばもう――逝こう。
「では、谷津鏡花さん。何か言い残すことはありますか?」
「いえ――」
「そうですか」
スターは最後に――表情を消した。表情の無い彼は、まるで人形だ。
そして、カチン、と引き金が引かれる。
次の瞬間、私は意識を失った。
恐らく二度と目覚めることのない――最後の、気絶だ。
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