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 夕陽が慎ましやかにその姿を見せ始めた刻の頃。エリーゼ・マヒーザの姿は久方振りにリース邸に在った。

 リドミナでの講義も終え、ヒイロ達だけでなくニアやラムとの会話も増えた時間を過ごすうち。この頃は伴侶であるノアも何の問題も無く回復に向かっている、退院を許される日までを順調に有意義に消費出来ている。

 恐ろしい程までに、安らかな静けさだ。

 周囲の好奇や畏怖の目等は未だに消えること無く今後もそう言った扱われ方をするのであろうが、そんなことを気にも留めずに堂々と振る舞える彼女にとっては。誰にも目立った邪魔をされたと感じることも無い、比較的落ち着いて平穏と言うに値する日々が続いている。

 かつて、確かにこの広い邸宅の中に存在した末妹の姿を迎えた私室は。全く変わらぬ様子で整えられており、埃ひとつでさえ被っていなかった。カツン、とヒールの音を鳴らした際にも空気の淀み一つも無い程に。


「クロエ、すまない」

「いいえ。えどがーさまがのぞまれるからこそ、くろえはいつもどおりにさせていただいただけです」


 身勝手な望みを持ち得ていたのは、産まれてから育ったこの邸宅で。確かに信頼出来る愛情をあの人から受けたからだ。

 灰色の肌を持つ、伯爵本人の傍仕えの執事長クロエは、この部屋を維持するくらい何と言うことは無いと。そんな調子の表情でもってこちらを出迎えていた。今日の目的を既に話していることを差し置いても、クロエから向けられる視線に棘が纏わりつくことは無く。むしろ、微笑ましく見守る敵意の無い柔らかい目に、幼い頃をふと思い出した。一つの赦しを得たかのような錯覚も付随して。

 昔を懐かしむように、唇から言葉が溢れていく。


「…思い返せば、世話になってばかりだったな。兄様がオマエを連れて来た時から」

「おや。なつかしいですねえ。くろえもあのときからずっとここにいることができて、とてもしあわせにおもいますよ」

「ああ。だからこそ、オマエには恨まれても仕方ないと思っている。…兄様を一番に考えてくれて、ありがとう。オマエだけは、兄様から離れることも無い、」


 何の突っ掛かりも無く、喉の奥からするりと出せた感謝の言葉にクロエが瞳を瞬かせるのを見た。その音を出すのに、憎らしさも息苦しさも一片とて混ざりもしない、在りし日から重ねた思い出を再生すればあまりに自然なことで。身内に真っ直ぐに謝意を述べることがこんなにもすっきりとした感覚だとは。面映いと表すよりは、ただただ厚意を嬉しく思う感情の方が占める面積が大きい。

 …自身に、このように素直なままの態度が出せるだなんて。最近、ヒイロやエルルの醸し出す空気に浸り過ぎたかと苦笑したくなる。笑ってくれるなよ、とクロエに取って付けた一言を投げれば。笑って欲しいのですかと…花に止まる蝶を遠目で愛でるような声でからかわれた。


「くろえは、えどがーさまにどこまでもついていきますゆえ。えりーぜさまにも、もう、どこまでもついてきてくれるかれがいますでしょう。──それと、おなじことなのです」


 まさしくこれを、愛に満ち足りた眼差しと呼ぶのだろう。心配せず、自分を責めるな、と慈しむ心遣いに安堵した。きっとこの先、自分が兄様と離れることが多くなろうと、この執事長さえいてくれれば不安の欠片も火の粉も全て、兄様の邪魔をする事象は払われるだろうと強くこちらに理解させてくれる。

 忙殺される日々を送る兄様に、急な休みを取得して頂くこと等恐れ多い。今日またここに訪れることを連絡出来ただけでも、兄不幸者には有難きこと。

 リース家の伯爵当人から、同じ血が混じっていないにも関わらず全幅の信頼を置かれているクロエになら、今日も何を言われても良いと考えていた。初めてノアを連れてこの屋敷へ赴いた時もそうだが、きっと、責める言葉をぶつけて欲しかったのでは無いかと自己分析に至る。他者からの罵倒の言葉なら濁流のように浴びたが、自分が感情を向ける者から責められたことも叱られたことも、無かったのだから。それを幸福と例えるか、未熟と取るかはこれからの行動にもかかっているだろう。


「クロエ。………可能であれば。これからも、ここを維持して貰っても良いか。…ああ、今更過ぎるか。口実など作らなくても、兄様はお会いしてくれる方だと分かっているのに、」


 捨てるには惜しい物ばかりが、この部屋にはある。

 ええ、ええ、力強く頷くクロエの笑顔は、こちらが焼け焦げてしまいそうなくらいに強い眩しさを魅せていた。


 × × ×


 一度も愛を受け取ることの無かった霞んだ輝き達が恨み言を露にするかのようだ。綺麗、と呼べる分はかろうじてのみの量しか無い。太陽光でさえろくに浴びせなかった数々の宝石達の表情は一見変わりないように見えてその実専門家に見せれば曇りがあるとはっきり指摘を受けるであろう。

 ああ、惜しい。実に惜しい。これらを手放すことが、ではなく、これらを査定し売り払う際に低値になるだろうことがだ。

 今更ながら手袋をつけた指でひとつひとつに触れる、大きい小さいに関わらず適当な安物を送り付けてきた物では無いと言うことだけは理解出来た。しかし当然ながら大半の送り主の顔を思い出せぬ、兄様からお祝い頂いた記念の品以外覚えている価値は無いと記憶中枢が積極的に余分な情報を飛ばした為だろう。

 戯れに、己の首には絶対に合わないネックレスを持ち上げ掌からチェーンを垂らしてみた。連なるぎょくは質ばかり良く相手の衣服の色合いなど知ったことかとふんぞり返るようだ、大体が兄様に媚びを売る目的や自身を恐れて貢ぎに来た物ばかりではあるが、それにしたってその場凌ぎにも程があると断定出来る粗さの物も目立つ。安くは無いが、高価な物さえ送っておけばごまを擦れるだろうと言う浅はかな魂胆が露呈しているのだが、相手側に送る際に見破られるだろうことに気付けないのか。…私腹を肥やすだけの者共は、こんな石の違いも分からないのか。なんともはや、自らの欲で押し付けて来られた品と言う物はとことん下品である。

 私室内部、ろくに装着もしなかった宝石の類を全てドレッサーから引きずり。兄様からの贈り物以外、宝石商の元へと旅に出すと言う目的の元、大きく割れた物や傷が無いかだけでも目敏く見つめていた。

 そう、売りに出すのだ。売っても構わない物、売っても誰も傷付かない物。上流階級から見れば端金かもしれないが、マヒーザ家の家計簿の単位を見ればこの部屋の宝石類や衣服は十分家計の足しになる。エルルを通し、自力でアイロニィ家との交流を繋いだのも、そのツテで宝石商に紹介を受けたのも、全てその為。

 壊すことにしか向いていない能力、傷付けることが得意な性質。客観的に見て、自らの存在はあまりにも、嫁いだ者としては足を引っ張り過ぎる。だからこそ、今危ない側面だけでも手助けが出来ないかと…なりふり構わずこう言った手も使おうと思ったのだ。

 ノアが倒れるより以前の頃から、マヒーザ家にはある種の欠陥がある。不測の事態が連続した際に、今ある生活の大半を無くしてしまう可能性が高いのだ。勿論そんなことあの兄弟同士も自覚はあるだろう、安価で質の良い物を提供すると言う理念の下でそれを売りにしているのだ。山神の加護があるとは言え過労を良しとする姿勢のままでは次に倒れるのはアークである。いや、あの過剰な働き振りを見るに、もう兄弟合わせて数度倒れた経験もあるのやもしれぬ。

 この手を使えば金銭面でなら、一時的ではあるが多少余裕を保たせることが出来るのではと。思い立って急ぎ足で査定の約束も取り付けて。

 幼い頃より悪いものも良いものも、兄様にたんと見せて貰った身。そのお陰で備わった審美眼もあり、数少ない人を傷付けぬ目利きと言った能力には誇るものがある。この世には興味が無い物が多過ぎて、こう言った装飾品にもとんと興味は無かったが。今何よりも興味がある伴侶の為に、投げ捨てるのも良いだろう。


 下らぬことで死なせてたまるものか、

 刺だらけの花を望んで摘んだからには、何があってもアタクシの為に死ね。アタクシ以外の要因で死ぬことなど、決して許しはしない。それ程までにこのアタクシに思わせたのだから、アタクシも執着してやろう。

 伴侶として、支えられるところは支えてやる。埋めるところも埋めてやる。その程度も出来ない存在にまで落ちぶれたつもりは毛頭無いのだから。


 想いも何も無く渡される宝石などより、暗い青水晶を嵌め込んだノアの双眸に見つめられる時間こそに価値がある。それを事実と知ったのだ…恋とは、愛とは、ああ、こんなにも、知らぬ己を映すものか。

 マヒーザの女として出来るところまでは手を広げる。今行動に移している物の何割かがうまくいけば良いのではない、全てうまくいかせるのだ。

 何とも好ましい恥ずかしさに身を委ねながら、布で埃を拭き取る作業を続ける。宝石を買う機会が次に来るのなら、迷わず紺を選ぶのだろうな、と。やわらかな感情がまた産声を上げていた。

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