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「やあ、おはようエリーゼくん。あれからノアくんの調子はどうだい?」
教室の世話焼きが今日も平然と話しかけて来る、その自然さはまるで以前から友人だったのではないかと他に思わせる程、人の懐に入ることに慣れ切った印象を与える。いや、恐らくそう言う真似事をするのが上手いのだ。処世術もここまで成ると、こいつが更に成長した時相当に厭らしい人間になる未来しか見えない。
無害です、と言った態度を取りながら、先日の出来事で今のクラスがまた不和を産まぬよう甘い蜜で出来た牢に皆を閉じ込める善意の圧力を見事にかけているのが今日も自分の横に来るニアと言う監督生で。もう一々追い返すのも億劫になったところだ、虫を払う動作をしたところで結局はここのまとめ役。切っても切れない位置に収まるだけ。これがいるだけ他の羽虫が近寄って来ないと言う利点は大きいが。
「オマエまでもか…よくもまあそこまで他人事が気になるものよな」
「そりゃあ、彼も短かったとは言えクラスメイトだったしね。勝手に友人だとも思っている、…心配するのは別におかしくは無いだろう?」
「オマエのはどこかわざとらしい」
「おや、これでも親しみやすく、を目指しているのだけれどね」
どうもこうも一昨日目覚めたばかりだと昨日も教えただろうに。…いや、この場合、いらぬ世話を焼いてくると分かりきっていた相手に教えてしまった己が悪い。改めて考えると昨日登校していた自分は意識がふらついていたかもしれない、伴侶が倒れ意識不明の後に記憶へ焼き付くような形で目覚めたあの時から、どうにも余計に調子が狂っているような気がしてならない。
至って普通に考えれば、伴侶と言うだけで誰彼構わず情報を出してしまうのはこと自らに置いてはおかしいのである。まるで、自分が、誰かにノアの無事を聞いて貰いたくて話しているかのようではないか。それを意識してしまうと少しばかりはバツが悪い。
…だが、不思議とそちらの方向への変化が自分に訪れることが嫌いでは無い。ノアの、確かに自分に与えてくれたものが氷を溶かす陽の光のように、雪解けの訪れを誘っている。
「…安定はしている。退院したところでしばらくこちらにも顔は出さん」
「出させたくない、の間違いでは無くて?」
「オマエはもう少し口を縫い付けた方が賢明に見えるぞ」
「最近セリュアスにも似たことを言われるんだ、七年の間でその口上が流行ってでもいるのかい?」
どうやらセリュアス・バトラトンもある程度はまともな思考回路を持ち合わせているらしいと言うどうでもいい情報だけ分かった。悟らずとやらは本人のみらしい、恐らく好奇心に殺されに行くような像をしているのだろう。
それにしても、この男は以前からこんなに人間味のある話し方をしただろうか。どうも、機械的であった受け答えしか出来ぬ印象が六年の頃は強かったように思えるのだが…と考えたところでかぶりを振る。誰に対しても交流すらしていない状態の記憶から何が探れると言うのか。
一方的にこちらが会話を諦めて席へ着いたところで、ニアも普通に横へ着いて来る。クラスの空気の維持にも必死にならねばならない等、活動範囲が広い人間は忙しないらしい。
「エリーゼくん。会えたついでに一つ大事な話があるんだけれど」
「……予想がつく。アタクシに大体良い知らせは来ないからな。悪い知らせか、面倒な知らせか?」
「その両方なんだ、申し訳ないね」
ここで口に出すのも憚られるが、なるべくなら早く伝えたかったからと折り目がついた一枚の書類が手紙のような形を真似てコンパクトに畳まれていた。それを袖の下から出され、仕方無く受け取る。
……文字列を見て。は?と声が出た。まず呆れ、その次に面倒過ぎると言う感想が溜息を追いかけて来る。そして一番最後に浮かんだのは、このことは流石に今のノアには教えられないと言うこと。
「相当な面倒ごとだな」
「君の熱烈なストーカーからの行為はお気に召すかい?」
「…伴侶の爪の垢でも煎じて差し入れてやろうか、と言ってやりたいね」
「ハハハ。エリーゼくんも面白い冗談を言えるようになったね。─愚者には何を煎じても付けても全く効果は無いよ」
おや。珍しく感情に怒りが乗っている。演技でも無く殺伐さを感じさせる雰囲気を目にし、もしやこの話がニアの元に舞い込んだのは昨日今日のことでは無いなと悟った。
人当たりの良い笑顔を続けてはいるが、声の温度だけが無機質に下がっている。
「常識に欠けた人間を纏めあげるのは大変だと僕も十分に理解はしているつもりだけれど、手綱を引くべき人間は絶対に外へ逃しちゃならないと思わないのかなあ」
彼が装着された鎖を故意に鳴らしている、このような面倒ごとになるくらいであるならば元凶をハナから鎖に繋いでおけとでも言いたいのだろう。本来なら誰もが憧れる対象である物に対して、露骨にここまで嫌悪感を発するなど、…やはり、知らない範囲が多いが、それでもニアは人間らしくなったように思える。
「全く…どうしてこうも、奇妙な縁ばかりが続く…」
一つのことに集中したい時に限って邪魔ばかり入るのは、自分が所謂悪に属する人間であるからなのだろうか。人間ならよくあることとも言えるが。
目を滑らせた書類の上、「エテルニテ・フラム」の名が踊っていた。以前ノアとの婚約を機に、卒業後の進路としていたそのギルドとの雇用契約を取り消した、のだが。
「ノアくんには絶対黙っておこうと思うんだけれど」
「当然だ。…知った途端に入院中でも、学園へ来かねん。アレはアタクシを好いておるからな」
自然に口をついて出た言葉に、はっ、とした。ニアがにこにこと微笑ましそうに自分の方を見つめている。まるで、情緒を覚えたての子供を撫でにかかりたいと言わんばかりの朗らかさを抱えて。
エリーゼくんも、らしくなったね。オマエにだけは言われたく無いと、書類を握りつぶしていた。
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