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矢継ぎ早にやらねばならないことが増えた。
愚痴にする程参りなどしないが、口惜しいのは自分ひとりの力では完全に手に及ばぬ域があること。物理的な距離があることも難題ではあるが、その点に関しては悔しいがあの女王の寄越した物が役立っている。使える物なら何でも使わねばならぬ状況と言うのは、余計に今まで自分には無かった思わせ方をさせてくるものだ。
兄君には内密に進めようとしている所用の為にここ数日駆け回ったは良いが、嫌に痛感することがある。…基本的に己にはまともな人脈と言うものが少ないと言う、如何ともし難い事実だ。信頼出来る肉親だけの間に出来た関係性は非常に強固なものと成ったが、極端に外部の人間との交流が少なかった故に一部を頼り切ることになってしまうことが申し訳ないと思うのだ。
リースの威光に肖ろうと媚を売ることに徹し、思ってもいない言葉を無理矢理捻り出すような取り巻き共など最初からその枠に入らせる筈も無い。ヒイロと本気でぶつかりあう前にも後にも、学園の内外で私情を語り合い、悩みの解決の為に話し合える者などおらず。己の方から歩み寄ることを拒否した者もいたから孤立していたと言うこともよおく身に覚えがある。人を殺しかけた女に誰かが近付くものか、と吐き捨てるのが普通であると考えるが。最低の悪女として殺人未遂まで重ねた後のこの自分に、あの事件の後にそれでも寄り添う者がいたなど流石に予想もつかなかった。
昼下がり、また新たに火種を抱えた心情を鉄の理性で抑え込む時。最近は、そう。この時間に良くそんなことを想起する。
「エリーゼ先輩、すごいお疲れに見えるの…大丈夫?」
「……嗚呼、すまないね。つまらなさそうに見えたろう」
書類の写しを手に、持ち寄った昼食を大食堂の隅で開いていた。自身の向かい側に座るのは、またしても、ノアの存在が無ければ繋がらなかっただろう類の人間だ。物語の中に出て来てもおかしくない程、小さく愛らしい様を振りまく姿の持ち主は。こちらがいると余計にその柔らかな愛嬌が強調され、際立つように思える。野獣に美女とは良く言ったもので、獰猛さを鋭くさせる自身と違い、重力や気圧からさえも愛させる才があるのでは無いかと、そんな素っ頓狂なことを思うくらいに軽やかでふわりとした印象を彼女からは受ける。
高級な毛糸で丁寧に編まれたような髪、衣服のフリルとリボンがより彼女を愛らしくか弱い生き物に魅せていた。まるで綿菓子のよう、等と過ぎる程、自身からはかけ離れた心の育ち方をしただろう彼女に、努められる限り優しい声色を出した。
「ううん、いいの。あたしはエリーゼ先輩が心配だから、…何も出来ないより、何かをしてる姿を見られるのは安心するの」
特等のお人よしの元で育った良さを見せながら、彼女自身も持参した食事をゆっくりと食べている。
…彼女の名はエルル・アイロニィ。紡績業を営むアイロニィ男爵一家の末娘であり、その中でも最も溺愛され幸福に暮らしている、絵に描いたような理想の貴族の出身の者。忙しなさから茶会でもその姿を見かけること自体が少ないアイロニィ家の者と自身がこのように顔をつき合わせ昼を共にすることになったか。きっかけは、以前に植物園で彼女の課題をノアと手伝った際。どうせ一度切りと思った出会いが、まさかその後このように縁を繋ぐとは。
あの日。ノアが倒れ、その後学園に戻った折。誰もがこちらを疫病神だと噂し、ノアの存在で緩和していた空気も手のひらがすぐ返され針のむしろとなっていた。国王の釘がすぐに刺さったこと、監督生であるニアの一声があがったこと、それ以外にもヒイロが頻繁に顔を出し付き添おうとする場面が増えた為、周囲からの嫌悪感を感じ取る暇ですら無かった速度が生まれていたのだが。そんなさ中、一年であると言うのにわざわざ七年の教室にまでやって来て、ノアと自身のことが心配だからと見に来た新たな変わり者が、このエルルであったのだ。
「何かをしてると安心する時ってすごいあるもの。あたしも、何か困ったら心を落ち着ける為にハイドラをずっと撫でるの。そしたら次のことが思い浮かんでくるから」
「そうだねぇ。エルルのお陰で、アタクシもやれることが増えた。感謝している」
「…うふふ、とても嬉しいの。エルルはお役に立てないけど、エルルのお家がお役に立てるなら、こんなに誇らしいことは無いの」
前にお世話になった恩はあたし忘れないわ、と。あんなに小さなことであるのに、素直に心のままに行動し接触してきたエルルのことは。この自分からでさえも、自然と母性本能を引き出させてみせるぐらいに純粋な子供と思えていた。憎らしさですら湧かない幼さ、手を引いてやりたくなる様はノアとはしゃいでいた姿を見たからこそ、彼経由で余計に守るべきものだと認識してしまうのかもしれない。とうにリースの家の者ではなくなった自身の頼みごとを快く引き受け、男爵とエリーゼ・マヒーザと言う個人間で人脈を繋ぐ為の働きを彼女をしてくれたのだ。
カイルとユーリ?知らんな。
そう比べたくなるくらい、大分騒がしく打算的な例の五年とは違うしとやかさを持つエルルは、間違いなく卒業する頃には誰もが羨む淑女になるであろうと簡単に予測がつく。これを憎むようになったら、きっと人間としてはおしまいだ。それ程までにエルルと言う存在は、自分と違って心地良い眩さを他に提供する稀有なものであると感じる。
…まるで、こちらだけを見る、二人きりしかいない時のノアを思わせるような、痛いくらいな純真さ。彼女が側に寄ることを許したのは、もしかすると、自分がノアの片鱗を求めたからでは無いかと錯覚するまでに。ヒイロとはまた違う眩しさを持つ幼い子。
「お父様もはりきっているの、ご連絡は取れていて?」
「心配無いさ、既に個人的な打ち合わせも全て済ませている。査定の日取りも近い、…ここまで出来たのは、エルルが会いに来てくれたからさ。そうで無ければまた別の方法を探していただろう」
「まあ!それなら本当に良かったわ!これからもずっと過ごせるもの!」
紡績業を営むアイロニィ家、その繋がりに宝石商がいないかと確認してみれば信頼出来る筋の者がいるとエルルから返ってきて。そこから、ノアが目覚めぬ間すぐさま関係を構築した。兄様を頼れば一番早かっただろうが、今の自身はかつてリース家だった者としてでは無く。ノアの伴侶として、エリーゼ・マヒーザと言う個人として、どうしても動きたかった。何故だろうか。この身に流れるリースの血に不信感を持ったから、と、言うのもある。けれど、権力を使えぬ不便さを思ったとしても、ノアの為だけに動ける者になりたいなどと、以前の姿からは考えられぬ程思考回路にあの男が馴染んできた。
ダストア先生は大人としても、教師としても、回せる手全てを自分達の為に使って下さって。アークの兄君は、ご自身一人だけになっても家計を支えようとされていて。だからこそ、守られっぱなし与えられっぱなしでは、我慢出来ぬ性分なのだ。ノアも起き、カウンセリングとリハビリに一日の大半を費やして、また「エリーゼ様の為に」と微笑むばかりなのだろう。
あの男からの好意は、愛情は、本物だ。断言する。偽りの感情を抱き媚びてきた穢れた輩を大分見てきたからか、その本質に気付けば眩しさに目を潰される。あれは自分のことも悪者だと言うが、エリーゼと言う者にとっては何よりも必要な悪だったのだ。偽善では無い、当初は完全な善に在りながらにして、エリーゼ・リースの存在に自ら狂い、願望、愛、そう言った全てのことを自身に対して表すようになった業の者。物好きとも、理解出来ぬ者とも言われる彼奴が世間にもほとんど出ずカシタ山にいた理由が理解出来るくらいに、あの日あの時自分に会う為だけに心血を注いだ者。
歪んだ純粋そのものの愛のかたちを、誰が正解だ間違いだとなどと判別出来るだろうか。
「エリーゼ先輩、……あのね。ノア先輩がまた出てこれたらね、あたしと一緒に皆でご飯をしてほしいの、」
ノア先輩をとりたいわけではないのよ!と、慌てて言葉を出す様子に苦笑した。
「困ってた恩をお返し出来たからおしまい、にしたくなくて…。…その、あたしと、……お友達になって頂きたいの。お友達なら、あたしがエリーゼ先輩のお隣にいても、普通のことでしょう?」
ふいに発せられたその言葉に、目がぽろりと落ちそうになる。
友達。このアタクシに、友人がいることが普通だと、そのようにエルルの目からは映って見える、と。なかなかに面白い解釈だ、このエリーゼが日和ったのか、それとも。──ノアを経たアタクシが、そんなにも、どこにでもいる少女のように見えるのか。
ああ、実に興味深い。他人から見た自身をこんなにも知りたいと思ったのは、初めてだ。
もう既に友人みたいなものさ、
エルルにそう投げつけてやると、口元を両手で覆って嬉しさを呼吸で表していて。
目紛しい現在の、数少ない学園での癒し。よもや自身にもこんな感情を覚える余裕が心にあったなどとは露知らず。書類を片付け、彼女との食事に集中することとした。
兄君の作る弁当は、ノアの手掛けた味に良く似ていた。
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