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金糸雀が鳴く声が、耳にするりと入ってくる。この国で、朝一番に聞くことが多いそれ。歌のように綺麗に紡がれた声は、いつだって爽やかな目覚めに誘ってくれる。いつもよりほんの少し遅い朝、明かりを点けずとも周りが見えやすくなってきた時間帯。壁掛け時計はもう七時を示していた。
「ノアさーん、おはようございます。癒術師のアウユスです、朝になりましたのでお邪魔致しますね」
個室の戸を叩く音が三回聞こえて、ベッド上で身動ぐ。はい、と起き抜けの小さい声を僕は出してゆっくりと状態を起こした。巻いていたタオルがずるりと落ち、すっかり乾いた髪の毛がぼさっとした形で空気に触れる。はねた箇所を手櫛で少し直すが一部分だけ頑なにぴんと尖ったままだ。後で水でもつけて直すとしよう。
もう起きていたんですね、と癒術師の先生が明かりをつけながら個室へ入って来て。たわいもない話をしながら、血圧計器での測定を行った後は、朝食前の薬と水を渡される。昨夜はよく眠れた、先生が言うには巡回中もぐっすりとしていたそうで。未だにぼーっとしてはいるが確かに疲れは取れている気がする。
「数値に異常はありませんね、安定されているようで何よりです。不快感などは今ありますか?気持ち悪いとか、頭痛がするとか」
「いえ。すっきりしてるなあとは。多分、大丈夫です」
「あと三十分程したら朝ご飯のお時間ですが、無理して全部食べなくても大丈夫ですからね。食べられる分だけで大丈夫ですよ」
お着替えをどうぞ、と渡された新しい患者衣を受け取って、先生がいなくなった後にのろのろと着替え始める。
真っ白い部屋の中での目覚め。僕の意識が回復してからのはじめての朝、やっぱり、一人だけの目覚めはとても寂しい。そして、とても、悔しい。魔力器官が破裂したなんて滅多に無いことは誰にも止めようが無い上に対策も出来なかったからこそ何者も責めはしないけれど。ただ虚しさも時折過ぎ去っていく、せっかく学園に同行させて頂いたのに、十分に役目も果たせないまま安静状態なんて、と思わずにはいられない。
…彼女の周囲を観察する以外にも、学園と言う場所がどれだけ普通の人間にとっては良いものなのかと言う点も少しずつ分かって来たと言うのに。なんだか、もう取り返しのつかない今になってようやく惜しいと思えてくる。
そっか、ご飯も出てくるのか、兄弟で分担して行う朝の家事も今日は出来ない身体で。働き盛り、何か出来ることも探したい時に安静と言うのはかえって心が落ち着かないものなんだなと息をついた。楽しさを覚えた場所から急に離れると寂しさも伴う、ちょっとだけナイーブになれるのも死ななかったから出来る経験。悶々としたものが産まれようが、生きてて良かったなと本気で思えるから前向きに行こう。
爽やかな朝、白湯と流動食から立ち込める優しい湯気を前に、僕は先生の到着をおとなしく待っていた。
× × ×
「おーっす、ノア、元気か」
ひょっこり、ノックと同時に病室にやって来た人は僕の視界にするりと違和感無く入り込んで来た。時刻は、朝食の配膳も終わった八時過ぎ。リドミナ学園へ人が続々と投稿を始める頃合で、素早く空になった器がかたかたと片付けられたその後だった。
一口に安静にしよう、休みにしようと思っていても何をして待っていようかが分からず。あたたまったお腹を携えてひたすらにぼーっとしていた僕は、薬の効果もあったからなのか一度ははっきり目覚めた筈なのにまた眠気が出てきていて。ラム先生の登場にも反応が少し遅れた。
「あ、先生、おはようございます」
「おう。少し様子を確認しにな、状態は全部聞いてる。今の調子はどうだ?」
「……そうですね、なんだかまた眠くなってきて。あ、身体は元気です、とても調子が良くて、」
片手で椅子を引きながら僕のベッド横で座る先生を目に、早くもうとうとしたくなってくる。伝えたいことが山程あると言うのに、なかなか口が回らないのは難儀なものだ。
ラム先生は、今は無理すんなとだけ言葉に出して。その手が僕の後頭部をぐしゃぐしゃっと撫でた。
「諸々すまんな、ここ辞めた身だってのに執刀させて貰った。安心しろ、最後まで責任は持つ」
「…何だか、迷惑ばかりかけて申し訳なくて、……僕は、もう生徒でも無いのに、」
「短い間でも、お前さんは俺の教師生活始めての大事な生徒だよ。今もそれは変わらないし、大事な患者でもある。…癒術師だって人間なんだぞ?情に熱いところもあるもんさ」
先生が笑う。そんな細かいこと気にするなと言わんばかりに、不安を拭い去ってくれる明るい声色と表情だ。
そう、もう僕は生徒では無い。元々短期間の転校予定が更に短くなって、最終的にはたった四日間しか存在しなかった転校生であると言うのに。正規の生徒枠で無い僕にまで、こんなに手をかけて下さって。どれ程お礼を言えば良いかさえわからない、非常に難しい施術だったからか上に許可を得てまで僕の症状の執刀まで行ったと伺っている。…学園でも、癒術院でも、本当に世話になりっぱなしだ。そも、僕の魔力器官の変調に気付いて話しかけてくれたのもラム先生なのだから、始まりからずっと彼は命の恩人である。彼が執刀して下さらなければ、きっと、僕はそのまま死んでいた可能性だって想像に難くない。
「先生、この度は本当にありがとうございました、何から何までお世話になって…………」
「何、気にするな。病は気からとも言う、今は退院したら何したいとか何食べたいとかしっかり考えておけ。術後の気持ちは結構大事だぞ、暗くなっちまうとモチベーションが上がらねえからなあ」
傷は塞いだが万一のこともある、と最後にまた僕に安静を促して先生は立ち上がる。学園は行く前にわざわざ立ち寄って貰って、大分忙しそうで申し訳ない。
「また夕方来るからな、気になることも多いだろうし大事なことはそん時に話し合おう。たまにはゆっくり休んでおけ、今まで兄弟働き通しだったんだからよ。きっと、無理にでも休めって女神様が言ってるに違いないさ」
……ぽん、と。その話で、脳裏にあのブレスレットを下さった女神様の方が思い浮かぶ。連鎖的に、故意では無いのだ今回は。と陛下が呟いた言葉まで思い出すのだが。
今回「は」が一番気になると言うことに気付いてしまったことは忘れよう。
学園行ってくるな、と手を振る先生。慌てて「いってらっしゃい」とその背に言葉を投げる。今日は、見送る側だ。
全てが新鮮に感じ始めた今、…苦手だったこの白い部屋での時間も、耐えられる予感がした。
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