115

 はた、と急に目が覚めた。外からの刺激があったわけでも無い、何なら瞼ももっと寝たいと訴えて瞳をもう一度隠そうとするのだが。人として習慣付いたことはこういう時でも身についているものだなと、目をこすって両目を開ける。


「……歯磨きしなきゃ……」


 あと御手洗いも…。あ、お風呂も…。眠りこけている間に出来なかったことが脳でぽんぽんと浮かんでくる。実に遅い挙動で、ベッド横に止めていた車椅子を自分の方に引き寄せた。木製のアンティーク調な見た目をしてはいるが、これがなかなか丈夫で僕を乗せても軋んだりしないのだ。腰をかけても腕周りにゆとりがあるから窮屈では無いのが嬉しい。鈍い動作で乗り、ほんの少し横着をして足置きに足は乗せずに、車椅子に座った姿勢のまま両足をちょこちょこと動かして前に進んで行く。一等の個室であるからか室内に御手洗いも個室風呂も完備されていて、共用の御手洗いまで遠く移動をしなくて良いから楽だ。

 雲が頭にかかったような心地で、気紛れにカーテンを開ければ月光が布に差し入れた僕の手の甲に差してきて。…今夜は、月が綺麗に輝いている。遮るものが何も無い空は、こんなにも月を眩しく見せるのだろうか。僅かな月明かりでも寝起きの視界には少し刺さる、月があんな位置にいると言うことは、あれから僕はすっかり何時間か眠り込んでいたと言うことだろう。

 手洗い場でのんびりと整容しながら、少しだけでも起きていたいとまた思う。ぐだついた様子でドアを開けながらバスルームへ行く、掴まりたいなと思った位置にちょうど手すりがあって安全な行動を促されていると思った。…気にし過ぎるくらいが、今は丁度いい。

 やけに静かな、意識を取り戻してから初めて明かす夜を共にしようとドアを閉める。ああ、早く家のベッドで眠れる日が来ますようにと、高級感溢れる場に合わない自分に苦笑した。


 夜が、更ける。今夜は彼女の言葉の意味を考える為の時間になると、僕は強く感じていた。


 × × ×


「……すずしっ、」


 整容全てを済ませた身で、病室の窓を開けるとこの時期相応の夜の涼しさを教えに来た風がぴゅうと入り込んで来る。風呂場から上がってきたばかりのあつい身体から火照りを無くす手伝いをしているようだ。髪が濡れているからか余計に冷たく感じる。タオルで髪の水気を拭いとりながら、患者衣を新しいものに変えた僕は久し振りに感じた爽やかな感覚にうっとりとしかけていた。

 またほんの少し髪が長くなったかもしれない。バスルームでぎゅっと髪を絞ってきてもそれだけでは湿ったままだ。こんなに夜遅い時間帯だ、多人数部屋から離れているとは言え髪を乾かす道具を使って騒がしくするわけにはいかない。患者衣が濡れないようタオルを肩にかけ、自然乾燥に任せるのが適当だろう。それにしても、ずっと髪を結んでいないのも新鮮だ。こんなに乾きにくくなるくらい毛量が多くなるとは、時間なんていつの間にか経過してしまうものなんだなあとしみじみ思う。

 ベッド脇の小さな明かりだけを付け、深夜の時間帯に窓から差し込む風に心地よさを感じながら外を見続けていた。


(…エリーゼ様、一体何があったんだろう)


 思い浮かべて、空に願うのはやはりたった一人の姿だけ。澄んだ夜空に視線を釘付けにしたまま、車椅子上で肘をつく。いつも以上に遅い速度ではあったが、整容自体もスムーズに出来た程には体調も安定している自覚が出てくると思考も徐々に鮮明になってきた。

 眠りに就く直前の光景が、壊れたビデオテープのように何度も何度も、それこそ擦り切れるくらいに頭に張り付いて離れない。僕をベッドに落として立ち去った彼女の様子が、いつもと違うように感じたのだ。


 ――もしも、と。


 僕の名を呼び、そう呟いて。その続きを、自ら噤んだ。…幾ら僕が病み上がりでも、眠る寸前だったとしても、彼女の明確な様子の違いに反応出来ないと言うわけでは無い。目覚めてからすぐの時でさえ、彼女がいつもと違う空気を携えていたからこそ僕は抱き締めた。

 冷風が僕の頭を冴えさせていく。眠ってしまった分浮ついた思考回路が、即座に矯正されていく。

 そうだ、あの時俯いていた彼女は何と言っていた。どんな声色だった。……そう、あれは、まるで、何かに怯えるかのような、それに近い感情が動いている。そうとしか思えない。誰だって一人の人間である前に、生物だ。怯えることも確かにあるだろうが、ことあの方に関してはそんな姿を見せること自体が既にのっぴきならない事態なのである。


(あんな表情を見たのは、初めてかもしれない)


 あんなに辛そうな声を聞くのも、滅多に無い。

 誰に問えるでもない、たった一人の病室での自問自答。回答が返ってくる期待など微塵も無い。沈黙の中でただ彼女を想い、探る。考え過ぎだとしても、突き刺さった棘のように僕は気になるのだ。そして、彼女に大きな悩みがあるのなら、その軽減もしたいと。


(もしも。もしも、かあ、)


 もしも。

 そんな言葉を使うのは、実現が難しい仮定の話をする時が多いだろう。もしも、彼女が、……何をしたら?何を思ったら?その次の言葉を知る前に去ったエリーゼ、そこからどう繋がるのかが分からない。

 けれど、僕には見せたことの無い表情を。僕にも効かせたことの無い声を、していた。僕が思考する為の引き金は、それだけでも十分過ぎる。

 僕が眠り込んでいる間、本当に何があったのだろうか。

 もしや、話されなかっただけで、本当は学園で何かしらあったのか。……いや、ニアくんやヒイロちゃんが学園にいる状態でひどい有様になることは有り得ないだろうし、何より学内に彼女が恐れるものは一つも無い。疎ましく思う人間は何体もいようが、明確な怯えを覚える事象など無かった筈。女王様に対しても畏怖するどころかありのままで接するエリーゼが不安を覚える場所に、学園は当てはまらないだろう。

 では何を悩むのか。彼女がそこまで深刻に考えざるを得ないとなれば、やはりお義兄様に関する事柄か。お義兄様は、彼女にとって掛け替えの無い存在だから。…となれば、僕が倒れた際にリース家にも何事かが立て続けに起こったのか?――いや、それ程のことなら兄さんも把握する筈。

 彼女の周りはもう、孤独では無い。

 僕達兄弟もそうだが、お義兄様もヒイロちゃんも、女王様とだって表立って過ごせるような環境になっていった。つまり、その分表立って見守ってくれる人も増えたと言うこと。彼女の周りが原因で何かが起こったのなら、僕がいない場合一番近い兄さんの耳に届く筈。…その兄さんからも何も言われていないと言うことは、彼女の周りのことで悩んでいる可能性も低い?のか…?

 彼女が何も言わず、けれど悩んでいる。誰にも話せない悩み、となると。僕だったら、どうだろうか。


(――まさか、自分のことで悩んでいる、とか、?)


 ひた隠したいと言うなら、もうそれしか思い浮かばない。周りが何も言わず、彼女も言いたがらないとなれば、焦点が当たるのは個人のことに近いやも。



『……アタクシに、どんな顔をして待っていてほしかった……?』



 ふいに、僕の腕の中にいた彼女の、力無い声を思い出す。見せたく無いだろう表情をしていることを察せられない程鈍い男では無かった、けれど、あの言葉は。僕以外にも不安に思ったことがあると言うことに他ならないのではないか。

 どんな顔をして待っていてほしかった、なんて。普段の彼女なら、場面ごとの表情にあそこまで深刻にならないだろうに。僕に見せる顔にすら、悩みと不安を見せた。一体、彼女の心に、何があったのだろうか。

 もしも、その不安ですら全部僕のせいから産まれたものなら、謝っても謝り切れないだろう。


「……?」


 そうであってほしくない予想ばかり考え込み過ぎて、冷や汗すら出て余計に身体が冷え込んだ。そんな時、悪循環にはまった思考を遮るかのように、窓の外を何かが通った気が、した。

 ……え?と自然に疑問の声が漏れる。何だ、白い布みたいなものが、窓の外をふわっと横切ったような。まさか人じゃないよな。いやそうで無いと困る。この一等個室って、確か、四階………。


「…参ったな、幻覚まで見えてきたぞ、こりゃまともに考えられるわけも無いな、」


 何だか目が回ってきた気までする。いや、素直に怖い。疲れ切った身体で窓から身を乗り出して確認する気も失せる、ぱたんと窓を閉じカーテンを閉めた。

 …長いこと考え込んでいたらしい、暗い中時計を薄めで見ると、風呂を出た頃からもう長身が一周半していたことに驚く。丁度集中力も切れてしまったようで、肩から力が抜けるとまた一気に眠気が出てきた。

 余計な節介を焼く暇があるならとっとと寝ろと彼女が遠くで思ってくれているのだろうか。まだしっとりと濡れている髪をタオルでくるくると包み、ベッドに戻る前に枕の上にももう一枚タオルを敷いた。

 しっかり休まねば、今何を悩んでも身体が絶対安静と言う制限を受けている状態では誰も何もさせてくれないだろう。勿論、彼女も、僕に何もさせてくれないかもしれない。けれどただベッドの上にいるだけでは、この気持ちに抑えがきかない。

 言葉に表すことが今難しくとも、彼女は僕が起きた今でも辛さを抱えていることがはっきりと分かったのだから。ああ、もどかしい。かと言ってまた身体を壊しては…。


(エリーゼ、好きです。本当に、愛している。だから、貴女の辛そうな姿はこれ以上見たくないのに、)


 ――その辛そうな姿を、僕だけの前で見せてくれたことに喜びを感じたこの僕を愚かだと笑ってほしい。

 眠ろう。

 眠りにもう一度就こう、精神が不安定な時はそれに限る。馬鹿だな僕、せっかく目も頭も冴えたと思ったのに。思考回路が即座に歪んでいってしまう。

 生きていて良かった、そう本気で思った昼の多幸感とはまるで対照的に、罪悪感に包まれる夜に見切りをつける。夜空はずっと澄んでいて、まるで暗くなった気分を慰めてくれているようだった。


 × × ×


 ふわり、ふわり。空を泳ぐ存在がある。

 ヒュプノス癒術院、四階、窓の外。幻覚と見間違う生き物が、そこに浮いていた。

 白い傘を被るそれはとても小さく。されど、地上で見るには些か珍しすぎる存在感を放っている。

 迷子のようにあたりを泳ぎ回った後、すぐ傍の病室の窓にぴたりと頭を張り付けた。人間で言う手足、の部位にあたる触手を広げ、全身でびったりと窓にくっつくと。まるで、泥につかっていくかのように、とぷんと窓をすり抜けていく。


 病室の中。眠り始めたノアがいる場所を泳いだそれは、ノアの胸元にまでぷかぷかと辿り着く。それに感情があるのかは分からないが、人間に例えたなら今、その生き物は安堵したような思いを抱えているのだろう。慌てていたような挙動が、目に見えて落ち着いている。


 白いベールを被った、小さな小さな海月が。その目で海に見立てたノアの中へ、とぷんと沈み込んでいったのを見た者は、誰もいなかった。

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