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ヒュプノス癒術院に、夜の帳が下りる頃。暗くなる街中で全ての病室に未だ明かりがついた院内、消灯時間にはまだ早い時。僕は、すっかりと落ち着きを取り戻せていた。
ベッドテーブルに、小さく湯気が立つ。
ほっこりとした温かみを手に感じさせてくれるのは、重湯と少しの流動食。一気に喉へ押し込まないよう少しずつ摂取すると、本当に生き返った気分だ。とても寒い真冬の日、作業を一生懸命終えた後に用意されたあたたかい紅茶を飲んだ時を思い出す。半分程死んだ思いではあったけれど、また食事が出来ているだけでも嬉しい現実が染み込んでくる。
夜の時間になってもまだいてくれる彼女の存在も、病み上がりの僕の活力を自然に回復させてくれていた。
「……疲れていませんか、ずっとここにいてくれたと聞いています」
「病人が一丁前に気にするな。食器を下げたら戻るさ」
「…ありがとうございます。とても、落ち着きます」
温室で倒れたあの朝から数えて今日でなんと四日目らしく…つまり今日は僕が学園に出入りするようになってから初めての休息日。先週の休息日にあたる日の今頃は、リドミナ学園に向かう為の準備もてんやわんやで終わらせさあ何が来ようと挑んでやると大きい意気込みすら見せる余裕が出ていたと言うのに。前と今の劇的な変化は、これこそ波瀾万丈と皆から言われるものなのだろう。ベッドに座り患者着で過ごす、意識のある状態のままで初めて過ごす癒術院での夜が近付いていることに、妙な緊張感を持っていた。
四日間、僕はその間ひたすらに眠り続けていたらしい。施術後時間の経過と共に解ける魔法が効力を無くす時を大幅に過ぎてもそのまま意識が戻らず。寝相のいいことに呼吸以外で微動だにもせず動かなかったからか余計に不安にさせてしまったようだ。
…まさか、僕の中で陛下と一緒に病原菌の大元を叩いていたので起きられませんでした、とは気が狂っても言えないなと申し訳なく思う。事実は時に小説よりも突飛である、その上魔力器官の重い症例はまだまだ少ない為何が起こっても不思議では無い。ひとまず絶対安静とされた状態で、柔らかい食事から慣らして体力回復を目指している。
「……学園は大丈夫ですか。お供出来ずに本当に申し訳ない」
「気にせずとも、それ程変わらない。…オマエがいてもいずとも変わらないと言う意味では無いからな」
「すいません、顔に出てました、?」
「はっきり」
何から話したものか。無茶を犯した自覚がある分どう話し出したものかと迷っていれば、また捨て犬みたいな顔をしてしまったらしい。寂しさを覚えるとすぐ露呈してしまう、こいつはなんとも分かりやすい男だなあ、全く。
僕がゆったりした食事をしているさ中、エリーゼはずっと、僕の横にいる。検査が終わってまた病室に戻って来た際には、既に外は夕焼けに染まっていて。ちょうどそろそろ夕食の配膳が始まる頃合いでもあった。あまり休めていないからと言う理由で兄さんに先に帰宅を促した彼女は、自分も休めていないだろうに僕の夕食の様子を見届けてから帰ると話してくれて。
……目が覚めたのは今日の午後に入ってから、しかも聞けばエリーゼは朝方から様子を見守ってくれていたらしく。貴重な休息日だと言うのに、その時間を全部僕に使ってくれただけでも言いようの無い多幸感と申し訳なさが同時に襲ってきた。でかい図体のまま動けなければ本当に木偶の坊だ、しっかり確実に体力を戻して働く為に今は回復に専念しよう。それがエリーゼや兄さんに対する恩返しの一つでもあるのだから。
「…何でしょう。食べれることが少しでも分かると、途端にお腹が減ってきます」
「感覚が戻るのはいいことさね、だが勝手な間食はするなよ。まとめて叱られるのが関の山だ」
「そこなんですよねえ……ああ……明日の朝も流動食……おいしい……」
喉を通り胃に入るものが腹を温かくしていく。飲食と言うのはそれだけでも人を満たしてくれる行為だと痛感する、重湯と流動食に味は全くと言っていいほど無いが療養の為には良いものだ。それに、温かいものを口に含めるだけでも大分回復したと思い込める。まあ、とにかく、量が足りないのは仕方の無いことなのだけれど。早くも空になった三つの小さな器は、どこかしら誇らしげな佇まい。病み上がりの僕をひっそり応援してくれているみたいだ。
四日も薬液の点滴をしていたとは言えよく空腹で起きなかったものだ。普段食べる量とはかけ離れた病院食を口にしてから活発になる胃腸が、どれだけ経口摂取を求めていたかが分かる。食べ盛りの年齢にこの食事制限は普通だったら辛いと漏らすところなのだろうが、こちとら死にかけから復活して余計に命を大切にしようと思っている人間だ、癒術師の言うことは絶対に聞いて、言われていないことは絶対にやるべきでは無い。聞き分けの無い患者であればある程完治から遠ざかると言うもの、しっかり養生せねば。
「持っていく、」
「あ、ありがとうございます、」
名残惜しそうに器を見る視線を外せば、エリーゼが病院食のトレイを引き寄せて席を立っていた。病室を出る彼女の後ろ姿でさえ、数週間ぶりに見たような気がする。…過去まで遡り様々な記憶を見て疲弊したからか、四日と聞かされた時も「四日も眠っていたのか」と言う感覚と「まだ四日しか経っていなかったのか」と言う驚きの感覚が混じり合っていたのを覚えていた。
両親の、あの、……………、場面など、掘り起こしたく無い程のトラウマだった筈なのだけれど。時間が解決してくれたのだろうか、それとも悲しみに対する耐性が僕自身に少しはついたのか、当時のように泣き喚くことも無く。むしろ、発狂とも呼ぶべき異常な行動を起こして泣いていた幼少期の僕の姿を見て、憐憫の情が湧いた。
かわいそうだ、それは間違いない。大きな愛情を与えてくれて、僕のような子供を肯定してくれた人を一気に失ったあの時の僕が。僕達二人が、可哀想では無い筈が無い。…でも、いつまでも、可哀想と思われるような有様ではいけないことを知っているから。
長く部屋に篭った期間をようよう越えて。父さんと母さんの残した農園を守る為にも、支えてくれた兄さんの為にも、いつかこの場所に迎え入れたい彼女の為にも。前を見て歩みを止めないことを選んだのだから。そう考えれば、心の成長があのトラウマで壊れないようにしてくれたのかもしれない。
だって、僕の全ての原動力になった彼女は。現実で、今、僕の傍にいてくれる。彼女がここにも、心にもいてくれると言うのに、過去に押し潰されることは無い。そう、簡単なこと。兄さんが、エリーゼがいるから、もうあの過去を受け止められる。受け止めたまま今を生きることが出来る。その機会をまた与えられた身なのを、忘れてはならない。
「…大丈夫か、少し上の空だぞ」
「ああ、…いえ、はい、…まだ、ぼんやりする時があって、」
「少し寝ろ。学園のことも農園のことも、考えずとも良い。今は休むことだけに集中しろ」
「ふふ、嬉しいです、ありがとうございます」
…満足出来る量では無いけれど、温かさが染み渡るとすぐに睡魔が襲ってきた。施術中の魔術の影響がまだ残っているのか、体力の限界がいつもより早く訪れている。病室へまた戻ってくるエリーゼに気付いたのが数秒後なのだから、間違いなく僕の身体は今も疲れ切っているらしい。
うつらうつら舟をこぎ始めたあたりで、エリーゼに肩を押される。柔らかいベッドに僕の背中が包まれた。
「明日、下校の時にまた来る」
「は、い」
「絶対安静で待てるか?」
「はあい、」
「良し。それでいい、とっとと寝ろ」
愛が。愛が綿のようにやわらかくて、優しくて、あったかい。食べてすぐ眠くなるなんて本当に小さな子供みたいだ。掛け布団をすっと被せられてはもう抵抗も出来ない、疲れた身には布団も重いのだ。
休め、とぶっきらぼうに聞こえるようでいて、エリーゼの声色は優しくて、まるで子守唄のようだった。
「……ノア。…アタクシが、もしも、―――――――」
何、でしょうか。そんなに遠くては、聞こえません、よ。
室の明かりを落としていくエリーゼが、一度だけこちらを振り返っている。睡魔に飲まれる方が一寸先、耐えられず閉じる瞼に負ける前に見た彼女の唇は、それ以上の言葉を見せずにいた。と、思う。
おやすみなさいと、心の中で投げかけて、落ちた。
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