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 世界で一番美しい声を聞いた。

 祈るように出された音が、僕の名と同じだったことに、気付いた。


(エリーゼ、)


 真っ暗に沈み込んだ意識の中でも。きっと目を開ければ、手を伸ばせば。その先に貴女がいると確信した。輪郭の無い暗闇の中でも確かに貴女がそこにいるのだと分かる、僕がどんな時だって存在を辿れるまでに貴女の色は強く放たれている。こんな薄暗い底にまで、貴女は在ってくれるのかと傅きたくなる程に。

 ぼやける視界が戻るまで待つなど時間が勿体無い。僕の世界に響いた、聞いたことの無いような貴女の声。心臓を掴んで離さない、悲痛な声。それを聞いて、今すぐに動かない男など今ここで死んでしまえばいい!


「エリー、ゼ、」


 溺れる夢から、ようやく醒めた。


 嗚呼、けれど。また夢のように信じられない光景が、広がっている。冷たい水はここには無い、呼吸を殺すような重たさも身体を引きずる悲壮も消え去った場所。現実だ。何分何時間あの精神世界に沈みこんでいたのかは分からないけれど、その枷を一切感じない程軽くなったように感じる身体は予想以上に早く動いた。曖昧な感覚と視界が目覚めて、視界が鮮やかになるよりももっと早く、早く。熱を持った彼女をこの腕の中に迎え入れていた。

 心の中だけで呼ぶに留めていた名を、躊躇無く呼んだことに自分で気付く。敬いも込めた呼称まで投げ捨てて、ただ、彼女の名前を呼ぶ。彼女の在り方を示す名そのものを力強く、引き留めるように口に出す。


「エリーゼ、大丈夫、大丈夫、だよ」


 夢と現実の境界が一切無いような、いっそ不自然なまでに自然な感覚。暗闇の中の道と、今ここにいる僕がそのまま真っ直ぐに繋がっていたかのよう。水のカーテンを開けた先の人影にすぐ向かっていた。

 エリーゼ。大丈夫。それだけを繰り返して、きつくきつく彼女の身体を僕は抱き締めていた。

 無理に上半身を起こした反動か、僕が横たわっていた場所らしきものが少し揺れる。ああ、そうか、ここは。ずっと前にもあった経験だ、白い部屋、薬草の香り、血を吐いて倒れた人間がまず運ばれるであろう場所。身を乗り出したそこはベッドで。身体にかけられていた布団の重さなど感じず、起きた勢いで乱暴に捲られたそれは僕のせいで全く役目を果たせない状態でいる。


「大丈夫。僕が、傍にいます。ずっとお傍に」


 周囲の様子にも、ようやく明るくなってきた。ベッドの横にいてくれたエリーゼを僕は今、この腕に閉じ込めている。丁度胸元に顔が隠れるだけで無く、彼女自身が俯いて声も出していないことで異常を察した。精神を物理的に弄られたこともあった影響が続いているのか、今、彼女が何らかの不安に包まれていることを敏感に反応してしまう。

 ……表情など見ずとも、今の彼女はきっと、哀しさを覚えているのだ。大きな不安を抱えている。そうでなければ、僕があの声を聞くものか。彼女がこんな声をあげるものか。それにいち早く気付いたのならもうやることは決まっている、例え死にかけだろうが病み上がりだろうが、彼女を何が何でも守りに行く。


「――寝坊の病人に、大丈夫と言わせてしまうとはな、」

「…………無理を、しないで。僕が誰にも見せないから、…許しを得るまで、僕も、見ない、」


 小さく聞こえた声、少しだけ体重がこちら側へ寄ってくれたことに気付いた。余計に、彼女を抱き締める腕に力が入る。

 誰にも、誰にも見せない。貴女が弱さを人に曝け出すことを好まないと知っているから。家族相手にも奥底まで開かなかった心を、ここで僕がこじ開けることなど出来ようか。急に起き上がった反動まで遅延してきたらしい、くらりと目が回る。けれど、強くなる心拍が僕に生を実感させていた。骨肉が邪魔をしていると言うのに、二人の心臓がすぐ隣り合っているかのように骨を伝って音が聞こえてくる。沈黙に落ちる僕達の言葉の代わりに、毎秒トクントクンと静寂を全て埋めたのは身体の底から熱くなるような心音だった。


 まるで、いつか見た夢の再演のようだなんて、僕の腕の中にいる彼女を目に。あの日の明晰夢が蘇る。

 リース家との対面の為王都へ行く前日に見た、威勢を取り払った彼女を……普通の少女としての側面を、僕が夢見たあの時。結局、僕の心が作り出した僕自身の妄想に過ぎないのだろうけれど、エリーゼと言う人生の終わりを決して悪いものにはさせたくないと覚悟を決めるには十分過ぎる程の喝になった事象。貴女がどう在っても全てを愛したいと、僕が当たり前に思った時。


「…………ノア、」

「うん。エリーゼ、」

「オマエ。……アタクシに、どんな顔をして待っていてほしかった……?」


 僕の、名前。辛そうに呼ばれるのは僕の名前だ。ノアと、いつもの呼称では無いそれが心を引っ掻く。何ということだろう、初めて知った、貴女はそんな声色で僕を呼ぶのか。僕が名のあるもので本当に、良かった。祈るように僕を呼んでくれる、貴女に呼ばれるだけの価値が僕にあるのだと教えてくれている。貴女が悲しみを抱いていると言うのに、その貴女を抱く僕はその事実だけで満たされてしまいそうだ。

 質問の意図を考えようとするが、力すら無く弱々しい様子に。きっと、彼女は今、見せたくない一面の筈のものをこぼしてしまっているのでは無いかとさえ思えてきて。僕が眠っている間に、どんなことを考えさせてしまったのだろう、不安を覚えさせてしまったのだろう。ただ抱き締める腕にだけ力が入っていく、それ以上無理に喋ろうとしなくていい、と言うかのように。


「エリーゼがいてくれるだけで、僕はいつでも嬉しい。…ううん、駄目だ、悲しそうな顔をしてるのだけは、見たくないな、」


 僕は我儘だ。悲しい顔は見たく無い、悲しい思いもさせたくない。でも、どんな負の感情だとして、それを少しずつ吐露出来るようになってきた今の貴女を見ることをこそ嬉しくも思う。

 貴女が隠したいと思う気持ちそのものまでも、僕が護りたい。祈るように、助けを求めるように出された音が僕の名ならばどんな状況だろうが今すぐにでも、貴女の為に働きたいんだ。


「エリーゼ、好きだ。愛してる、…知らない間に、貴女を傷つけてしまったこと、謝らせてほしい」

「…馬鹿者。オマエのせいでは無い。どうしていつもそう思い込もうとする、」

「だって、僕を呼ぶその声が、今一番辛そうだ」


 でも、嬉しいです。そう口に出して、慰めるようにエリーゼの髪をこの手で撫ぜる。ああ、なんて生意気なことを。今の僕は現実の貴女を感じられることが何より嬉しいのだ。艶のある短めの髪は、それでも絹糸のように指の間を綺麗にすり抜けていくほど逃げるのが上手らしい。


「生意気を言います。僕を、――惜しむような声を聞かせて頂けるのが、今、何より嬉しい。貴女のお陰で、本当に生き返った気分です。貴女にそう思って頂けたこと、貴女に隣で待って頂けたこと、貴女が今ここにいること、貴女に、呼んで頂けたこと。全部全部、病み上がりの身には一番の薬です。すごく嬉しい、幸せだ、このままもう一度死に掛けてもいいくらい、」


 …言葉を返してくる代わりに、エリーゼの固まっていた腕が。僕の背に、伸びたのを感じる。


「………死にたくなるほど、アタクシが好きか、?」

「ええ。でも、貴女を本当に幸せにするまでは、死んでも死に切れない。だから都度生き返るとしましょう」

「阿呆を重ねるな、薬の副作用でも出たか」

「いつだって僕はこうだったじゃあないですか」

「――ノア、」

「うん、エリーゼ、」


 おかえり、


 静かな波のように、僕の心へ浸透してくる優しい響き。それを貰った直後、また心臓が跳ね上がる。

 ただいま、

 すぐに返して、彼女を僕の方へ強引に引き寄せた。抱き枕代わりにはなれんぞ、と彼女の笑い声、はしゃぐ僕。

 もう少しだけこのままがいい、と。僕に体重を預けてきた彼女を抱きとめながら。戻って来れたことが真実だと十分に堪能したくて、意識して呼吸をした。


「……生きてる。ただいま。ただいま、エリーゼ、」


 計器の数値上昇を察知した癒術師が室に飛び込んで来るまでの間、僕達は再会を心から喜んでいたのだった。

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