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 呼吸音と、機器の音。癒術院の職員が出入りしない限りは、それだけしか響かない静かな個室。窓の外からは、金糸雀が美しい声で鳴くものの。中にいる人間は、その声を聞くことすら叶わない程の深い眠りに就いていた。

 窓に時折強めの風が当たると、かたりと小さく枠が揺れたように見える。まるで小人のようにかつかつと窓を叩く風も、この部屋を与えられた患者を見舞いたいのだろうか。静寂だけが訪問者となっていた。


「…………」


 物言わず、眠るだけの患者…ノアを見て。そのベッドの隣で足を組み、時間を忘れた風体でひたすらに座り続けるのは血の色に似た髪色の持ち主。エリーゼは、沈黙を保ち続けたまま、呼吸の度に僅かに上下するノアの胸を見て。しかと息を吸い、吐く動作を行っている身体を見て。態度にこそ出さないものの、その両目に優しさに似たものを宿らせていた。過去の彼女であれば、絶対に知ることも無かっただろう感情が時間をかけて押し広がるのをとくと学んでいる最中と言っても過言では無い。

 數十分、一時間、数時間。ここまで自分を待たせる男だなんて、と思ってもいない悪態をついてやったところでその皮肉に微笑む程の余裕を、今の伴侶は持っていなかった。開胸された施術痕は跡形も無く綺麗に消され、呼吸も完全に安定している。…じきに目を覚ますだろう、と言う予想を裏切って。ノアはエリーゼが傍にいると言うのに、目覚めない時間を眠りに就いたまま過ごし続けていた。


(……人を、外れた、女、か)


 彼の伴侶として在れない自分は、それでしかない。僅かな時間と信じているが、ノアが倒れてから目覚めるまでの間に、答えを見つけなければならない疑問がまた一つ出来たのだ。思考する、思慮に耽る、自分の傍に好きで存在する男の隣で幾らなりとも考える。が、互いに歪な者同士であるからか、何ということか普通と言う範囲に辿り着けない異常さを都度知覚してしまう。


 四日目だ。


 ノアがあの朝に自分の目の前で倒れてから、もう四日も経つ。たった七日でここまで状況が変わる等誰が思うか。今日は、休息日。先週の今頃は、一緒に学園へお伴します、と張り切って準備をしていた彼が。自身の姿があれば饒舌になる彼が、一言も発さず床に伏す等、違いすぎる姿に考えが追いつかない部分もある。ノアがいない日常はあまりにも静かで、兄であるアークからもエリーゼからも活気を無くさせていた。

 傷心を気取るわけでは無い。むしろ、傷心にすら至っていない自身を今、エリーゼは疑問に思うようになっていたのだ。己が冷徹であり、人殺しにも手を染めることに躊躇が無い程の自我を持つことを自分自身が良く知っている。様々な言動を見せつける度、周囲がこちらを勝手に恐れて人でなしだと指を突きつけて来たことも。

 人でなし。

 外見に対して言われるのなら頷ける、一族の多数の兄姉の中。このような特徴的な瞳を持つ者は存在しなかったから。一族の中でどうして自身だけが、と思ったこともあるにはある。一夫多妻とだけしか知らぬ異常な家庭事情を鑑みる限り、父親では無く母親からの遺伝なのでは無いかと予測したことも。されど、幼い頃に純粋に投げたその疑問が長兄を悲しい表情に落とす物だと知って以降は、踏み込んではならない領域であったのだと自ら口を閉ざした。

 末妹である自身にとって、長兄であるエドガー・リースは何よりも大切に想う存在のひとつであった。化け物のようだと謳われる自分にとって、聖域と言うべき程に。


 だから。初めて自分を愛しにやって来たノア・マヒーザと言う青年も。きっと自分の心の中では、エドガーと同じ場所にしまわれるのだろうと。いつかはそこに自然に立たせてしまうのだろうと思っていた、のに。


(参った。……化物と言うのは、真実だった、)


 化け物のようだと数多言われて来たが、畏怖されることに別に嫌悪は無い。むしろ邪魔な者は自ら去ってくれるからこそ楽だとも。

 容姿についても、内面についても、普通の人間では無いと揶揄されることには慣れ切っていた。普通の人間はどの場面でどうする、と言うこともとっくに学んでいた。世間で言う普通、と己がかけ離れていく感情ばかり持つことについても悩んだことは無い。自身を貫き、自分の為だけに生きていると言う実感を背負うことをむしろ誇りにさえ思う。

 人とは違う個性を持つことに恐れなど無かったと言うに。有り得ないことだ、今、この時を生きるエリーゼ・マヒーザは、恐れている。伴侶が死ぬかもしれないと言う現状等よりも、自分自身を恐れている。そのことに初めて恐怖を覚えているのだ。

 お前のやることは、人間のそれでは無い。ヒイロを殺しかけた時から投げ掛けられた言葉にすら動揺は一片も無かったと言うに。何と愚かしいことか、自分は本当に人では無いのだろうと言う確信を得てしまったことが、恐ろしいのだ。


 普通の人間なら。普通の女なら、伴侶であるならば。何を一番最初に行うべきだ。それは勿論、嘆くことだ。不幸に襲われた伴侶に対して、痛かったろう、苦しかったろう、早く痛みから解放してやってほしいと、泣くべきなのだ。

 だが、自分は、違った。

 あの時何を思った。血を吐き出して、地面に倒れた伴侶を見て。驚愕の次に産まれた反応は、嘆きでは無かった。普通の人間であるならば、本当に人間であるならば欠片でも生まれた筈の感情が微塵も浮かばなかったのだ。いいや、確かに、ノアのことを見ていたと言うのに。違うのだ。驚きから目を離せなかったわけでは無い。……見惚れたのだ。事もあろうに、血を吐いて身体を崩した彼に、顔色を一瞬で変えて苦悶の表情で倒れた彼に、その血に、見惚れたのだ。

 何を馬鹿なことをと思うだろう、けれど事実。その鮮血に目も心も奪われたからこそ、地面に頭から落ちそうだったノアに手を伸ばすのがほんの数瞬、遅れたのだ。焦って身体を動かし、彼の上半身を受け止めてずるりずるりと脱力した姿を地面に下ろす際も、その血の香りと色に、見惚れていた。こんなことをしている場合では無い、と脳は分かっていたのに、自分の身体は本来の目的を忘れようとさえしていて。

 あの時。間違いなく自分は正気を失っていた。初動の何もかもを遅延させる程度に、自制のきかない何かに取り憑かれていた。

 ノアの血が、この世の何よりも、――美味そうに見えたのだ。


 死にかけた伴侶に対して沸き起こった物が、捕食欲・・・だなんて。


 有り得ない、有り得ない。けれどそれが真実だった。それを人間だと、人は言わない。

 兄と同じように、聖域に入れてもいいとさえ思える程の愚か者。きっと、この愛を更に深く学べば知らない感情が更に増えるのだろうと。それを増やしてくるノアのことを、自分は既に一人の男として心を許していた。けれど、このような感情が知りたかったわけでは無い。

 化け物のような人と、自らを人と思い込んだ化け物では一と千ほどの違いがある。あの一瞬で、自らが完全に後者であることを、エリーゼは知ってしまった。今まで一度も思ったことのない…真実の人でなしが持つべき感情を持つべくして生まれた、本物の化物であることを。

 あのまま正気に戻らず、ノアをこの手で殺しかけたかもしれない。恥も外聞も無く、あの唇を奪って、噛み付いて。あの血を胎内に取り込んでしまいたいと、思ったのだ。


 愛し方を知らない。愛され方を知らない。

 形だけの婚姻関係だけしか知る機会は無かった。愛したいと言う欲も、愛されたいと言う欲も湧かず。ただ自分が自分らしく自分の勝手で生きていければそれで良かった。

 前世から貴女を見ていた、と言う、自分と同じくらいには頭の外れたノアに攫われてからと言うもの。普通の女としての在りようなど、もう比較して考えずとも良いのだと目から鱗が出た心地だった。愛の形は一つだけでは無い。長兄から親愛を貰った身ではあるが、真の男女の仲など情報だけを知識に入れた程度である。人殺しの女の罪を共に背負うことを望み、攫い、その命まで捧げるとまで言う男。未来がどう転ぶかも分からないと言うのに、この女の為だけにがむしゃらに無茶をする男を、初めて見た。

 きっと、自身も相当に浮かれていたに違いない。それ程までに、出会えた時から既に特別を感じていた。自分を愛する危篤な存在など、この男以外には永遠にいないだろうとまで思わせる愛の重さに。自身も、返していいのか、と。初めて知り学ぶ愛に、きっと、もう少しで自分から手を伸ばせた筈なのに。


(何故こんなにも美味そうに見える、何故、何故、何故、何故だ、)


 血を啜り、肉を食み、その味を全て覚えたい。ノアの血肉を取り込んだ時、きっと自分は生物として完成する・・・・・・・・・……何をとち狂ったか、あの瞬間確かに自分はノアを極上の餌として捉えていた。

 伴侶では無い。餌、として。何故だ。何故このように有り得ない欲を持つ?あの瞬間、自分の中の何かが確実に変えられてしまった。獣のような本能が、魂の檻を破り露呈した。


 アタクシの中には、何がいる、


 このような感情を発見したのは、人生の中で初めてだった。今までの自身ならば感じなかったものが、何処からか引き摺られた感情を埋め込まれているような気持ち悪さがここにはある。



『いいえ。いいえ。そう、普通じゃないんです。でも、……私達は「特別」なんですよ』



 あの時、泣きそうな顔で抱きしめてくれた兄様あにさまは、アタクシの側で何を囁いてくれた?

 兄様、兄様!

 特別とは、何なのです。普通とは、どの感情を指し示すのです!この身体の出自に、一体何があると言うのですか。今までのアタクシには無かった物が芽生えたと言うのなら、それはこの身体に流れる血に要因があるのでは無いのですか?

 誰も教えてくれない、貴方が口を噤めばアタクシとて聞けなくなる!

 怖いのです、怖いのです。

 それを聞いてしまえば貴方を泣かせることになる。それを恐れるのに、伴侶が死に体の折にひとつも涙を流さない己のことが!伴侶がこの世の何より美味そうな血肉の袋にしか見えなくなる瞬間が出来た今のアタクシが!何より恐ろしく、何より憎い!


 兄様もアタクシも化物なのですか。どちらかが人間でどちらかが化物だとしても、どちらも化物の力を持っているではないですか!老い無き身体を皆が持ち、時が止まったように微笑む貴方もいる。それなら皆は美しい化物だ。ならばアタクシは、醜い物だ。

 人は、こんな感情は持たない。食料として伴侶を喰いたくなるなどと、思うことは無い。胸の内が、死ぬほど熱い。決して明るい思いでは無く、この内に眠る化物が目覚めてしまったと言う後悔ばかりが目覚めていく。


 飲まれてはならない。

 弱さを見せるなど、動揺をするなど、それはエリーゼとしては有り得ないこと。だが、どうして。まるで自身の中に、自身では無い誰かがいるようで。それを抑えられそうに無い状態が、ここ数日続いている。

 アタクシとて、オマエを愛している。その筈だ。けれど、あの時生まれた感情の言い訳をする為に、その体裁を整える為だけに、毎日こうして病室に通っているのでは無いかと途端に不安になるのだ。


 初めてだ。自分が揺らぐと言うことは、こんなにも、どうしようもならないものだと知ったのは。


 オマエはこれに耐えていたのか。この、何かにとって代わられようとする恐怖に、耐えていたのか。前世と言う記憶にいたアタクシより、今のアタクシだけを選ぶ為に、どれだけその心で戦ってきたのだ。


「――ノア・・、」

 

 絞り出した祈りの声が、オマエの名をしていることも。たった今、オマエが教えてくれた。



 瞬きの後に。不穏に波打つ心臓が、ゆっくりと落ち着いていく。


 この身を包む温もりが、ベッドの上から起き上がって来たのだと気付いたのは、数秒も後だった。

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