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 前世それの魂は、何の因果があってか。架空であった筈のものと酷く似た……本当に存在した世界に転生する機会を経た。輪廻の道に乗り、その過程で魂の質量だけが再利用され…また新たな人間の魂と成る為に、不必要な概念は削除され記憶は浄化し別物に生まれ変わった、筈だった。


 不幸な事故だったのだ。既に自我も無い、姿すら思い出せない前世の魂は、生に対する執着が通常の人間よりも濃かったと言う他無い。


 ノア・マヒーザと言う名で産まれた子供の中。

 決して有り得てはいけない事態、彼の魂の中に残滓として発生した、目覚めた前世の魂の末端は彼の成長を大きく阻害し続けた。今この時に至るまで。

 前世、と言う肉体も人格も持たず。そこから搾り取られた、一滴の粕。前世本人とも言えない残り物が悪い作用を起こし始めるようになったことが、ノア・マヒーザの魔術師としての人生に歪みを与えたのだ。

 ただ生きたいと言う欲望を叶える為だけに目覚めた残滓に自我など無い。最初は、生きる為に栄養を摂取しようとした意思の無い微生物のようなものであった。植物が光合成をするのと同じように、目の前にあった物を養分の代用として手を伸ばして生き延びようとした。それだけのことだったが、それだけのことが大きな異常をもたらす種になったのだ。

 ノア・マヒーザの魂の末端にそうして穴を開けた、彼の中でバグを起こしたもの。端的に言えば、起こる筈の無い魂のバグ、それが前世の意思とも無関係に動いた残滓の名前である。

 虫食い穴のように年月をかけてじわじわと穢れを広げていったそれは。宿主の魔力を喰い、魂に癒着し、彼が成長すると共に大きく育ち始め…終いには、魔力を通して器官にまで重大な異常を引き起こした。無茶をして彼が魔法を無理矢理に使う度、魂の綻びは少しずつ裂かれていき、その頃には既に「悪性」と認められる程に大きくなったその不調は。はっきりとした悪を認めぬ女王の善なる魔力による攻撃により、宿主ごと殺されると言う結末に近付いたのだ。


 その結末を、阻止する為に現れたその方が。一歩、魂の成れの果ての存在に近付きながら、微笑んでいた。


「さあ、仕事の時間だ。――おいで、ク・トルク」


 ぱちん、

 暗転を示す役割、陛下が軽く鳴らした指の音。それと同時に、怪物の身体が瞬きの間に千々に引き裂かれていくのを目にして。もう、終わらせる段階に着手されたのかとハッとする。人が溺れるような音を発生させながら、悲鳴にも似た、不快な鳴き声が僕の中の世界に響き渡った。


「式は既にあった、過程も明かされ過不足ない回答も今、そなたの口からはっきり出た。であれば、後始末の時間であろう。安心したまえ、このまま無事にあれは消えていく。塵のひとつもそなたの中に残さずな」


 目を疑うような光景が、そこにはある。巨躯を持つ黒い海月の傘も、中身である触手も、大樹から強引に引き剥がされるかのようにその身を切り裂かれ。ばらばらにされていく肉片が、透明に見える背景に吸い込まれていく。あれが、何かに手を加えられているのだ。それに気付いた時、僕は思わず胸を押さえた。何だか知らない、分からない、知覚してもいない物に勝手に身体を弄られるような不気味な感覚がここにある。心臓に絡みつかれているような、この世のものとは思えない現象から触られている!

 全ての元凶だと明かされた怪物が、何かに千切られ。そして、喰われて面積を失っていく。言いようも無い気持ち悪さがスッと軽く消えていくのを感じたのに。怪物の背後で蠢くものの姿がやっと視認出来た時、本能的に僕は地面に俯いた。――見ては、ならない。それを見れば、きっと、正気を失うことは請け合いだ。むしゃりむしゃり、と怪物が身を削られる音だけが耳に残る。質量を減らされていく海月が、まるで僕に向かって断末魔を上げているようだった。この身体の持ち主なのだから、助けてくれとでも言うかのように。


「おお、鋭いな。生きることに執着が強いからなのか、その敏捷性は面白い。水に縁深さを感じる色を持つお前なら本能的に恐れるものだからな。…何せ、こいつは私とカナリア以外の人間には懐かない。そのまま、私のペットが食い終わるまで待っているが良い」


 幼少の頃に封印を解いて心を通わせたものだ、等と、それを微笑ましい思い出の中に換算出来るこの方は本当に何者なのだ。あれは、召喚獣や精霊と言った範疇には収まらない。人外れどころか、化け物からも外された……神に似た、何かだ。

 海底より来たる、恐怖の象徴。恐らく、水に深く関わる者には何らかを感じ取れる。いいや、無理矢理に恐怖を植えつけられるのだ、今の僕みたいに。外から脳に電気を通される、その衝撃を神託のように感じ取って跪くしか無くなるのだ。


「そなたの成り立ちは、初めから歪であった。前世の記憶が覚醒すると言うことは、自分では無い何者かが元から潜んでいたと言う事。自分のものでは無い記憶を初めて見た時、薄らとこの世界に似た場所を思い出した時……そなたは何を思ったのだろうなあ?」


 何を思った。

 そんなの決まっている。一番最初は、エリーゼのことだった。知っている世界、地球と言う場所で製作されたスマートフォン用の乙女ゲームアプリ、”慈愛のマトゥエルサート”。それに触れていた、成人した女性の記憶。…そう、その記憶が目覚めてから、得したことも損したこともあった。

 山奥に住んでいただけでは一生知らなかったであろう、エリーゼ・リースという姿を知れたこと。彼女に対する愛を知ったこと。記憶の中の彼女という概念自体に一目惚れして、突き動かされたこと。それらは全て、記憶を得なければ出会うことも無かった輝かしい感情である。

 そして次に、自分がいなくなってしまわないかと言う不安も起こったことは確かだ。前世が普通の人間だったと言う記憶が、魔法を使える世界の僕に唐突に捻じ込まれたことで魔法がうまく使えなかったことも。


「魔法という祝福がこの世界にはあるからこそ。その祝福が与えられもしない世界の記憶を持つ限り、そなたには捻れが生まれ続ける。いつ破裂するか分からない因子を抱えてきたことを知らずに生きれば、魔術師としての才能が噛み合わない形になるのも道理よ。…だからこそ、おめでとう。ようやくこの身体を制御する為の権利全てが、そなたの手元に戻ってくる。今日からようやくそなたの人生の主導権はそなた自身に委ねられるのだ。当たり前のことすら当たり前に出来なかったそなたに、真実の祝福がやってくる良き日はここよ!」


 今日が前世の絶命日。今日が今世の夜明けになる。

 怪物がその姿を食い千切られる度に、少しずつ身体が軽くなる現実を実感していた。…何をしても、劣る。この色の通りの才能も出せない、出来損ない。自分のことはそう思って、それを受け入れて明るく意地で生きる術も手に入れたと言うに。

 今まで、どれ程重たい物を抱えて生きていたのか。その割合を初めて知らされて、身体とはこんなにも軽くなるものなのかと驚愕する。見えなかった枷を次々と外されているのだ。

 異物が段々と減っていく、僕を邪魔する物がここから失われる一瞬一瞬を強く自覚していく。あれを一気に消さずに少しずつ噛み砕いていることには、まさか僕にこの思いを味あわせる為なのだろうか。魔力の巡りが、段違いに浄らかにされているのが分かる、……これが、僕本来の魔術師としての能力だというのならこの怪物は、どれ程僕の魔力器官に影響を及ぼしていたのか。


「そなたの記憶の一部が、中途半端にしか思い出せないのは本能的に抵抗を示していたからだ。――記憶の全てを詳細に思い返した時、それは己と言えるのか?人格が前世に引っ張られ、自己の人格があやふやになってしまうのではないか?それを感じ取っていたからこそ、思い出せないと困る記憶があった時でももやがかかることは多かったろう。深く前世の記憶を思い出せば、同一に近付いてしまう。ノア・マヒーザと言う己を失うことをそなたは何より嫌っていた。知らぬ記憶が蘇った時、前世の人格に飲まれずに記憶だけを利用するに留まったのも、生物としては当然のことよ。寄生された者に、自我など無くなってしまうからな」


 息苦しさが無くなっていく。心なしか、呼吸の通りまでも良くなったのでは無いかと錯覚する程に、今までに無い程の絶好調さを僕の体内は表していた。

 光の雪が降り注ぐ。怪物の残骸を押しのけて、僕を祝うようにあたりを美しく煌めかせ。たすけて、と言う幻聴を、掻き消していく。黒い残滓を浄化していく。

 あれは、僕を殺すかもしれなかった物。僕を乗っ取ったかもしれない物。同情など、微塵も無い。……ただ、エリーゼ・リースを教えてくれたことだけには、感謝はある。ああ、前世の記憶持ちだけだった筈が、前世そのものに成り掛ける羽目になっていたなんて。この怪物に大樹の全てを穢されてしまえば、前世に成り代わられてしまったのだろう。魂が変わってしまえば、外見が僕でもそれは僕とは言えない。

 エリーゼと僕の間に立ちはだかると言うのなら、例え彼女の記憶を今から奪われようが、僕は前世の残滓を容赦無く殺すだろう。



『だが。今は、アタクシの方がその映像よりも勝っているからここにいるんだろう』



 ――前世の僕達の関係ではなく、今世の僕達を僕達自身で肯定した今、例え記憶喪失になろうと、例え死にかけようと、何度だってエリーゼを見つけ出して恋をする。愛をする。ノア・マヒーザはその為に産まれたのだ、たった一人、愛しのエリーゼに全身全霊を捧げる為に!僕こそがオリジナル、もう誰の二番煎じでも、誰の転生体でも無い!

 自身の存在証明に対する欲が、今までよりも強くなっているのを感じた。


「安心せよ。これは処分し切るが、それによってそなたの記憶の今まで全てが欠けることは無い。魔術師としてのそなた本来の姿に戻るだけ。……そして、おまけもつけようか。伴侶だけでなく、私の執事も世話になった礼だ。前世の記憶は道具として使う分には多少役に立つだろう、そなたの魂とは完全に分離した状態で使うのであれば問題も無い。それに、そなたの記憶まで完全に無くしてしまえば、私のウィドーがまた胃を痛めるだろうしな!せっかく見つけた記憶持ちの友なのだ、そう言う理由でそなたを振り回すこととするぞ」

「……ウィドーさんが大変だなってことは、分かりましたね……」

「ふふ。あれは、そなたと良く似ている。自分の命を投げ捨ててでも私達を守ろうとする姿勢も、前世は前世として割り切り、記憶を道具として利用している点も。守る為であれば手段を選ばないところも全て、気に入っているのだ」


 ――さあ、夢から醒める時間だ!私の餞別は、そなたの目でしかと確かめるが良い!


 大樹に絡みつく存在が全て、欠片も残さずに消え去った姿を晒した時。海底の森は今までに無い光を見せていて。

 意識が沈められるのを感じた、けれど。いきなり電気を落とされるような怖さは無く。…優しく、揺かごであやされるような安心感と共に訪れた睡魔に誘われた。

 俯いた姿勢のまま、前方に倒れこむ。


 また会えたその時は、友人として話をさせてやろう。


 …そんな、有り得ない夢の有り得ない終わり方にはぴったりな言葉を、子守唄がわりにして。

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