109

 溺れて、沈む。

 呼吸しては泡立つ息にすらも実感が無くなっていく。


 ノア、


 名前を呼ばれた、

 宝石を指でなぞるかのように、大切に大切に呼び掛けられる。そんな声を僕はいつだって聞いてきた。記憶の中でもその優しげな声は変わっていなかったことを思い起こす。


 ノア。


 僕のその名前。僕の存在を証明するものの一つ。絶望に膝が折れても、泣き崩れて立ち止まっても、僕を僕でいさせてくれた呼び声。それは水底からの聖なる響き。その幻想を耳にして僕の自我はまた保たれる。


「ノアよ。しばしの記憶の旅路は如何だったかな」


 ノア。…そう、死に掛けていたこの身体の名前も、魂の名前も、僕だけのもの。異物などお呼びで無い、僕だけが名乗ることを許された名前。自分の名前ですらも掻き消えた前の世の者とは違う、今を生きる為の勇気を刻み付けてくれた存在証明。

 身体がまた水の中に沈められる感覚に、戻ってきた、と理解が出来た。もう一度、近くで名前を呼ばれたことでこの目は開く。張り詰めた空気を纏う、激しい動悸に眩む眼前に、吐き気を覚えて蹲った。幾度と無く続いた不安定な浮遊感は落ち着き、全身に纏わりつく水によって無理に引き止められている。魂の世界、海の底。死んでいるのか生きているのかさえの自覚まで霞む此処で、咳き込みながら立ち上がった。地にしっかりと付いた足は、確かにその裏で固さを踏んでいた。


 濁流、であった。


 人生、今まで生きてきた間の走馬灯をたったの数十分の間にまとめられたような濃縮具合の情報の波を脳にそのままぶち込まれた。脳を満たす液が余すところ無く劇薬に変えられたかのような、言い表せない魔術に巻き込まれて来て。動揺を沈め、深呼吸を行い落ち着きを取り戻す僕の横には、兄さんとは違う感情で僕を呼ぶ、この方の。陛下の御姿。俯瞰した視点から見れば、産まれたばかりで満足にも動けない生物がゆっくりと立ち上がるまでを微笑ましく見守るような図だろう。眼を細めうっとりとこちらを見つめ、また一度僕の名前を口にする陛下。記憶の海で際限無く呼ばれ続けた兄さんの声とまた違う、愛しい家族に向けるものとは完全に別物で。僕と言うものを哀れに思い、慈しむ目的を刻み付ける為の発音だった。


「ノア。気分は悪くは無いか」

「……はい、陛下、」


 引きずりこまれた記憶の旅路とやらから、僕は戻されたようだ。自分の魂の中で深い心理にまで潜り込むだなんて生きているうちで二度とお目にかかることは無い。夢でも溺れ死にしかけるなど洒落にならないのだが。

 泡の中へと二人で潜り込んでから何十分経ったのだろうか、精神で感じた時間と実際に流れる時間に著しい差があるように思える。微笑む陛下にあれこれと伺う体力も精神力も無い、正しく縦横無尽、水と言うテクスチャを張られた宇宙の中へ遊泳させられに行ったようなもので。ただ目を回した状態のままで、僕は言葉を努めて出す。余計なことを聞く勇気よりも、本題に一直線の方が今は良い。何てったって、他の誰でもない僕の生き死にがかかっているんだから。他人事のように悠長に構えられる展開でも無い。

 ただ、早く皆の待つ現実へ急いで戻らねばと言う焦燥感が育ってきたのだ。


「ああ。本当に可愛そうに」


 悪気も無しに。故意にその言葉を選んだとしか思えない囁き。僕は答えることも出来ず口を引き結ぶだけであった。貴方の慈悲が、今は、苦しい。


 陛下の力で、記憶を辿った。ラム先生との回想を行えたことと同じように、僕の人生の様々な場面へ吸い込まれては次の場面へ渡り。浮いては沈み、留まって渡りの繰り返しの果てに僕達はまた此処へ戻ってきた。怪物が我が物顔で鎮座し食い荒らそうとする、僕の魂の中枢の世界へと。

 過去の僕自身の追体験。その目的は、陛下の話す通りに、僕がこれからも生きる為に必要なことだったのであろう。事実、奥底から引きずり出されたそれらの映像は、僕が特に悩んでいた場面ばかりだった。兄さんと違い、自然に魔力を引き出せないことに落ち込んだ幼少期から、学園に通うことを本気で拒絶した頃。完全に何の魔法も使えなくなってしまった時期から、初めて移動魔法の祝詞を天から賜った際まで。

 勿論、それらを通して再度思い知ったのは僕が個性色に対して釣り合わない魔法の扱い方しか出来ていなかったと言うこと。……両親の事故の記憶まで見せられた時は両目を覆いたくなった程だが、あの時の精神的なショックも魔力器官に影響しているに違いないとは当時の僕も考えた。それらは全て、魔力器官の異常と、今目の前に巣食う物を結びつける点だったのだろう。

 冷や汗を流しながら、少し前の陛下の言葉を思い出す。…肯定してしまえば、誰にも知られたくなかった僕の秘密を吐露することになるのと同義だが。陛下は、僕よりも前に、その言葉を出したのだ。押し黙ってしまったところで、隠す意味ももう存在しない。

 とうに、全てを知られているから。


「……陛下。恐れながら。――これの、正体、は」

「怯えているな。仕方の無いことよ、今のお前にはとても辛いことだろう。…私に全てを曝されている状況で、自分から言葉を出すことなどこれ以上無い拷問よな」

「は、あ、」

「うまく言葉に出来ずとも良い、そなたの中を見れば何を想像しているかなど簡単だ。無駄に言葉を重ねずとも理解が早くなるが、如何せん人のかたちを取ると饒舌になりたくなるのが性よ。許せ」


 最後のパズルのピースを、陛下が今まさに綺麗に埋め込もうとしている。

 こんな感覚、何度もあるものか。同じ境遇を持つウィドーに指摘された時とも、自分から言葉を濁してエリーゼと兄さんに語り出した時とも感情も感覚も全く違う。今、陛下の横にいる以上、頭の中で繋がった事実は、僕が異物であると他でも無いこの方に認められるということだ。

 王国の頂点に立つその方本人の前で、僕が、いてはならない存在であったと白状するようなもの。一時期深刻になった程の、この世界での感覚から無理矢理あちらの世界…地球の感覚に戻される違和感を、今この場で口に出すことは憚られた。

 自分の身体であるのに何かに引っ張られて邪魔をされる…ノア・マヒーザと言う魂の剥離が起こるのでは無いかとすら不安に陥った自覚があったからこそ、もうとっくに終わった前の世のことだと思い込みたかったのかもしれない。


 別の世界の残滓、

 君達の世界、

 僕の中身に潜む「邪魔者」

 そして、僕が魔法をうまく使えない理由の根本を占めたもの。


 ここまでヒントを出されても分からなければ稀代の大馬鹿だ。隠し通したかった秘密も、この世界では並ぶ者すらいない程のお方に既に掴まれていては、吐き出すことに躊躇も出来ない。

 つまり、気にしている暇も無いのだ。例え、例え……陛下が、この世界に似た話を知っている転生者達の存在を、大分前から把握されていたと取れる御言葉を出されていようが。


「察しが良い人間は好きだぞ。そうとも、今そなたが己の存在意義を潰しかねぬと危惧している物。そなたの魂に寄生し、そなたを歪にする物。そなたの、この世界での暮らしを不便にする物……そう、そなたの前世・・、その人間の魂こそが全ての元凶であり、此度はそなたの命を危機に晒したわけだ」


 きっと、現実と夢の狭間にいる今で無ければこんなに冷静ではいられないだろう。ここから醒めた後、途方も無い話の重さに襲われるだろう覚悟を決める。


「えらいえらい、よくわかったなあ、褒めてやろうなあ」


 …猫撫で声で僕の頭に手のひらを乗せて優しく動かす陛下が、ますますの現実離れを助長していた。

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