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 ぱ、と目を開けば。現実にはまだ遠い、夢の二重底の中。目を開いた筈なのに、身体がここにいないような…何とも言えない不思議な感覚だ。

 ここは?ぷかぷかと全身が水に浸けられているみたいに重い浮遊感が纏わりつく。何も見えない、何も聞こえない。世界から音も光も消されてしまったかのように、暗い暗い空間をたださ迷う物体になっていた。まるで、波に流されるままの海月だ。どこかへ連れて行かれているような、そんな気さえしてくる。

 僕は、何をしていたんだろうか。どうしてこんなところに。思い返そうとしても身体に力を入れることすら億劫だ、頭の中にもやがかかったみたいでせっかく目を開けることが出来ても思考も麻痺している。

 僕は誰だ。それは勿論、ノア・マヒーザ。十七歳。男。うん、大丈夫。流石に自分のことは忘れていないな、一瞬焦ったけれど。ここはどこ私は誰、良い自問自答になっていると思う。


(真っ暗だ)


 でも、いやに落ち着く。この闇は全くもって怖くない、何故かそう感じるのだ。むしろここにいることによってより安心感を得ることが出来るくらいの心地良さが、ある。

 油断をすればまたうとうととし始めそうな状態で、たった一人ここにぽつんと浮かんでいた僕。しん、と静寂で冷え切った空間の中、わけもわからず妙に身体に馴染む雰囲気に疑問を抱いていると。今の視線より下の方で、コポコポと始めての音が湧いたことを聞き逃さなかった。何かが、底にある。脱力した身体を真っ直ぐに整え、起きてから始めて耳に入った音を目指して下へ沈む。本当に水の中みたいだ、両手を揃え下の方へ下の方へと空間を蹴り上げた勢いで飛び込んで行く。奥へ伸ばす自分の手でさえも、自分の格好でさえも見えない程の暗闇。足を泳ぐように動かせば少しずつ下へ進んでいく、コポコポ、コポコポ、近くなり段々と大きく聞こえるようになった音の正確な出所へしっかりと向かえているみたいだ。


(……泡、?)


 ゆったりとそこへ沈み行けば、大きな泡がまあるく白い形をしながら上の方向に向けて浮いてくる様子を見せている。こんなに真っ暗な中なのに、やけに泡だけははっきりと見える。黒の中に浮かぶ、白い円環を描いた泡は。まるで独立した生き物のように僕のところへ近付いてくる。

 それが危険な物では無いとどこかで確信をした僕の指は、いつのまにか泡の中へ挿し入れるように触れていた。それはぱちんと割れることも無く、ただ、泡に触れた瞬間。光が僕の身体を前から後ろへ通り過ぎたような、動悸が一気に強くなる感覚が生まれ始める。

 何だ、そう思った矢先。泡が少しずつその綺麗な円形を崩していくのと同時に、周囲の背景が違う映像に構築されなおしていく。暗闇が、泡が弾けた直後、一気に様相を変えていく。


「えっ、何……ッ、」


 泡の中から開け放たれた光に、全身が吸い込まれていく感覚が、した。


『…家族には、伝えるのは少しだけ待って貰ってもいいでしょうか、』


 数秒の後、眩しくて閉じていた両目をゆるりと開いた。誰かの声、全く違う色の空間。そこに、空気のように揺蕩う僕。視界の下には、あり得ない光景が広がっていた。

 見たことのある部屋。記憶にある会話。

 泣き腫らした目に、顔に、ハンカチをあてながら声を上げるのは見慣れた姿の青年。…いや。見慣れているなんてもんじゃない。

 間違えるわけもあるものか、あれは毎日鏡に向かった時に必ず見る存在だ、僕、自身だ。

 カウンセリング室でラム先生と話し込む僕自身の姿を、天井から覗くように俯瞰しているのもまた、僕と言う意識だ。まるで存在が消えた幽霊のように、色濃くそこにいるもう一人の僕を意味が分からず見下ろしていると、急激に頭に痛みが走る。そうかと思えば次の瞬間、僕の意識はそこで喋る僕本人の方向へ引っ張られていった。

 とぷん、と沈み行く。

 姿も無いまま、僕が僕へ落ちてしまったと混乱していても、映像は勝手に続くのだ。


『構わない、話すタイミングはお前さんが望む時で十分だ。…ただ、これだけは約束してくれ。お前さんが話そうが話さまいが、今週の休息日には絶対に精密検査を受けに癒術院に来い。不安を長引かせるのはお前さんにとっても良くはない、ひとつの目安は必要だろう』

『はい。先生、ありがとうございます…』


 ――これは、記憶だ。

 僕にとってはとても最近のこと、その回想が夢として出てきているのやもしれない。天井より更に上の場所から透かすようにここを見ていた僕の視点が、ここで話を続ける僕に切り替わって、ようやく気付いた。

 とてもおかしな気分だ。あの時の僕の中に乗り移って、僕が話し出すのを聞いている。夢だと自覚出来るのも当然な奇妙さで、中にいながら勝手に動く僕の口の様子を感じ。少しずつ微睡んでいた脳内の記憶が、刺激を受けて蘇り始める。


 そうだ、僕は、……あの時。先生から、今の僕の状態が危ういことを聞いて、それで。

 記憶の糸を辿る、薄ぼんやりとした景色が徐々に鮮明になっていった。

 ――思い出した。

 昨日から今にかけての、僕の記憶。何が起こったかさえ分からなかった混沌が隅から整理されていくのを感じる。


(ああそうだ、僕は、学園に来た途端に、急に身体が崩れて……)


 倒れたんだ。

 この時、今まさに眼前で見ている先生との約束を交わしたばかりの翌日に。なんという体たらくだろうか、完全に頭に蘇ったあの瞬間に思ったことは、驚きと後悔だけだった。

 いつも通りに見せかけることなら出来る筈だと、思って。隠しこんで、誤魔化そうとして。あのブレスレットを使い、危なげも無く温室へたどり着いた。そこから一歩踏み出しただけで、日常は異常へ容易に変わってしまって。


 胸に走ったのは、人生で今まで一度も負ったことの無い激痛。痛みに驚く暇さえ無く、気が付けばその一瞬で勢い良く血を吐いていた。…地面にばっと散った赤が始めは何だかわからなくて、呼吸が急に、出来なくなった。お義兄様から頂いた服にも、胸元に血が染み込んでいるのが見えて。瞳の中まで痙攣を起こしたような動作をし、そのまま地面は落ちたのだ。

 金縛りにあったように、地面の赤に引き込まれるように倒れた僕には。子犬、と叫んだエリーゼを視線に入れることでさえ出来なかった。


『今見た状態だと、急激な負荷を何度もかけたりさえしなければ悪化することは無い。検査前に無理だけはするなよ、やむを得ない事情があるなら俺の番号へかけてこい。録音でもいい、何が残しておいてくれればすぐ対応してやるから』

『はい、…無詠唱は流石にしばらく控えます…。普通に仕事としての体力を使うことは大丈夫ですか?』

『おう。お前さんの話を聞いてると、魔法さえ使わなけりゃ人間としての体調は安定するようだからな。日常生活レベルの小さい魔法なら詠唱で行っても器官に影響は無いだろう』


 ……見ているだけでも、非常に申し訳なくなる。自分にある症状を甘くみていたわけではない、むしろ深刻に捉えられる為のきっかけを、ラム先生は与えてくれた。それなのに、何故あんな事象が起きたのか僕には皆目検討もつかない。約束した通りに、農園でも一切魔法は使わなかった。そも自身の魔法が厄介なデメリットを持つことを自覚していた故、元からバカスカ魔力を使う性質でも無かったから。大きな障害がここに来て出来てしまったと思いはしたが、しっかりと治せる症状であることを聞いたからこそ安心していたのに。

 何が悪かったのだろうか。思い当たる節は、今までの無理が祟ったことなのだろうけれど。でも、昨日からその時にかけて、大きい負荷をかける魔法なんて使ってもいないのに。


 結局、学園復帰三日目の午後は、相談事に大きく時間を割いた。

 しばらくはエリーゼにも兄さんにも話さないでいることを決断して、選択したんだ。心配もかけたくない、治せるのなら影でひっそり治したい、当人の都合を考えてくれた先生に甘えることにして。可能ならば内緒で治療を行いたい、と。金銭が関わることでもあるから、家計の管理も行なっている兄さんを煩わせるわけにもいかない。エリーゼの新しい伴侶がそういったネックを抱えていることを知られて、彼女に対する悪意を増幅させるわけにもいかない。お義兄様にだって、新たな悩みを持たせるわけにも。

 だからこれが最善の選択だと思って、僕は先生と話したんだ。結局いつのまにか泣いてしまって、落ち着くまでカウンセリング室にいさせて貰ったから…午後の二限目の授業が終わるまでここにいたんだっけ。 

 ……帰りが遅いと、エリーゼにもニアさんにも、心配かけちゃうかもしれない。癒術室を出る時には目の周りの赤色をおさめて、いつも通りの笑顔を意識したのを覚えている。「お待たせしました!」と走って彼女の元へ現れて、いつも通り、平穏に学園での生活は終わった、そうである筈なのに。


 僕、生きてるのかな。

 死にたくない。


 先生との会話を耳にしながら、目を閉じて自分の暗闇に閉じこもる。水の中で浮かんでいるような身体、膝を抱えて小さくなって。そのままゆらゆら揺れていく。

 死ぬならあの人の為に、死にたい。まだエリーゼの為に出来る事は幾らでもあるのに、こんな時に、こんな形で死にたくない。病なんかに、殺されたくない。閉じた瞳から自然に涙が溢れてくる。

 誰か。誰でもいいから、僕をこの底から拾い上げて、目覚めさせてほしい。死にたくない。僕の意識がここにあるということは、まだ死にはしていないと言うことと信じたい。引っ叩いてくれ、殴ってくれ、早く起きろと励ましてくれ、ここで嘆くことしか出来ない僕を愚かだと言って、エリーゼの為にもっと足搔けと言ってくれ!

 たった一人でどうにか出来る事態では無いと自覚したからこそ、自分の無知さも無力さも理解した。どこまでも情けない状態だと痛感した。もう、ただ目覚めを待つことしか出来ない身が、恐怖に飲み込まれようとした。

 そんな時、だった。


「どうかね?記憶に溺れる、と言う体験の感想のほどは」


 僕の声でも、ラム先生の声でも無い。全く別の誰かの声が突然頭に響いてきて。

 驚いて目を開けば、景色の全てが水と泡に飲まれて消えていく。カウンセリング室での光景が、映画のスクリーンのように僕から剥離され、全てを覆う水の中に同化していく。急激な変化についていけず、また暗い空間に戻ったあたりを注意深く観察する。

 すると、先ほどには見えなかった周囲の状態が確認出来る程には明るさが混じり込んでいた。……光源が、点々と増えている。丸いかたちをした光が、海月のように幾つも浮かんでいて。


「さあ、とくと見たまえ。水先案内人の私を目に映すなど、幾度死のうがなかなかお目にはかかるまいよ」


 そこへ。一つの光を、カンテラに閉じ込めた人間が近付いてくる。

 足音は無く、不穏さも無く。声ひとつだけで全ての穢れを祓う程の清らかさを感じるまでの、圧倒的な、善。清浄さが過剰すぎるとまで思わせるそれは、ただ偉大なだけでは無い。荘厳さを輝かせ、暗いこの場へと一斉に光を注いだその人は。いいや、その、存在は。



「王国民、ノア・マヒーザよ。いつぞやは我が伴侶が世話になった、しばし夫同士での団欒といこうではないか!」



 ……こんな場所には、絶対いてはならない。いさせてはならない程の、威光を持つ姿を、していた。

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