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「固くなるなと言われても、この状況下では仕方あるまい。無茶を民に強いることだけは私も望まぬ。…それにしても、そなたの心はとんでもなく暗いな。だが安心したまえ、”この世で一番暗い黒”が目の前にいるのだ、そなたの行く末はまだまだ明るさに満ちていると思えてくるだろう?」


 夢中夢だと言ってくれ。言って下さい。

 全身が緊張で固まっていくのが分かる、その微笑みがこんなに近い距離で目に映せるだなんて。今の自分は、ゴルゴンに睨み付けられた犠牲者と同じだ、身体の全てが石になっていくかのような凍りつきを覚えている。

 暗い中、ここがどこかも分からぬ中で。その方は、その、尊きお方は。性別すらも越えた極上の微笑みを、伴侶でも無く、傍仕えでも無く、はては多勢の王国民相手でも無い……たった一人、今この場にいる僕にだけしか向けていない。体感温度が極寒にまで下がった心地だ、その姿から目を逸らすことを許されない。

 それは、黒を容赦無く飲み込む黒。地上に在りながらにして銀河のブラックホールそのもののような怪物級のものを抱えたそのお方は、少しずつ光で照らされていく中でも輝きを反射することは無い漆黒を揺らしていた。辺りも暗いと言うのに、この世で一番深い黒を持つお方のそれと比べるとこの空間の色なんてまるで子供の玩具だ。纏われた黒衣もあいまって恐怖を増長させる風体は、まさしく青年の姿をした死神。全てが黒くありながらも、唯一露出された肌部である御尊顔は真逆に白い。見間違えてしまえば、首だけが浮いているように見える、そんなことを言えば不敬にも程があるのだが。男性相手に使う言葉では無いのだろうが、陶器のように美しい肌をされている。物質としてもそうであるのではないかと疑うくらいに、生き人形のような美しさを携えているからこそ怖くなるのだ。


「かわいそうに、これでは周りも見えなかったことだろう。己も何であるか理解出来なかったことであろう。…だが安心せよ、ここには何も無いわけでは無い。そもそもここはそなたの中身そのもの・・・・・・・・・・なのだ。恐れる必要など何も無い」


 せっかくだ、何も無いと思い込んでいるそなたに全てを見せようか。

 カンテラを大袈裟に掲げると、そのお方を中心にまばゆい光が湧き上がり。目の眩む閃光が眼前で思い切り弾けた。数瞬瞼を閉じるのが遅れて、目の奥まで光が通り抜けていく。瞼の裏でも幾度も弾ける光の形が見え、慌てて手で目に蓋をした。ちかちか棘のように刺さる眩しさがようやく緩和した頃、恐る恐る目を、開けた。


「こ、こは…………」

「そう。元より形はあったのだ。命の危機に瀕して、見方が分からなくなっただけのこと」


 唖然とした口から自然に出ていた言葉、動いた口から泡が出ていることにも驚いて。目に見えた光景にも驚く。一々反応していてはひどく疲れるが、これに驚くなと命令される方が酷である。

 遠く遠く、果てが見えない風景。全身が浮遊感に包まれ、歩く足もしっかりとは地につかず。それでも、どこか懐かしささえ感じる。


 明るくなった後の空間の全ては深い青をしていて。その中に見えたのは、樹木の数々。まるで絵本をめくった時の高揚感がここにある。さしずめここは、海底に沈んだ森の中。御伽のような景色が美しく広がっていた。

 咲き乱れる花々、海の中で息をするのは螺旋を描くものが多い樹木。見たことの無い花達はその花弁をくるりと回したり、生き物のように泳ぎ出す植物まで見えて。そんな景色に同化するような透明度で、大きな傘を持つクラゲがふわりふわりとこの中を飛んでいる。……夢の中でも無ければ、説明のつかないことが幾重にも起きている不思議な世界。水の中だと言うのに、上方向からは星屑のように煌めいた粒が雪のようにゆったりと、しんしんと、僕達の元へ降り注ぐ。

 陸のものと海のもの、二つを合わせたテラリウム。幻想的なそれらを表現するのに、僕が思い出したのは丸い水槽の中に綺麗に飾られた小さな卓上アクアリウムの姿。あの中に閉じ込められたみたいだ、と上をぽかんと見上げながら思う。


「さあ、慌てず探索と行こうか。何、これは今のそなたに必要な行為だ。……身体が救われたのなら、心も救わねばならぬ。そんな芸当が簡単に出来る私の名を、そなたは既に知っているだろう?」


 差し出された手。

 この手に、縋ってもいいと言うことなのか。導かれてもいい、と言うこと、なのか?あまりの衝撃と緊張に、水の中にいると言うのに口が乾く感覚が離れない。

 王国民であるならば。この尊きお方から差し伸べられた手を振り払うことなど、出来はしない。神をも恐れぬ命知らずの愚か者には誰もなりたくはないだろう。ひどいデジャヴュだ、この方がおっしゃるように…伴侶の、あの方と。女王様とよく似ている、いいや、それ以上に有無を言わさせない圧がある。向かい合えば最後、彼に対して跪くことこそがこの世で最も幸福なことであると自然に刻まれてしまうのだ。

 この方の為だけに命を捧げたい、この方の視界に少しでも入りたい。この方の護る王国の民として、愚行は絶対に犯してはならない。死ぬ姿でさえその瞳に見て頂きたい、その瞳の向こう側に、僕達の魂が安寧として眠ることの出来る楽園があると夢を見るのだ。

 ああ、まるで、天の輪を背に負われているようではないか。何より黒く何より深い方であるのに、その輝きはより増していくのだ。


「……なんと、御慈悲のあることを。愚かを見せた僕などに、その御名みなを口にしても良いと、?」

「ふふ。女神の気紛れは長くは続かぬぞ、ノア。私は、カナリアよりも果てしなく厄介な男であるからな」


 なんという事か、二度も、二度もその唇で僕の名を。魂の領域まで魅了されそうになる。幸福と恐怖の同居とはこれを指し示すのだ、否応無しに全てを満たされてしまう。

 いいや、いいや。

 この心は既にエリーゼのもの。この身体は生まれし時よりエリーゼだけに使われる消費物。エリーゼだけに捧げた心臓、魂、腸。強引に愛情の対象でさえ変えてしまいそうな凶悪な魅了に、必死で抗う。このお方は、そんな姿でさえも微笑ましそうに見守るのだ、そうでなければ認められないと。まるで僕を試すかのような、女神のように甘い囁き。

 天から垂らされた蜘蛛の糸、その持ち主である彼の名を。神仏以上に聖のものであるという意識でもって、恐れながら呟いた。


「ただの平民の身には、大変、勿体無いお言葉です、――ベニアーロ国王陛下、」

「そうとも。私の手を取ったからには、生きることこそを何より優先すべき義務である。私の名を口にしたならば、恥じぬ命を見せてみよ」


 そなたの花嫁が贔屓されていて良かったな?と吐息交じりに言葉を出された。善意で背筋を凍らせてくることをやめて頂きたい。同時に、その言葉でこのあり得ない現状の何割かを信じられるようになったのだ。

 カンテラに捕らえられていた光は、勝手に触手を生やし出し。役目の終わりに一息つくかのように揺蕩ってから、中からひとりでに海の中へ混じっていく。持ち主であったそのお方…ベニアーロ陛下に、手を振りするりと離れていって。その一瞬だけでも、まるで求愛をされているようだと思ってしまった。

 では、長い話でもしようか。

 そんな向上と共に、僕は、ああ、やはり信じられない。ベニアーロ陛下に腕を引かれ、柔らかい海底を歩かされていく。僕の手を握るのと逆に、手放したカンテラは泡になって消えて行く。

 光の雪が散る海の中、奥へ、奥へと連れられて。冷たい水の中、けれど。既に悲しみだけは溶けて、この海に消えていったようだった。

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