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 命が消えるか残るか、その瀬戸際で戦う当人達の近くでもうひとつの戦いも起こることを忘れないでほしい。死に近付いた人間に対し祈りを捧げ、心の不安とひたすらに戦う者達のことを。

 ヒュプノス癒術院、特一級施術室前。重苦しい沈黙だけがそこで待っていた二人の人間を包んでいた。壁にある時計の針が動く音でさえ、気になってしまう。そんな中で一番うるさいのはあらぬことを考えてしまう度にばくばくと嫌な音を出す心臓だろうに、早く鼓動を続ける心臓に追いつけないくらいに時間の経過がとても遅いように感じてしまう。急ぎでやって来たものの、既に施術室に運ばれ今も手を尽くして貰っている最中の弟に対して自分が出来ることは、もう祈ることだけしか無いのだとやり切れない気持ちだけが心を疲弊させてくる。

 アークはただ、隣に座るエリーゼとこの精神的苦痛な時がゆるりゆるりと消費されていくのを待ち続けるだけであった。思い返しても、ここに来てまともな会話すら出来なかった記憶しか無い。それも何十分前のことだったのか。癒術院からの呼び出しを受け出来る限りの早さでここに来て。エリーゼちゃん、と力無く呼んだ彼の声に、兄君、と。彼女らしくない程か細い声が聞こえてきたことに余計に心が削られた。知りたいことは山ほどあったし、何故そんなことになってしまったのか、経緯だって詳しく分からないまま弟が倒れて施術中とだけ聞かされて。疑問を誰かに投げかける資格は今のアークには確かにあった。けれど。聞けるか、聞けるものかよ、こんな状態の彼女に何があったかだなんて。いつものような様子で努めて振舞おうとしていたけれど、顔に落ちる影に俯きがちな視線を見るだけで胸がひどく痛んだ。

 大まかなことは案内された際に情報として耳に入れたが、ノアの症状は極めて珍しい症状である魔力器官の内部損傷とのことで。基本的に施術には家族や誰かの同意書が必要になるのだが、今回は一刻を争う、すぐに施術をせねば死ぬ可能性が高いという絶望的な状況下の為、同席した癒術師の判断で施術優先、連絡は同時に行うという異例になった。その判断に感謝をすると共に、施術室の前の椅子で自分達はそれが早く終わってほしい、と願うことしか出来なくなっていて。時計の音が無感情に鳴り響く中、膝の上で指を組み、視線を床と時計とエリーゼにゆっくりと動かしては瞼を閉じるだけを繰り返す生き物になっていた。


「…二人とも。一息だけでもついておきましょう、……ここは王国一の腕の癒術師が揃う場所です。悪い結果にはなりませんよ。それに、彼が起きて一番最初に悲しそうな顔を見せない方が、彼も安心するのでは?」


 かつん、とわざと足音を立ててくれたのだろうか。焦燥と切迫に塗れていた空気が少し緩和されたかもしれない。顔を上げた二人の目の前に有無を言わさず差し出されたコップを、条件反射で受け取って。グリーンティーの香りが、鼻先をくすぐるのが分かった。そこにいたのは諸々特徴的な格好をしているのとは別に、やけに優しげな印象だけしか残らない不思議な青年。確か、エリーゼとここで会えた時も共に席にいた人間だ。


「…ありがとう、そう言えば、君のことはまだ聞いていなかったね。すまない、知らせを受けた時から弟のことで頭が一杯で、…何か失礼をしていたかもしれない」

「いえ。家族がこんな目に遭えば誰だって一番にその人を考えるでしょう。それ程必死に心配して下さるなんて、彼はとてもいいお兄様を持ちましたね。こちらこそ差し出がましい真似をしてしまいすみません」

 

 申し遅れました、と丁寧な会釈をされた後に簡単な自己紹介をする。ニア、と名乗ったその青年はエリーゼとノアの通う学園でのクラスメートで、クラスの監督を担う生徒でもあるのだそうで。…山から下りて早速こんな友人も出来たんだなあと思うと、存外二人して普通に過ごせていたのだと分かり。そして余計に、普通に過ごせていたのに何で、と思い描いただろう理想とは真逆になっている今を悲しく思う。

 ただ、今は第三者がいてくれたことで助かったとも。口を噤み一人だけでこの感情と戦うだけにはならずに済みそうだ。隣で、強引に飲み物を押し付けられたエリーゼは分かりやすいくらいに大きい溜息をつく様子をニアに見せている。


「…オマエ、アタクシに付き添うのはいいがクラスはどうした、クラスは」

「そんなのセリュアスに押し付けたに決まってるだろ?ヒイロくんに頼んでおいたのさ、彼女の頼みならあいつは絶対断れないし」

「特定の生徒に贔屓はしないんじゃあなかったのかい」

「監督生としてやるべきことをやっているだけさ。……それに、彼がいない間は僕が君を見守る。勝手だけどノアくんとの約束は延長させて貰ってるんでね。だからこれは贔屓じゃない、ノアくんとの友情の証とも言えばいいかな?」

「らしくもない、……」


 意味深長な掛け合いの内容が気にならないと言えば嘘にはなるが、流石同じクラスメートと言ったところだろうか。年上のアーク相手の時とは違い、同年代相手だとこんな風に喋るのだなと新鮮なエリーゼの姿を見たことに対する微笑ましさの方を強く感じ取れた。自然と口数が多くなってきたエリーゼの様子に、こちらも安堵する。


「――あ奴の味には程遠いぞ」


 グリーンティーを口に含んだ後で、エリーゼがまた言葉を落とした。それにふっ、とアークまで口角を緩めてしまい。


「そうだね、激烈に甘いからね、うちの味は」

「そら、惚気る余裕まで出てきたじゃあないか、完璧だ。少しは気力が湧いたかい」

「オマエのような男にまで心配を受けるのは不本意だからな、子犬以外の優男の気遣いなど必要では無いが。今は適当に受け取ってやろう」

「ご婦人の機嫌取りなんて教科は正式に習ったことがないものでね、ご容赦を、花嫁さん」


 少しずつ。少しずつ、どん底へ沈みいくだけの空気が変わっていくのが分かる。そう、大丈夫。大丈夫。ここの癒術院の評判はとても良いものだ。今執刀を担当しているのも、相当腕がいい先生だと職員の人も言ってくれていた。

 …それに何より。ノア自身が生きることにしがみつきたいに決まっているんだ。やっと、やっとなんだよ、色々苦労してきた弟がずっと前から夢見たことを現実に出来たのは本当に最近のことだから。前世から好きな女の子に告白してお嫁さんにする、って、無茶しか無い夢をその身体で叶えたんだ。必死で手にした現在を、もっともっと愛したいであろう彼女を置いて一人で勝手に死んでたまるものかと、きっとノアだって思っている。ノアの気持ちを思えば、信じて待っていることもとても大切なことなのだろうか。絶対に回復する、うまくいく、そうでなくては、ノアもエリーゼも全く報われない。そんなバッドエンドだけは、ごめんだ。

 少しだけ顔色がよくなったエリーゼの表情を見て。この顔を今一番見たくて、すぐにでも手を取って慰めてやりたいと思うのは他でもないノアだ。

 ああ、早く戻っておいで。こんな顔、彼女もお前がいない時だけにしか見せないだろうから。お前がいない時の顔を、他の男に晒させるようなことをするんじゃないよ。無理が祟ったのか、無茶を突き通したのか、それに気付けなかった俺も悪い。だから、二人で謝れるようにお前も早く、戻っておいで。

 アークは、寂しげにただ、施術室へ視線を投げかけていた。


「――施術、無事に完了致しました!状態安定しております!ああ、良かったですね!助かりました!もう大丈夫ですよ、皆さん!」


 更に、一時間以上が経った後。

 施術室前、映像を確認していたらしき別室から出てきた職員の言葉に、今安全に閉胸されています、と更に報告が続いた時。自分達の間にひとまずの喜びが生まれ、ありがとうございます、よろしくお願いしますと声を出す度に自然に涙が目から押し出されていた。

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