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 昼食時の大食堂には少しずつ人影が増えていく、食事だけを目的にすぐさま去る者もいれば、ここで空腹を満たされた後はその場で微睡に身を任せる者もいるだろう。

 時刻はおおよそ、あと十五分程で休憩が終わると言う頃。持ち込んだバスケットの中身はとうにすっかり軽くなり、大食堂の端寄りの席で二冊のノートを広げる僕の右隣には彼女。ペンが紙面の上で動く小さな音を子守唄代わりにしてくれているのだろうか、少し前までは指摘を挟んだりしてくれていた様子が今では舟をこぎながら時折その頭が僕の肩に寄り掛かるのを感じる。しあわせの、おもみ。


 昼食終わりにすぐ戻るのもなんだか味気が無い気がして。せっかくなら、思い描く学生像の真似をしてみたくなった。勿論、エリーゼも含めてそんな平和な一場面を自分達で作ってみたくなったと言うのもある。だから、午前の復習も兼ねて、眠くなりそうな時間帯にそんなことをしてみたのだ。

 書いて覚える派である僕は、とりあえず二冊ノートを用意しているタイプだった。授業中にとにかく書き込む用の物と、授業終わりにそれをもう一度自分で分かりやすくまとめる用の物。とにかくこの勉強法だと知識を吸い取る早さが違う、と個人的には思う。手間は二倍かかるが、その分着実に記憶には定着しやすい上に、……前世の僕の影響か、文章を書き取る行為自体も楽しくて仕方が無いのだ。懐かしき、アプリの二次創作の日々。スマートフォンのメモ帳に思い付いた台詞だけを書き連ねたり、夢でいい感じの刺激を受けてそのまま起きてメモを取ったり。電子機器が使えない時はノートにひたすら小説を書き始めたりして浸ったり色々としていた。動機は不純だが、自分でも可能性の物語を創作してみることは大事な趣味で。

 いやあ、今世。本当に、前世の僕が経験していた何が役に立つのか分からなくなってきた。


「…おや、もうこんな時間ですね。ゆっくり教室に戻りましょうか」

「子犬」

「はい」

「前から…思っていたが……。オマエ…丸文字すぎやしないか……」

「……寝ぼけてらっしゃいますね…好きです…」


 そこ。今言うところが、そこ。愛らしいが過ぎる。こくりこくりとしていたエリーゼがぼやっと出した言葉は、それこそ何の考えも無く目に見えたものをそのまま言ったのだろう。こんなに僕に信頼を寄せて貰えて、これほど愛らしい姿を間近で見ても良いのだろうか?許されるのだろうか?天罰をくらわないと割に合わないのでは無いだろうか。やめよう。しっかり夫のつもりでいたいのに、彼女のこういう姿を目に映す度にすぐ自分を落としまくるのは悪い癖だとエリーゼからも言われただろう。

 …いやでもこの美と愛の習合体のような存在を横にして罪人の気分にならない人間がいるか?むしろなりたくないか?こんなどうしようもない路傍の石に寄り掛かって下さってありがとうございますと感謝を述べた後に、なんだ、もう、あれだ。愛しすぎてこのままでかいクッションになって差し上げたい。僕なんてクッションで十分です。

 じぃん、と心に染み入る喜び。これを与えてくれる性質を僕に惜しみなく見せてくれる彼女をもっと見ていたいと思っていても流石にここは学園である。時と場合を弁えられる男になれ。彼女の肩を抱き、こちらへ向かって崩れ落ちることの無いように優しく呼びかける。人が減ってきた時間帯で良かった、こんな可愛らしい表情を他の馬の骨なんかに近くで見られた日にはことごとく目を潰して回らねばならない。

 あくびを大きくひとつ、そしてすぐにしゃきっと引き締まりを見せた表情から出た「よし行くか」と言う切り替えの早さ。その豹変があること自体、今の今まで僕の隣では思う存分弛んでくれていたことを表している。心のシャッターを連続で切りつつ、さささとテーブルの上の物を綺麗に片付ける。


「おお、ノア。丁度良かった、探してたんだよ」


 そんな折だった、いざ教室へ戻ろうとする僕らを引き留める声の主が現れたのは。大食堂の入り口からここまでは遠いだろうに、ほぼ一直線に向かってきたのは僕が立った姿が少しは目立った印になったからだろうか。

 コハク色のドレッド姿の教師を他の誰かと見間違うことなどまさか無い。ダストア先生?と、不思議そうに出した僕の声は、予想もしていなかった人との遭遇に純粋に驚いていた。着崩した服のいい加減さとは逆にしっかりと大切に使われていそうな鞄を携えているラム・ダストアが、僕達を呼び止めているのだ。


「すまんな、午後の前に。お前さん、一時的な転校生ってことで転校前に健康診断したの覚えてるか?」

「あ、はい。それがどうかしました?」

「ちょっとそこの癒術院の新人がポカしたみたいでよ。お前の診断書に別人の数値入れてたみたいでなあ…午前中、関係者としてそれの書類取りに行く羽目になったんだわ」

「えっ」


 少し疲れたわー、と溜め息をしながら先生から言われたことに首を傾げる。転校手続きに必要な書類作成で、ヒュプノス癒術院に世話になったのは確かだ。でもそれにしたって、わざわざ先生が呼び出されるのだろうか。僕に郵送して貰えればいいと思うのに。


「俺ぁ、元々ヒュプノスで結構な責任負ってた立場だからよ。教師になったっつうのに泣きつかれて、ついでに処理お願いします、って感じでなあ……」

「そ、それは…大変でしたね…」


 そんな疑問を浮かべたが、彼の言葉でなるほど確かにと納得をした。そう言えば、この先生はベテラン癒術師で、元々が癒術院からのスカウト勢。引き継ぎなどに苦労が常人の数倍あっても不思議では無い。幾つも役目を負うと言うのは、職を変わってもそんな風に付き纏われるものなんだろう。…地球でもそう言うのよくあった、と前世の僕が頷いている気がする。責任役職は苦労しか無いなと、なんだか先生が心配になった。


「それでよ、急なんだが今から俺と癒術室行ってくれねえか?確認作業と簡単な口頭問診だけやらせてくれ。あそこ、この時期他の学園にも出張で診断が入ってるから、正しい書類を早めに送り直して貰うには今やるのが一番なんだ。今提出してるお前のデータ、別人ってことになるし修正はしておかないと、ほれ、……言いたかねえけど、高い可能性で炎上沙汰になるだろ、替え玉入学とか例え噂でも回って疑われたら俺の首が王に飛ばされんのよ…」

「ひえ……さ、流石に、改革直後にそうなるのは怖いですね…」

「流石に、教師陣も変わった直後だ。こんな細かいことで?とか思うかもしれねえが、リドミナの名にまた泥被せるのは陛下達も望まないしなあ」


 身体側面のデータがまるで違うと言うのに入学している、と言う事実は確かに危険しか孕んでいない。肝が冷えた、別に僕だけが周りからどう見られようが知ったことでは無いが、その二次被害で先生にまで影響が出るのは好ましくない。


「エリーゼ、そんなわけだ。お前さんの旦那、少しの間借りてっていいか?授業担の奴には後から俺が言っとく、何か聞かれたらラムに持ってかれたって言っといてくれ」

「一緒に行って頂くのは駄目なんですか?」

「ヒュプノスは特に個人情報管理に関しちゃ厳しくてよ…今回渡されたのはお前さんだけの書類だ、お前さんだけに確認して貰わねえとならない面倒な仕様でな、申し訳ない」

「ううん…」


 しかし、個人情報の観点もあるとは言え。おいそれとエリーゼの傍から離れるわけにもいかない。長くて丈夫な的が彼女を嫌う人間との間に割って入らなくてどうするという話だ。こうなったら癒術室の前まででも一緒に……と、頭を捻らせたものの。その心配を無理矢理切り裂いて巻き取っていく者までが、僕の思考を終了させに来る。


「だったらその間。エリーゼくんの護衛は僕が請け負おうか」

「うおわっ!?」


 まるで始めからそこにいましたよとでも言うかのように、真後ろから普通に会話に参加している声量が僕達の背中に投げられた。幽霊みたいな登場のされ方に、一瞬驚きすぎてちょっと足が宙に浮いたかもしれない。ばっとすぐさま振り返ると、僕の驚きようを面白く思ったのか。じゃらりじゃらり、特徴的な鎖を携えながら微笑んだ顔に嫌みの一つでも返したくなってしまう。

 エリーゼ様と僕のクラスの監督生であるニアが、ぬっとその身を僕とエリーゼの間から伸ばしていたのだ。


「おっ、…どかさないで下さいます!?ニアさん!」

「ごめんごめん。教室へ戻ろうかと思ってたんだけど、まさか君達がさぼろうとはしていないよな?と思ってついつい圧をかける為に近付いて……」


 すごいぞ、圧をかける為に近付きましたとか言う正直さ。なかなか聞かないし言う機会も無いだろう。


「まあ、こっそり大胆に聞き耳してみたら正当な理由そうだしね。事情は分かりました、色々都合はつかせておきますがどうですか、ダストア先生」

「お、おお。監督生にそう言って貰えると助かる、が……お前さんほんとどっから現れた?気配無さすぎて先生もちょっと驚いたぞ」

「切磋琢磨が趣味ですので、ふふ」


 薄く微笑むその表情は、彼のあったかもしれない未来を知っていれば、ただ優しいものとして捉えることは難しいだろう。

 …本来のストーリーからかけ離れた人生をしているのだろうと予測しているとは言え。ニア・マッドーリと言う青年は、底が全く見えない。エリーゼとは別のベクトルで、彼もまた悪の側面を強く持つと言うことを知識として授かってしまった身としては、付かず離れず借りも作らず、の関係性を維持した方がいいのは目に見えている、のだが。

 監督生である彼は、恐らく。不公平なことは、しない。もしも味方になってくれたのなら、クラス内でのエリーゼの安全は更に保証されることは間違いなしではある。けれど、今、エリーゼの安全と天秤にかけるのには適さない。


「そう睨まず。僕、案外身内贔屓なところもあるんだよ?バトラトンやフィジィの子にも、君達に無駄にちょっかいかけないようにって釘も刺しておいたから、しばらくは手も出させないけれど」


 見目は怪しいけどね、と苦笑するニアを見て。その言葉を聞いて、……王以外にも、こんな身近に巨大な抑止力が働いていることに気付かされ大きな衝撃を受けた。

 その言葉は、矛盾しない。昨日の実技授業の中でバトラトンがいたことも後から知った僕が、何故直接顔を合わせることも無かったのかと言うことに全く矛盾しないのだ。そして、昨日あんなことをしたにも関わらず、僕の家にもリース家にも何の動きも見せていないフィジィの様子を考えれば自然に点と点は繋がる。

 …間違いなく、この青年には。ニアには、エリーゼよりも高い爵位持ちの生徒でさえ塞きとめる力があると言うこと。


「…どうしてそこまで気にしてくれるんです?」

「そりゃあ、君。クラスメイトだからに決まってるだろ?エリーゼくんが何をやって来ようが、君がたった少ししかいなかろうが。僕の監督クラスにいる限りは全力で監督責任を果たすだけだよ。君達がクラスメイトだから、何があろうが守る…不自然かな?」

「ーーいいえ、まったく、…」


 疑わしきは罰せず、だ。何度だって己に刻みつけるが、この世界はあのアプリにどれだけ酷似していようがその中に住まう人々の生き方までストーリー通り台本があるわけじゃあない。僕の知っている生き方を百パーセントする者はいないに決まっているし、僕の知らない側面を山程持つ者だっている。

 エリーゼと過ごして来た僕が、彼女を見てきた僕はそれを何よりも知っている。地球のアプリでの設定では、敵国の敵キャラクターであったとは言え。…まずは、彼に対する偏見を取り除くべきだろう。


「…とっとと済ませて来い、子犬。オマエ、どうせすぐにでもまたアタクシは一人で通学することになるんだぞ?オマエが今からこんなに離れがたくなってどうするんだい」


 ああーっ、おっしゃる通りでしかないです!いやでも過保護気味にもなってしまうのは仕方ないと言いましょうか!


「そうですよ、離れると僕が死にそうになるんで。早く済ませて来ます。あ、適切な距離を守って頂けるなら……その、…ほんのちょっとの間でこんなに頼るのもおかしいでしょうが…妻を、よろしくお願いします……」

「ふふ、本当に、お互い信頼しているんだねえ。うん、任された。何か言われても大抵のことは黙らせるから安心して」


 ……待ってくれ、何だか別の強さを感じて怖いのだが。もしかしてうちのクラス、…完全に彼の支配下にあるのでは?などとあまりよくない想像が降り始めて来た。


 それじゃうまく話しておいてくれ、と急ぎ足なダストア先生に首根っこをそのまま引かれ、借りてくぞと不本意ながら連れて行かれたその横で。

 彼女に直接的な嫌悪を持たず、純粋に友人として接しているニアを見て。肉親以外の男と彼女が普通の範疇で親しげにしている光景は、非常に複雑だと。器が浅い嫉妬心をまた自覚したのだった。

 

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