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「今日はどちらにしましょうか、温室も食堂も選択範囲に広がったのはとても良いことです」
昼の休息を告げるベルが校内へ鳴り響けば、緊張から解き放たれた生徒は憩いの時間へ伸び伸びと向かっていく。まばらになる教室内から悠々と出て行く中に、僕たちも混じり。
午前中は、極めて順調だった。波風立たない安寧の海のよう。手を出したくとも王からの叱咤がある、文句を言いたくとも王からの失望もある。ひとりふたりを叩くこと、悪い意味で王に目をつけられて怯えること、両方を天秤にかけた時に後者が勝たない者はいないだろう。つまりは、国王様のお力があまりに抑止力として働き過ぎているが故に、僕達の言動や行動にも制約が産まれないことにたいへんな感謝をしていた。
心配事などすぐにでもなくしてしまえる程の、安心感を抱いていた。当然、エリーゼを女王様が慕って下さっているとはいえそれに頼るばかりの僕では無い。だからこそ今日も傍にいるのが僕なのだ。正直僕の存在いらなくないか?と不安が過ぎったとしてもだ、自分に自信を持とうじゃないかノア、そう、虎の威を借りまくれるなら今のうち。利用出来るものは何でも利用するのだ。
荷物とお弁当を手に、きっと子供のようにはしゃいでいる僕は分かりやすく嬉しさを飛ばしつつ、エリーゼを間近に足取りを軽くしていた。
「……エリーゼ様。そう言えば、昨日は「食堂は初めて」とおっしゃっておられましたが、」
昨日の食事時、時間帯も近付いた為か強く思い出してしまうこと。ふとヒイロとエリーゼの会話を思い出した僕は、冷静になると気になる点を発見し。恐る恐る伺ってみる。
「目聡く聞くねぇ。…伯爵令嬢だからと擦り寄る奴等が邪魔でな、食事の際はいっとう休息が長い分、絡まれんよう適当に姿をくらましていたことが多かっただけさ、独りの方が気楽なことは多いしな」
「つかぬ事を更にお伺いしますが。…その際、お食事はどうされていたので?」
「それらも適当さ。オマエと出会う前、ここは兄様の為だけに通う施設でしか無かったから、休息時間にもあまり意識したことは無かったねぇ。教員も権力に弱い者が多い上に不正もまかり通っていたのだから、表向きの成績さえ良ければそれをそのまま家に報告されたし、生活態度等関係も無かった。昼だけ忽然と消えたとして、成績には何の支障も無かったからねぇ。寝て過ごしたり、食う食わぬも本当に適当だった」
遠い日を思うように、エリーゼの瞳に少しだけ濁りが見えて。そしてその内容に、はっとした僕も唇を噛みたい心地になった。
お義兄様に関わる記憶を掘り出す時の彼女には、いつだって唯一の罪悪感が宿っていて。…きっと彼女の中で、自分自身の行いを罪悪であると定義付ける為の楔は、エドガー・リースの形をしているのだ。末の彼女をいつだって愛し、心配し、その為にすぐに手を回し。多忙で接してやれる機会が少なかったと今でも嘆くお義兄様は、僕とはまだ別の、彼女にとってのもうひとつの特別なんだ。
誰だって、興味無いだろうな。悪役令嬢の日常や、休息の時間、何を食べて何を思って、何を諦めて、断罪されていったのだろう、だなんて、興味も示さないのだろう。その全てを僕は知りたくて、けれど、彼女の心に傷を残すようなことまでは手を差し入れたくなくて。恐ろしくて、もどかしい。知る権利と、知られたくない権利は決して平等では無いのだから。
生まれた頃は、少女の頃は、笑顔の頃は、泣いた頃は、その全てを細かく知りたくて。でも、知らさないでほしい。教えてほしい、教えてほしくない。察したいし、察したくない。ひどい男の我侭で、たまに振り回してしまいたくなる。不躾で生意気な犬になってみたいと、そんな自分を止められないことも増えた。ああ、本当に人間は、一度貪欲さを手にしてしまうと底無し沼だ。
「……今日も食堂に、しましょうか。いえ、急に僕が行きたくなったんですが」
「何も気にせずともよいと言うに」
「貴女だって、可愛いお人だ。群集に混じって過ごすことを咎められなくて済むのが普通だし、食堂で何事も無くヒイロちゃんと楽しげに話したり…それが、貴女にもあったかもしれない日常の場面なんですよ。…それを、僕が、もう一度。いや?何度でも、かな。見たく、なって、」
「また百面相をするな。情緒不安定になるねぇ、オマエは」
「当たり前でしょう、貴女が生きてきた一分一秒、全て教えてくれたら全てに泣いて笑いますよ、僕はそういう男なんだから」
と言うか食堂が似合わない人なんてどこにもいないんですよ!むしろエリーゼ様に似合わない食堂が一番悪いんですよ!暴論を繰り出せば、エリーゼは苦笑する。
「本当に、一個一個気にしいの、細かいこと」
「そうですよ、小姑もびっくりですからね。……色んな貴女を見てみたいって言ったら駄目ですか」
「オマエにだけはその権利をとっくに与えてやっているが?」
どこまでも下降を知らない乱高だけでこの愛は形成されているのでは無いかと、しれっと会話の中に様々な凶器を混ぜては僕を愛で刺してくるその様に確信を得そうだ。
この世で一番輝いて見える、日に日に上書きされる積み重ねでその眩しささえ上限を忘れてしまったのだろう。足取りは、更に軽やかに。
エリーゼの指に、僕の指を絡ませて歩く。このまま縫いとめてしまいたい。
…もし。もしも僕が、農家では無くて。どこか一介の貴族の子で、もしも最初からこの学園に入学していて。独学では無い魔法を使い、ヒイロやその周りの人間がこの人を視界に入れる前に入り込んで。彼女を孤独にさせないように、苦労を少しでも払えることが出来る道があったとしたら、なんて。有りもしない可能性を妄想だけして、無いな、と切り捨てた。
もしもそんなことになっていたとして。今のこの関係性には、絶対なりはしない。今の人生を慕い、今を生きる僕が言うのだから 間違いは無い。彼女の熱に、何より分厚い感情を持ちながら触れている。これが僕の幸福なんだ。
食堂へ向かう僕達は、きっと。普通の少年少女だ。そう思いたい。
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