8錠

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 何かに悩んでいても、世界はきちんと夜を明けさせてくれる。進まない時間などそこには絶対に無いわけで、止まりそうな身体がそこに硬直していたとしても無理にでも歩かせてくれるから、太陽と月の姿を見ればどこか助けられた気持ちになるのだろう。


「ふあぁあ…」


 大きな欠伸を一つ、少し涙で潤う瞳。今日も、朝を迎える早さはいつも通りだ。昇る朝陽と共にばっちりと目覚め、眠気覚ましに軽めにその場で体を動かせば存外簡単に爽快感は手に入る。健康的な生活を心掛けて来たからか、習慣になった通常運転を心がけるだけでもプレッシャーは幾つか消えていくものだ。顔を洗い、髪を梳かして結び、通学用の綺麗な衣服を纏う前にいつもの作業着に袖を通して畑と畜舎の様子を見に行く。

 学園に行くようになったからと言って、昔からの日課や仕事はさぼるわけにはいかない。なんてったってこの場所は僕達三人の命綱、僕が通学する間だけは兄さんが負担すると言ってくれたけれど、それでは申し訳ないから。

 …やっぱり僕、農家に生まれて良かったなあと、この作業着を身につける度思う。生まれ育って、働くことを覚えた場所。揺りかごも墓場も、きっとここなんだろうと身体が無意識に安心を覚えるから。


「おはようみんな〜、朝の掃除に来たよ」


 順番に、近い方の畜舎から足を踏み入れる。眠っている牛が多く見えたが、僕が近寄るとふんふんと鼻をきかせながら存在に気付いてくれた。至福。ここで働く時間は、通学する時の疲れとは完全に別なので全く苦にはならないなとしみじみ感じる。

 今日で復帰通学三日目か、と。僕の作業着をもしゃもしゃと食みながらついてくる仔牛の頭を撫でつつ、濃度が濃すぎた昨日へと思いを馳せた。


 昨日は午後の座学は無事に終え、ざわつく中を温室目指して二人で消え去り。秒で農園に戻って来て。色々あって疲れましたねぇ、と言いながら僕とエリーゼも即作業着とガーデンウェアに着替えて水分補給と共に畑へレッツゴー!と、とても一日の大半を学園に費やしたとは思えない元気ぶりだと兄さんが笑っていた。

 何というか。甘い物は別腹、と言うじゃあないか。それと同じで、農園での作業は別腹なのだ。むしろここで働かないと元気が出ないと言うか、働くと元気が取り戻せる心の泉のようなもの、と言うか。断じて社畜では無いのだが。望んで働いてます。


「ご飯もだよ〜」


 小さな頃は結構な重労働だったが、今となっては畜舎の掃除をしてから飼料を用意するまででも体力が有り余る程の成長をしたと思う。干し草をゆっくりと口に含んでいく仔牛も、少しずつ大きくなっていくのを感じた。柔らかく体毛を撫でて、様子を見ながら次は鶏達の畜舎へ向かう。あと、豚と羊と…。

 冷静に考えると、兄弟たった二人でこの広大な畑と畜舎をよく管理出来たものだ。こんな山奥に縁遠い者からすれば、仕事量が頭おかしいと絶対言われる。地球だったら色んな機械があってこそ、人が少なくてもどうにでもなる面はあるが。こちらは魔法でそれを補っている状態だ。…生まれて来てからずっと、この広い農園作業を家族四人だけで回していたのだから、二人になったらその倍以上頑張ればいい話であるし。

 本当、体力だけなら相当ついていると言うのに。魔力器官と僕の魔法が噛み合わないせいで体力無さそうに見えてしまうのが残念なところだろうか。それでも、無茶するだけで何とかなるなら何とかしようと思うところも褒められた部分ではない、自覚はある。まあ、誰かに見せつける為ではなく農家の息子として付けた体力と筋肉だからして、これからの生活に支障が生じないようまた山に鍛え続けて貰おうと思う。


「…はー、今日もいい天気だなあ」


 そよ風が吹き抜ける中、用具を片手に寄りかかり。他の土地より大分高いこの位置から空を見上げると、天に近付いた気分がして心地いい。

 昔は、空の色になりたかっただなんて思ってたこともあったっけ。少し眺めた後、また身体を動かして作業に戻る。頭の中には、今日は少しだけでも平和に終わるといいなあと言う願いが生まれた。


 学園内での状況は、どちらかと言えば良い方だ。存外、王の叱咤激励もあったお陰かどれだけ目立とうがエリーゼにも迂闊に手や文句を出さないと言う状況が構築されている可能性に気付き、悪知恵がフルスロットルである。そう、それこそつまり、安全な環境で思う存分悪役ムーヴで立ち回ることが出来ると言うこと。死ぬほど小物くさい考え方だが、利用出来る環境になったことで安全圏が広くなったことは大きい。

 元より僕は虎の威を借る狐、利用可能なものは全て利用して場を安定させることに今は心血を注ぐべきだ。エリーゼが学園で今後も過ごしやすくなるように、リースに感情の矛先が向かなくなるように存在するのがこの僕なのだから。


 …もうこんな時間になっていたのか、お弁当作らないと!


 いつの間にやら掃除と餌やりで消えた時間に、慌てて家屋へ戻る。二人分のお弁当を持って学園に行くなんて最高の新婚生活じゃないかと、今日の通学もまた楽しみにする気分になれた。

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