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ひっくしゅん!
滅法情けない声のくしゃみが出て、自室の中で低い唸りをあげた。どこかで誰かが僕の噂か悪態でもついているのだろうか、まあ風呂上がりにしても部屋の空気が冷えているせいだからだろうけど。間抜けに見える鼻水が少し垂れていて、しっかりとティッシュで拭いながらも今行っている勉強は中断しない。
昨日のこの時間帯は、王都から戻ってきた三人三様に疲弊しながらも笑える余裕も出て来た頃合だろう。その二十四時間後、エリーゼの休学期間と言う限定された間だけだが普通の日常に戻れているとは予想もしていなかったと思う。目の前のことに必死で、娘さんを僕に下さいと大々的な告白をして、やり遂げたことから放心を起こしていた。全く、それ程大変な昨日を乗り越えてからやる簿記問題は最高に捗ると言うもの。あまりに現実的すぎて逆に安心する。
夜の余った時間は、いつだって勉学に励む時間だ。
日課の農園と畜舎の見回りもきちんと終え、異常無しと確認して。しん、と空気が凍ったと勘違いさせる程に静かになった家の中、僕の部屋ではペンを動かす音だけが聞こえている。本当に疲れてばてた日は、見回り後即寝入ってしまうのだが、今夜はどうにも眠れそうに無いのを察していた。昔は見るのも嫌だったのに、なんとか向き合い続けて少しずつは出来るようになった問題集を重ねて思うのは、未来のこと。先のこと。農園がある家に生まれたからと言って、力仕事だけ出来ても仕方ない。手に職つけるとは、その職に必要な技能や知識を完璧に身に着けなければ使えない言葉。
マヒーザよりもずっと裕福であるリース家を相手に、エリーゼを愛していると自信を持って発言することが出来た今。十七の青年であると同時に、将来家族を支える柱になる為に身に付けられる物事は今から更に努力していかねばならないという思いが強くあって。愛情は死ぬまで途切れることは無いと断言出来るが、如何せん農家は大災害が起きるだけで未来が相当左右される。爵位のある名家との収入格差は歴然としたものだ。今は兄さんと山神の力があるからこそこの山自体も無事だが、何が起こってもいいように見越して動かねば良い旦那になるとは言えないだろう。
経済的な理由で愛しい彼女を飢えさせてたまるかと言う思いの他に、一晩経ってテンションハイならぬ愛情ハイになってしまったらしく、今まで一方向にしか向けていなかった自分の思考の幅が嘘のように広がったことに興奮しているのだ。ただ一本適当に佇んでいるだけのウドの大木では無い。リース家の者にエリーゼを攫った自分を認めて貰えたと言う花を咲かせて以降、その周りに分かれた枝は何通りもあったことに気付いただけ。初めてだろう、こんなにやらねばならないことが沢山あって、それを苦では無く喜びと感じるのは。
「…もう少し難しいの買ってみてもいいかもなあ、」
生意気にも漏れた言葉、買ったら買ったでまた一問進めるだけでも相当苦労することは分かっているのに。学校にも通わず独学で勉強すると言うのもかなり無理があるけれど、父さん母さんに先に技術やノウハウを教わっていた兄さんがいるから今までも何とかやってこれていた。山神と言う大精霊を使役しながらの経営を行う兄が、どれほど凄まじいことをやっているかと言うのは身にしみている。今はまだ、僕が五人いたとしても兄さんには追いつけないレベルだと自覚していても、努力を諦めることをしたくない。
個性の色に比べて、魔力量も期待外れの出来損ない。そんな自分に嫌気が差した頃も通り越して、いっそ自らの弱さを愛しく思う。出来ないことを確実に埋めていく達成感はある意味麻薬にも似た爽快感を得るもの、無理が出来るのは若い今しか無いということを知っていたから、今ならどんな無謀なことでも出来るという危うさまで持ってしまう。
ああ、いつか引き寄せる婚儀の日が来るまでの間に、本当にいい男にならないと。エリーゼ・リースに認めて貰えた男が停滞に甘んじるなど有り得ないこと、進行し発展し、常に美しくなり続ける彼女の隣で良い方向に変化を続けることこそが使命。興奮冷めやらぬ脳で改めてやるべきことをリストアップしてみた文字列は、馬鹿の一つ覚えのように長ったらしいもので。これだけやりたいものがある未熟者で、これを全部やり遂げようとする無謀者だと紙面が語りかけてくるようだが。エリーゼの隣に立っていて当然、と言う顔をするにはこの程度のこといずれはさらりと出来るようにならねばならないのだ。
ふあ、
耐え切れず出た大きな欠伸は冷静に今夜の活動限界を教えてくる。流石に根詰めすぎたか、けれど睡眠前の学習が一番頭に入るからなかなかやめられない。のんびりとした手つきで筆記具を片付け、問題集を重ね机を綺麗にする。そろそろ寝るか、と決めた途端に睡魔が強くなるのも、少し無理した身体が求めてやまなかったからだろう。エリーゼの部屋からも兄さんの部屋からも音がしなくなった真夜中の家、まだ動いているのは僕だけだった。
湯で温まった身体はとうに芯から冷えて、数度欠伸を繰り返しながら電気を消す。のろのろと入った布団は、勉強中に眠れぬように部屋を全くあたためなかったせいか驚く程冷たくて。慌てて布団から飛び出して、畜舎で使っているのと同じ、暖房代わりの炎を閉じ込めた泡の魔法を使う。隙間風も全く無い、これくらいの小ささにすればちょうど朝には泡も消えて、再度寒さで起こされることだろう。
僕の大きな身体を乗せて軋むベッドが、足でも切り落として軽くなれと文句をつけているみたいだ。実際かぶった布団が、ほんの少し、長さが足りないかもしれない。……もしかして、また、背が伸びたのだろうか。もう十七だぞ、成長が止まったとばかり思っていたのに。そう言えば、最近はろくに自分の背丈は計ってもいなかったか。
…身長にだって伸び代があるんだから、僕自身に伸び代が無いわけないな!大丈夫!自信持てる!
そんな謎理論を頭に思い浮かべながら、少しだけ丸まった姿勢で横になった。意識が簡単に、枕の下にすとんと沈んでいく。浅い夢に落ちるのか、夢を見る暇も無いほど深い場所に至るのか。そのどちらに迷い込んだとしても、明日目を開いた先にはエリーゼがいる。それだけは確約されていることに、満足感しか無い。
閉じた瞼の裏に彼女を焼き付けたまま僕の眼球と合わさって、意識の層へともぐりこんで行く。それはなんて怖くて素敵で、ロマンチックなことだろうか。
そう言えば、僕達もう、互いの寝顔を知ってしまった仲なのだな、なんて。怒られそうなことを連想してから、重い瞼の下で眼球を動かす余裕も無くなり、完全に就寝する。
――夢を見た。
たった二人、寂れた教会の中。鍵と錠前を持って、壊れた像の前でお祈りする。その場面だけを切り出しただけの、そんな夢を。どこか退廃的な何かを感じるなあ、と認識した先で、泡沫の儚い夢はすぐ記憶から消え失せてしまうのだ。
また明日、朧気な夢を抱えて不思議そうに僕は起き上がるのだろう。まだ見た夢を捉えられる意識があるうちに、こんな一時もたまにはあっていいじゃあないか、そう語りかける自分が後ろにいたことを感じて、うん、と元気に返事をしていた。
また少しの間、夢見心地を。
彼女と見る夢と僕の夢が繋がっていればいいのに、と。魔法使いらしくもないことを思って。こうして、リース家になんとか認められた男としての二日目は、意外なほどに優しく流れていったのだった。
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