47
青い光が朝を優しく包んで、昼を無事に迎える頃。
当たり前に日が明け当たり前に日が暮れていくことを常として捉えている者にとっては、それすらも変化では無く安定した停滞と受け取るのだろう。
多くの人間が、今日も昨日と変わらず平穏に過ごせると安堵して動いているに違いない。それは、カナリア王国の歴史が作り上げた利点であり、強いて挙げた場合の欠点ともなるだろう。平和に慣れすぎた民衆には少なくなった尖鋭的な部分を、警史や王家直属のギルドなどが担うようになってからも時間がかなり経つ。
……回りくどいことを言ってしまった。何を表したいかって、要するに、こんな時に限っていつもは気にならない周囲の平穏な様子にさえ苛ついてしまう自分に腹が立っているのだ。
普段と異なる出来事と直面した者にとっては、未だ心に安寧を訪れさせるにも時間が足りないと言うのに。
「…こんな時に限って貴族様は休みだっつーのかよ、」
同日、カシタ山から遥か離れたリドミナ学園内。広大な敷地面積を誇るここでは、空から見た自分の姿など点のようだろう、不機嫌を隠し切れない様子で庭園を抜ける通り道を進む人影があった。学園も昼休憩に入った時間帯、一人見えない何かを引きずりながら、足取り重そうに歩く少年の姿が見える。住まう場所も経歴も容姿も全く違うと言うのに、ノアにどこか似ている箇所があると思わせる少年は、名を体で表した色をしていた。黒味を帯びた赤色は、鮮やかな色を持つヒイロと似ている系統でありながら違う様相を見せている。…彼の持つ色は、蘇芳色、彼が生を受けた際に名付けの切っ掛けとなった色そのもの。スオウ・カザルムの存在を示すもの。どうしても放っておけない幼馴染と似た色を、昔から好んでいたのは当然だ、今日はところどころ跳ねが見える短髪をがしがしとかきながら舌打ちを大きく打った。
「肝心なとこで全く役に立ちゃしねぇ、」
何故、こうも感情の板挟みにあっているのか。スオウは今、何をすべきか分かっていても…すべきことをやらない為に我慢していると言う、極めて稀有な状況に陥っていた。自分が何をしたいか、すべきか分かっているのに、これ以上の大きい動きを止めようとする要素に、ヒイロの意向があったからだ。
昨日の今日、他でもないヒイロに対して大きな怪我を負わせた張本人と対面したばかりの今に、スオウの内面が鳴らすものは警鐘だけであった。彼女が火傷を刻まれた時からも、2月20日の学園での断罪からも相当日も流れはしたものの、未だ消えない怨恨の炎が自分の中に渦巻いている。当然だ、ずっと、…ずっと昔から一緒にいたあの幼馴染を。泣き虫で弱くて、それでも全てを受け入れて自分から傷つきに行き前に進むことをやめられない強さを持つ、たった一人、スオウが愛する女。お貴族様から慈愛の聖女等と言う大層な二つ名をいつの間にかつけられていた彼女、恨み言すらなくまっさらなままで今も愛の炎をともし続ける姿を見ていると、その姿勢に納得が出来なくてもこちらの方が恥ずべき行いとしていると猛省したくなる。
――昨日は、ヒイロにとっては気晴らしの機会になる筈だったのに、
そう後悔せずにはいられない。けれども、彼女の喜びようを見ていると複雑だ。奇跡的に昨日の対面を回避出来たとしても、ヒイロは自力できっと奴に…エリーゼに会いに行ったことだろう。ただ、再会する日が前後しただけに過ぎないと。
三日ほど前から、ヒイロはやけに元気になっていた。どんよりと暗雲を纏わせる程に顔色を黒くし、スオウや他に交友関係がある者も、貴族様共も意図的に避けていたあのヒイロが、だ。どこかすっきりしたような顔で、「もう大丈夫かもしれない」と、自分でも元気が戻った理由を知らずにまた話してくれるようになっていた。 彼女の気が晴れるなら、と。誘われた買い物に付き合うことにしたと言うのに、いざそこで見たものはなんということだろうか。学園から消えたエリーゼ・リースその者で。疲れから見た幻かとも思った程だ。
最近に至るまでヒイロから避けられていた理由は分かる、自分達も含め大抵の人間がエリーゼを悪く言うからだろう。どうしてあんな奴を気に入っているんだ、本気で理解が出来ないことは多かった。事実、再会した昨日も、殺しかけたヒイロに対して全く謝る気も無く、傲慢な態度ばかりが見えて非常に気に障って。相容れない、理解出来ない、する必要も無い。あれはちっとやそっとで善に揺れることも無い程の、芯から染まった悪の花。ヒイロが許すなら、そのまま手折って燃やしてやりたいくらいに、スオウはエリーゼを特に憎むうちの一人であったと言えよう。
そんなスオウが。今日に至ったからにはその感情を一旦封じられるように努力してみようと試していたのだった。
『スオウはいつもそう、……わたしを守る為に、わたしの気持ちを否定するもの』
かつて言われたあの言葉が、今のスオウを深く突き刺す。…知ってしまったから。直に見れば、彼女の想いがどれほど深いものか。スオウ達に対するものとは違う、また別の質量を持つ感情をあの女に今も向けていると知って。そしてヒイロのエリーゼに対する姿勢はこれから先もてこでも絶対に動かないことを、信じて疑えなくなった。それほどまでに昨日の意外な再会は、強烈な衝撃をスオウの魂に与えたのだ。
自分が男だから、分からないのかもしれない。女同士にも、男と似たことがあるのと、ぶすくれてこちらのことを否定するヒイロは何度も見てきた。けれど、目の前でひどい目にあっている幼馴染をかばわず放置していろだなんて性格的に無理難題でしかない。結果、エリーゼとの間に割って入り、ヒイロに何度も「ちがうの」「誤解よ」と言われた回数は数知れず。その度に、醜いものを抱えてきた。
…何故。幼馴染の己がいるというのに、今ヒイロが見ているものはエリーゼなのだ。何故、いつでも守れる距離にいる自分達から離れて、危険なエリーゼの元に行きたがる。俺がいるのに。俺が、いるのに。
彼女の一部を変えたのがエリーゼだと認めたくない。
そんな嫉妬心に駆られたからこそ、憎悪が余計に強くなったのだと、今なら己の未熟さをしっかりと受け入れられる。
(……リースの人間共も、あれ以来学園に来ちゃいないしな、口割らせようにも逃げられちゃしまいだ、)
頼りたくは無いが、自分のような平民と比べれば動かせる金も人も力も段違いの貴族連中を駄目元で探してはみたが今日は変に見当たらない。ヒイロをここに編入させた元凶のバトラトンなどは、確かリース家よりも爵位が上の筈だ。顔をあわせちゃヒイロを巡って対抗心を起こす男共の一人ではあるが、持っている力の大きさだけは認めてやっている。反吐が出そうだが、乱暴な手を使うことはヒイロが悲しむ。だから、最悪あれに対して頭を下げることも視野に入れるほど追い込まれていたと言うのに。こうも会えないと、逆にほっとしてしまう。また、ヒイロに嫌われるようなことをせずにすんだ、なんて弱音を慰められたような気がして。
ヒイロは、かけがえのない愛する者だ。何としてでも隣にいて守ってやりたい…そんな、健やかな永遠を確かに感じさせるようなあの娘の手を、スオウはいつだって引いてきた。
愛したい、愛されたい。その想いが強くなる度に、嫌われたくないと言う想いも強くなる。強がるのもここいらで潮時だと、ひどく癪だが、昨日の一件で突きつけられたような気がするのだ。ヒイロとエリーゼには、確かに絆が存在する。スオウ達に気付かれないような太い繋がりが。あんなヒイロの姿を見せ付けられてまで、お前のエリーゼに対する感情は間違いだ、と残酷なことを言うのは、今のスオウには出来ない。これ以上、愛する彼女を否定してはいけない。し続けたら最後、取り返しのつかないことになる。まだ十分引き返せる、そう踏みとどまらせてくれたのだ。
だからこそ今は聞かないで、
それはヒイロが願ったこと。それに沿うのが、俺に出来ること。スオウにとって、一番のやるべきこと。憎い女に傅く彼女の姿が、あまりに美しくて。心を締め付けられるような痛みが生まれたのも事実だけれども。ああ、何やってんだ俺、と。俺で駄目なら貴族に頼めば、なんて考えがとち狂っていたことを自覚する。それは違う、彼女の望むべきやり方では無い。死ぬほど悔しいが、彼女が望む和解に、俺達は必要無い。むしろ邪魔だとはっきり突きつけられた。
『彼女の罪ごと、僕は愛している』
……自分を、特に恥じる要因となったのも昨日の中にあった。どういう過程があったのか、エリーゼは「花婿」と呼んだ謎の男を横につれていて。只者では無い、そう思わせるには十分な佇まいだった。
殺意を込めてエリーゼを睨んだスオウに対して、同じくらいに鋭く尖った視線をこちらに遣した。ヒイロを脅すのではなく、真っ向からスオウに対してだけ悪意を返してきたのだ。感情的になったスオウを、その両手でまあまあと押さえ込まれた時は本当に驚いた。今すぐにでもエリーゼを殴ってやりたいという衝動に負けたこの体を、平然と微笑みながら止めるのだ。学園以外でも鍛錬を積んでいるこの体を、敵にもならないと言ったような様相で。優男の顔をしていながら、その実、怒りを持ったスオウよりも冷たい目が出来る不気味な男。
あれは何だ。答えを指す言葉に、「花婿」以外が出てこない。婚約破棄をされたエリーゼに、別の婚約者がいたのか。それとも、誘拐自体も狂言で、その協力者であるのか。たった数分しか無かったあの中で全てを知ることは叶わず。しかし、男としての違いを見せ付けられた気がして、あの凛とした言葉を出す男の姿がやけに頭から離れない。
罪ごと。罪ごと愛すというのか、あの最低な女を。俺にとって最高の女を殺そうとした最低な女を。
ふざけて言えるような言葉では無い。それを平然と口にするということは、自分も罪人でいてやると宣言するようなものだ。あんな女の為に、人生を棒に振ることなど簡単に出来ると言ってのけた。あの場で立った者同士、対比するとこちらがあまりに未熟だったように思える。むしろ、あちらの対応が大人だったのだ、一時の癇癪で市場を台無しにする可能性もあった俺とは違う。ああ、ああ、思い返せば思い返すほど、自分を呪いたくなるくらいには!あれではまるで、負け犬の遠吠えじゃあないか。
(畜生、)
家との繋がりを失った筈のエリーゼが、着飾っていた物を脱ぎ捨て庶民のような格好をしていた。婚約も破棄され、全てから見放された筈だと言うのに、あの女は変わらず…むしろ以前より我が強くなっているのではないだろうか。
腑抜けるどころか、より鋭くなったあの在り方を支えるのは、あの男に違いない。あんな女でも愛する男はいるのだと、まるでこちらに押し付けるように主張してくる野心が嫌でも伝わってきて。それで、余計に、自分が情けなくなるのだ。今日、何をやっていいかも分からず、ただ宛も無く流離うだけの自分をくっきりと映しているようで。
彼女の為に出来ることは、何もしないこと。今だけは、事の顛末を見守ること、そうだと分かっているのに。ヒイロが望むことをしてやるだけの余裕が、俺には無い。エリーゼの横にいたあの男のように、エリーゼを想う気持ちごとヒイロを受け入れる域に至っていない。
もしもヒイロとエリーゼの立場が逆で。ヒイロがエリーゼを殺しかけたとしたら。俺は彼女を罪ごと愛すと、あんな風にまっすぐに言えたのだろうか。
今はまだ、ノアしか知り得ない学園改革。
ヒイロとエリーゼの事件を余波に、着実に変化が起こるだろうリドミナ学園にて、スオウ・カザルムは動かない。
誰より愛しい彼女の為に、激情を抑え込む。未熟な己を律することが出来るよう、ヒイロと言う存在を支えるという意味をまたひとつ知って。
ノアを、エリーゼを、ヒイロを、スオウを、興味を持った者全てを、金糸雀が見守っている。面白い物語を見るように他人事をした目を、誰かから借りていたようだった。
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