5錠

45

 清清しすぎる程に良い目覚めを迎えた。夢を見る隙も無いくらいに深く深く眠り込んでいたらしい。ひとつの欠伸をしてから酸素を多く取り入れれば、もう再び眠る必要も今日は無いくらいに爽快な朝だ。

 瞼の上に乗る多少の疲労すら感じず、まさに朝一番の絶好調と言ったところでむしろ身体の軽さに驚く。ベッドからおりた僕の重みが床に伝わり、移動していく様子ですらやけにはっきりと知覚出来るのだから、全身で喜びを感じているのだろう。今日も、いつも通りの朝が来たことを。


(……ありゃ、まだ早すぎたか)


 この前3月に入り、まだまだ山も寒さからは逃れられない冬の時期。この冬一番の寒波は低温ピークの頃に無事乗りきったものの、それでも未だに、僕のような若者ですら朝の動きを鈍くさせる程度には震える寒さが続いていると言うのに。時刻の確認をすれば、ようやくそろそろ朝陽が顔を出しに来る最中と言ったところであった。この季節の早朝、いつもなら、寒いなあなどと呟きながら少し体を動かして完全な覚醒に至るのだが。どうも今朝に限ってはそう言った当然の独り言でさえ出てこないらしい。それもそうだ、多分僕の身体も理解が遅れているんじゃなかろうか。

 いつも通りなのに、そうでは無い。閉じ込めていた焦燥感や漠然とした不安の大部分が拭い去られた今、ただ単純にほっとすればいい。大きな悩み事がひとつ減ったと、十七の僕が言うにはそれくらいの簡単な言葉で十分だ。やけに寒々しい中でひとつ、凍えることの無いあたたかさを持ったまま、ふらりと導かれるようにして部屋を後にする。ぺた、ぺた、と裸足で歩き、家の外へ踏み出していった先にあるものを、見なければいけない気がしたから。


「……綺麗、」


 雲が全く空の邪魔をしない、ひどく澄んだ天の下。

 薄く青く光る世界が。今の僕の心を表すように、その広大さを見せ付けていた。


 …昨日は、なかなかに濃すぎる一日を送ったと思う。出来事の大きさで言えば一週間分くらいは凝縮された日だった。訪れたものは鮮烈であり、与えられたものは静謐であり。許されたものは、歪な愛情だった。

 リース家との対面も叶い、結果として僕が犯罪者として捕らえられることも無く。兄さんが協力者として不遇を受けることも無く。まだ僕に対する不安も残っているだろうに、彼は僕を許して下さった。エリーゼの傍にいても良いと。エリーゼが、まだこちらにいても良いと。許されたのだ。課題はまだまだ残るものの、そのお陰で昨日と言う節目の日を終え、今の僕達に繋がっている。

 真っ青な光に大気が包まれるこの少しだけの時間、子供の頃のように空に手を伸ばすことは無くなったけれど。腕の代わりにこの紺色の、深海の瞳が夜明け前の光景を逃がさないように、まばたきを忘れていた。


 昨日。互いに言葉を出しあえた会合の帰り際に僕達を包んだ夕焼けの後。再び起きた僕を迎えた、夜明け前のこのさ中。その双方で垣間見たのは、美しい青の絵の具を満遍なく隙間を殺すように重ねて輝いたこの特別な空だった。

 ブルーモーメント、と言われるものだ。夕方の日没の直後と、夜明け前の時間に見ることが出来る美しい自然現象。星自体が地球に似ているこの世界でも見られることがある。太陽と起床時間を競ることもある僕は、稀にだがこの光景に出くわすことがあって。

 それでも、こんなに綺麗すぎるブルーモーメントは見たことが無い。あまりに整いすぎている物には人間は恐怖を覚えるとも言うが、実際怖いくらいに今のこの空は美しかった。


 ずっと前は、僕の色もこんなに綺麗になれたらいいなと。そう思っていた。でも現実はそうはならない。空に輝くこの色達に、憧れはすれどなれることは一生無いと悟ったから。

 父さんも母さんも亡くして呆然とした時期、何もかもが手付かずで。あの頃、何かを失えば人は脆くなることを世界から教えて貰った。それでも生きたければ、失うことを受け入れ続けて努力するしか無いと言うことも。

 地球での前世の記憶が、この世界の僕を何度も邪魔したことはあったし。魔力の量で言えば本当に出来損ないの類に入ることを自覚しても、出来る範囲から糸口を見つけていく諦めの悪さを学習した。この空に届く色にはなれずとも、深く深く沈みこんだ深海の色になれたことに誇りを持って。

 ここは、今。空と海との境界線だ。僕の深く濃い色と、天から輝く目映い色。青でありながらも、こんなに違う様が混じりあうところ。

 エリーゼを連れ帰った時に目にしたあの青さと、今僕を祝福するように広がるこの青さが確かに昨日から繋がっていると信じたい。どんな形であれ、僕達は昨日を何とか乗り越えてここにいるから。


(嘘みたいだ、)


 あまりに都合がよすぎて、世界から嘘をつかれているようで。いや、そこをひん曲げて捉える僕が一番悪いのだ。だって、こんなこと、あまりに幸福すぎるのだから。

 昨日を過ぎた今日にも、エリーゼが僕のところにいてくれることが。


 数分だろうか、体感時間はもっと長かったように思えるけれど。あの鮮やかな青色が空から消え、元通りの朝になろうとした時。くしゅん、と僕から出たくしゃみにようやく家の中に戻ろうと思い立った。体を芯から凍えさせるような寒さも、今は平然と我慢出来るようだ。あまりの清らかさにずっと目を奪われていたらしい、全く、この中に映すのは彼女の炎だけで良いと言うのに。


「ん。よし。……頑張るか、」


 軽く顔を両手でぱんっ、とはたき。ぼうっと呆けてしまいそうな幻想的な朝から抜け出す。

 明日彼女が連れ去られたりしたら、明日彼女が帰ってしまったら、……そんな不安を怯えることはもうしなくていいという実感が湧いてきて。

 まずは朝の用意をしてくるか、と。晴々とした気持ちのまま戻っていった。


 × × ×


 珍しく、僕の気配がのそりと入ってきても起きない彼女を見て。寝顔をこんなに近くでじっくり見るのは初めてだと思った。

 エリーゼ様、と普通の声色で呼び掛けてもすよすよと小さな寝息を立てて眠り続けていて。エリーゼ様、何回か呼ぶ度に声がどんどん小さくなり、僕も彼女のベッドの真横まで近寄っていった。


(女神だ……)


 女神がベッドに横たわっている。意外と寝相がいいらしく、上にかけられた毛布を巻き込んで転がった様子も見当たらない。

 彼女がこんなに油断する、と言うのも珍しい。だいたい僕が朝食前に呼びに来る時は、既に起きていると言うのに。今思えば彼女なりに気を張ってくれていたのか、まあ、昨日の疲労が一番辛かったのは絶対に彼女であるから。こんこんと眠る程に消耗が激しかったのだろう。

 いけないことと知りながらも、大きな身体をちぢこませてベッド横にしゃがみこむ。……睫毛が長くて綺麗だ。ベリーショートの赤い髪が枕にふんわりと乗っているのを見ると、ここを彼女の居場所として認めてくれた気持ちになる。

 エリーゼの思うままにしてほしい、と。会合の場に行く前は、彼女の意思を尊重しようとしていた。でも、いざ、完全に安心しきって僕達の家で眠っている彼女を目にする今日を迎えてみれば。ああ、あれは綺麗事だったと、申し訳なくなる。男って性別はこんなにも独占欲が強くなるのだろうか?いや、男女なんて関係無いか。ただの僕の悪癖でしか無い、口では綺麗事を言いながら心で泣きつくような男になるんじゃないよ頼むから、僕。


「…………む」


 おや。

 もそりとみじろいだエリーゼが、眉間に皺を寄せながら、部屋に射し込んでくる光と入ってきた僕の気配にようやく気が付いてくれたらしい。す、と瞼を上げていく様子が、まるで宝石箱を開ける蓋みたいだなんて。その一瞬の動作にまで見とれてしまう。


「……お、……はようございます」

「ん」


 まだ眠気が勝っているようで、また目を閉じながらだらだら、とゆっくり起き上がる姿を見て。気付いている?気付いていない?まだ鈍い反応しか見せない彼女に、孔雀を見るような物珍しさを覚えつつもじっと目が離せなくなる。

 恩恵を山程頂いている自覚をするのは今だとばかりに、愛しさから出る溜息が連続した。死ぬほど可愛い。駄目だ。こんな姿が見れて本当に僕は幸せだと思います。寝ぼけ眼を閉じたまま、瞼の裏で目を動かして僕を認識しようとする動作にうっとりと惚れていた、震えるくらい愛しいとはこのことだろう。


「エリーゼ様」

「ん」

「エリーゼ様?」

「……ん」


 これは反則ですよ、エリーゼ様。

 頭を抱えたくなる想いをおさえながら、彼女の緩やかな覚醒を待った。変態扱いされてもこれは仕方ないと思いつつも、少しだけ。少しだけ幸せを味あわせて下さい。

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