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「あにさま、どうしてみんな、かあさまがいないの」
まだ、末の妹が年端もいかぬ頃合だった時の話だ。舌足らずながらも言葉を理解し、絵本を一人で読めるようになり、服を一人で着れて走れるようになった、そんなほほえましい時期だった。
一人で行動させるにはまだ早いエリーゼ、過密なスケジュールの中で大きく時間を空けるわけにもいかず。幼子でも問題なく連れていける時は小さく軽い彼女をこの腕に乗せて抱きながら仕事をしたものだ。
「あにさま、どうしてここにはとうさまもいないの」
幼いながらに、私に気を使ってくれたのだろうか。とある日の仕事から帰った邸宅の中、私の腕に座るエリーゼがひそひそと内緒話をするように耳元でそんな言葉を出した。悲しむ様子でも無く、ただ普通に気になったから問うただけの言葉。
大きくなって、自分の周りのことに気付けるようになれば誰だって分かる大きな疑問。こればかりは、隠そうとしても隠せない。心苦しくなるその問いに、私は沈黙を貫くことなど出来はしなかった。
「急にどうしたんですか、エリーゼ」
「きのう、ニーナとごほんをよんだの。ふつうは、りょうしんがみんなにはいるんだって」
「そうです。……普通はね」
33女のニーナ、リースの家の者以外が恐ろしくてこの邸宅から外に出られない愛しい子。あの子は自分より小さい妹が来た、と、私がいない時特にエリーゼの面倒を見てくれていた。
嘆かわしい。なんて、嘆かわしいこと。誰も悪くないのに、普通の家庭に産まれてさえいればそんな疑問ですら湧いて来なかっただろうに。
「あにさま。ないてるの、ごめんなさい」
「いいえ。いいえ。そう、普通じゃないんです。でも、……私達は「特別」なんですよ」
「とくべつ、」
「そう。だから、悲しまないでいいんです」
何故私達は、同じ男の元に産まれてしまったのか。こんなに愛らしいのに、エリーゼにも、他の愛しい弟妹達にも、憎き男の血が混じっている。ひとでなしの、穢らわしい血が。
ああ、どうして?
この家が、何故。使用人以外には、弟と妹だけしかいないのか。一夫多妻をうたい、何も考えずにただ多産をさせられた末に出来た家族。何故どの弟妹にも、共に暮らしているだろう母がいないのか。何故父はこの家におらず、私がリースの頭となっているのか。
何故、私が特に、末のエリーゼを気にかけてしまうのか。そんなことは、既知であった。似ているんだ。私達は、純粋な人間の血が混じっていないと言う、あまりに哀れな点で。
だから、放っておけなかった。父のようにではなく、私のようになってほしかった。どんな出自であろうと、一人で強く生きられるようにと願って、珍しく他の弟妹よりも気にかけた。エリーゼが他の幼い弟妹から避けられ出したのは、その特徴的な外見だけでなく。誰も独占出来ない私の横に、いつもいたからかもしれない。
「エリーゼにも、皆にも。確かに両親はいません。でも、皆には私がいます。エリーゼにも私が。それではいけませんか」
「ううん。あにさま、だいすきよ。みたことないひとなんか、あたしすきになんかならないわ」
始まりは、私。
終わりは、エリーゼ。
初めてこの子を渡されて抱いた時、あまりに似ていたからこそそう信じて。そうして思い描いた通りに、あの男を追放しこの家の実権を完全に握った。
もう、悲劇は起こらない。起こさせない。この穢れた血を濃く受け継いだ子は、エリーゼで最後になる。そんな未来が確約された切っ掛けの子だからこそ、誰より哀れみ、誰より尊ぶべき子と思ったのだ。
「えどがーさま……えどがーさま!」
バッと、瞼の裏に広がっていた光景が散っていく。それは、あの子の声では無い。私が逃げた先に、あの子と同じように手を取った、
「クロエ、?」
「おきをたしかに。……いまのおはなし、きこえていましたか、」
「クロエ……今、私、」
「完全に思考が飛んでいましたよ、エドガー様。顔色が、ひどい、」
ああ、あ、そうだった。今の私の状況を思い出す。……彼女の身に、あまりに多くが起こりすぎた。それは私を過去の記憶に一時的にでも閉じ込める程、衝撃だったのだろう。
クロエがひどく心配した表情だ、きっと今の私は死人よりもひどい顔色をしているかもしれない。
「大丈夫です。嫌なことを、思い出してしまっただけですから。ありがとうございます、クロエ、ウィドー殿」
――みたことないひとなんか、あたしすきになんかならないわ、
あの時の彼女の言葉と、真逆のことが起きている。これを成長の証と喜ぶべきか、悲しむべきか。
今日、私は、見たことも無い青年の元に、彼女がいることを良しとしたのだ。
マヒーザ家と決めた、対面の日。会合を終え、クロエを送りに向かわせ。そして、それで、あの子がまたこちらへ戻って来るに相応しい場を整えられるまで、ほとぼりが今少し冷めるまで、あの青年と。ノア・マヒーザと、共に在ることを許したのだ。
「では、あと少し。責任の所在を明かしておきましょう、王家に対してただの詫びだけで済ますなど出来る筈もありませんから」
「深く悩むのは大いに結構ですが、……気に病みすぎずとも、我が王達は貴方を友としています。少しはこちらにも背負わせて下さい、でないとあの方は逆に文句言いますよ。そう言う人達ですから」
「…なんとも、光栄なことですね。あの方達を上回るようなことは出来ませんが、よろしければこちら側なりの責任の取り方と言う物をお伝え願えませんか、ウィドー殿」
「勿論。此度は双方共に気苦労しましたからね、ワタクシも我侭を通した分は貴方の為に働きましょう」
自覚していた、多くを守りたいがあまり個々の存在にまで十分に目を向けられなかったことを。今回の会合の結果を、あのように穏便に済ませ。そうして、あの子にはあの青年が必要だと言う理由も直に接してみて分かった。
ただ我侭を聞くだけならば、使用人で事足りる。ただ権力が欲しいだけならば、婚約者で事足りる。けれど、エリーゼが選んだのはそれのどちらでも無い男だった。ただ、まっすぐに向き合って。彼女の話を聞いて、彼女の罪でさえ受け止めて愛することが出来る器量を持つ、”みたことないひと”。
私に似ていて、私に全く似ていない。そんな欠片を持っている青年が、今の歳のエリーゼを笑わせているのだ。それだけで、負けたような気になる。女王の目を通して見た、二人が笑いあう光景を忘れられない。
…すきになんかならないわ、なんて。ずっと前にエリーゼが持っていた感覚を覆して、純粋すぎるまでに募らせた想いで後先考えず誘拐まで行ったのだから。ただ、エリーゼを救いたいと言う一心で。
誰が救いたいと思う、
爵位もある家の令嬢で、将来も約束されていて。権力も金も使える立場にある裕福な人間のことを、そもそも「救いたい」などと外野が思うことすらおかしいのだ。何があっても家が守ってくれる安定を兼ね備えた者に対してそう思考すること自体が身の程知らずだと、高飛車な貴族陣であればその矜持で返しただろう。
互いに知らず、互いに見たことも無く、説明すら出来ぬ不可思議な関係を、当て嵌まった、と思えるのは。あの平民の青年が、救いたいと。守りたいと…今まで、私だけにしか思われていなかっただろう感情を、エリーゼに向けていたからだ。全てを知っていて守りたいと思う私と、全てを知らずして守りたいと言うノア。純粋で実直、勇敢と紙一重の無謀さを持ちながらにして、…僅かに孕む狂気が見える点こそ、安堵すべき箇所であろう。
…エリーゼを守りたいと思いつつ、時折手放したいとすら思った。私のその矛盾した考えの根本には、もう思い出したくも無い程の出来事が眠っている。ノアの全てが純朴で無くて良かった、と思うのは。私の母を連想させるからだ。もしも彼が曇りの一点すらない程の聖人であったなら、相対的にエリーゼが父に似ていくのでは無いかと言う不安を思い起こさせるからだ。彼が心からの善人であるのならば、彼女に壊される未来しか見えずに断ったかもしれない。愛しい人を壊す経験など、エリーゼにはしてほしくないから。
けれど、彼は明らかに違った。明らかに、異質。エリーゼだけにしか固執しないと言う表現に、度肝を抜かれた程。清らかな人間性に寄りつつも、完全な善人で無くて良かったと安堵したのは本当だ。善い存在は、いつだって、哀れであるから。
クロエの言った皮肉も今思えば適切なもの。歪な存在には歪な物を、罪には罪が、悪には悪が、彼女には彼が、ぴたりとあう。それで正解なのだ。
(ああ、エリーゼ、私は、)
父親代わりには、なれなかった。私の知る父親と言うものは、人の愛も情も理解してくれる気配さえ無かったひとでなし。父親としても、紛い物だった。だからあの影を真似ることなど出来もしなかった。指針に出来る者を誰も持たず、手探りで少しずつ家をまとめあげて行って。人間でも、ひとでなしでも無くなってしまったのだ。
取り零したものなど、山ほどある。
けれどせめて弟妹だけは、と。彼等が路頭に迷わないようにする為には、寝る間も削いで働き続けるしか無い。結果、同じ家の下にいるというのになかなか顔をあわせることも出来ずにいる。
だからこそ、エリーゼと言う妹一人だけに時間を費やすことは出来なかった、それも当然だ。きっと今、私が埋め切れなかった彼女の心を必死で埋めるのは、あの青年以外に存在しない。
あの時、私に話してくれた言葉の全てに添わぬ生き方を選んでくれた。その選択に助力するような彼に。私は、彼女を任せるには相応しいと。本気で信じたいと、願ったのだから。
私と同じ愛し方をし、私と違う愛し方をし、…私と同じくらい、不安定な彼に。
リース邸に、優しい夜が落ちる。
星達が今宵の結末を慰めるように、やわらかに散っていた。
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