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立っている。きちんと立てている。それだけで感動が押し寄せてくるとはよもや思うまい、丸一日力仕事に費やした日よりもどっと疲労が出てきた気がする。何なら今の僕は初めて立った赤ん坊よりも生まれたての小鹿よりも偉いと、妙な方向性で自分を褒めてしまいそうだ。
少しだけ暗くなった空を見て、今の僕達に残るのは山場を乗り越えた安心感だった。何と言えばいいだろうか、魂が口から抜けたのをもう一度飲み込んだと言えばしっくり来る。リース邸のあの門扉の前にいることを許された三人分の人影が、夕闇に混じってゆらゆらと揺れていた。既に、行きと同じく案内を担当したクロエの姿は消えていて。ゆるりゆるりと、固く結ばれていた緊張の糸がほどけていく。
……後から疲れがどっと現れるなんてあるもんなんだなあと、現実逃避するような言葉が出たのも束の間。生きてる……、などと呆けた台詞を出した僕の横からすかさず飛んでくるのは彼女の言葉だ。
「泣かずにすんで良かったじゃあないか、子犬」
「……ふふ、ありがとうございます、」
良かった、と連呼しながら一緒に歩く兄さんがいるからか。その分少しだけ落ち着いている僕は、エリーゼにやわらかい笑みを向けることが出来た。
『あと少し、休学の期間を伸ばしておきます』
許しを頂いた。そう感じ取った後の、彼等との会話。
先までの会合を締めくくる結びの言葉になる前に、エドガーから話された内容を思い出す。エリーゼが僕に連れられてカシタ山で過ごしている期間の迅速な対応の中のうち、彼は混乱が学園内で収まるよう…全ての責任をリース家で取れるように土台を固めていた。
実際、社交界にも魔術界にも大多数のリースの兄姉は貢献していて。この程度の騒ぎで揺らぐ名では無いとでも言うかのようだ。此度の騒動を目論んだのはどれもエリーゼと歳が近い兄姉ばかりで、そう言った真面目な連中は全く関わっていない確認も取れていると言う。
愚行を所謂「若気の至り」で済まして貰う代償に徹底的にそれらを再教育し学園との間での事後処理まで行って。兄さんがいる手前、ヒイロ・ライラックとの間でやり取りや示談等が行われただろうかと言う点については聞けはしなかったが、この後に来るだろう学園での展開に、この状態のままエドガーが放置することも無いだろうと信頼を得ている。こればかりはあと少し時が経たねば分からない、とも。
……王家と密な関係にあるリース家も多額を投資しているあのリドミナ学園において、初代女王の像の目前で愚かな断罪を行おうとした人間全てはリース家が目をつけた対象であるとして二度とは表立って悪さも出来ないだろうことも、淡々と語られた。
それは、全ての後始末をつける代わりにエリーゼのした悪行に関しても鎮火を図る、と言う意味だ。
エリーゼのしたことが、善行だなんて言うつもりも無い。兄さんがいる手前、僕とエリーゼだけにしか分からないよう暗喩めいた言葉しか出してはいなかったが、それでも、エドガーと一致した感情がある僕には痛いくらいに分かった。
…”どんな罪を背負ったとして、その罪ごと愛しい妹を守る”という、確固たる姿勢でもって今回の事案に向き合っていることが。その為なら利用出来る物はどんな手段でも使うと言う、気迫があった。
富、名声、権力、人望、そして貢献。今までリースが積み上げて来たそれらの功績があるが故に、許された隠蔽工作。
あまりに、持っている力の大きさが違うと見せ付けられたようで。実際、そうであったに違いない。それほどの権力と、それほどの想いを持ちながら。――この僕の元に、まだエリーゼを預けていても良いと、言葉を出したのだ。
「…貴女が、愛されていて良かったと。今は心から安心するだけです」
「似ているようで似ていないと言ったろう。その通りだ」
エリーゼの行方不明は、彼等の処理により学園側に対してはひとまず無事が分かるまで休学と言う体裁をとっての処遇となっていた。退学、という処理を勝手に取らせないあたり、学園の意見も強引に潰したのかもしれない。正直な話、これだけ大きな騒動を学園側だけで対処出来ずに基本的にリース家におんぶに抱っこ状態と言うのも女王や関係者全員の機嫌を損ねるのも当たり前だ。そも、女王とエリーゼが友人関係と言うことを学園側が把握していたらあの事態を放置して見捨てるどころか保身の為にも絶対にどうにか動いただろうに。
……元の流れでは、エリーゼの事件を切っ掛けに学園側の体制も変わる為、これからがどうなるか注視しておくべきか。だって、休学、と言うのは。その期間が終わればエリーゼも学園へ戻る可能性がある。ドロップアウトせずにあの中に一人で戻ってしまえば……待っているのはヒロイン達の味方である。今日出会ったスオウでさえ、引いてはくれたものの他の攻略対象も大半がヒイロを傷つけたエリーゼを恨んでいることだろう。ただひとつ希望があるのは、ヒイロ自身がエリーゼに並々ならぬ好意を持っていること。それだけは救いである。
休学が済めば、エリーゼが多くの侮蔑の視線や言葉に晒されるのは目に見えていて。当然、エリーゼに表だって味方出来る人間はいない。女王様もまさか日中から学園に出てきて「彼女は私の友達です」と言って庇えるわけも無い。ただでさえ王家は今外交ひとつとっても凄まじく忙しない、王の名を借りている場とは言え、言ってしまえばこんな小競合いの場にわざわざ来て頂くことすらおこがましい地位の方なのだ。
「ともあれ。まずは、帰りましょう。エリーゼ様」
「!そうだな……帰る場所が二つになったのは、まだ慣れない」
「これから慣れていきましょう。二人で」
「生意気を」
これはひとまずの、延命行為。それを僕達は許されたに過ぎない。
あと少し、あちら側の周囲の整理が済むまでは。僕達の元に、エリーゼがいても良いと言ってくれた。エリーゼが学園に戻れるようになる頃合いに、再度連絡は来る手筈を整えて。また都度打ち合わせも必要になることだろうが、今度は敵では無いウィドーもいる。その存在が増えただけでも、十分に動きやすくなった。
もしも。もしも、彼女が、また学園に戻る時は。またこの邸宅に来る時は。彼女を一人にしたくない。あの断罪の再来が起きないよう、尽力すべきは僕だ。
本当なら退学して下さいと我儘を言いたくなってしまうが、学業と言うのがどれだけ大切なのかは分かっているし僕の一存だけでは決められない。僕は、この世界では産まれてから一度も学校なんか行ったことも無い独学の魔法使いでしか無い。学歴が無い人間と言うのは、兄さんのように突出した能力でも無い限り下に見られることもある。だからこそ、そこまで口は出せないのだ。
今日垣間見た、ヒイロを映したエリーゼのあの目。彼女達二人の間に何の約束事があったかは教えられていないが、こうも思う。ヒイロがいる限り、エリーゼも学園を無理にやめたがらない筈だと。……それだけの、彼女達の間だけにしか無い絆を、僕は見たのだから。
ああもう僕そのうち人間だけでなく物に対してですら嫉妬してしまわないだろうか、有り得る。僕なら有り得る。妙な自信しか無い。
「まー!命あって良かったってことで!エリーゼちゃん、もう少しだけ山奥での保護生活ってことになるけど、これからもこいつをよろしく!」
「はい。兄君には特にご迷惑をおかけいたしました。――もう少し、世話になります」
「素直でよろしい!俺も、エドガー殿と約束したからね。ほとぼりが冷めるまであとちょいと、しっかり怪我無くいてもらいますって!何があったかは知らないけど、いや、知らされてないけどってのが正しいかな?それでも、俺もエリーゼちゃんの花嫁姿見たいし!」
結婚式はまた延長だな、
そう明るく励ましてくれる兄さんに続いて。僕は一度、リース邸を振り返った後。ゆっくりと皆で歩き出した。今、三人で住んでいる場所へと戻る為。
田舎ではあるけれど都会に負けないくらい、エリーゼを笑顔でいさせてくれる山へ向かって。
こうして、僕達とリース家との初めての対面は終わりを告げた。
まだ余る問題を残しながらも、幸先が良く有意義な時を過ごせたと思えているのは、こちらだけでは無いと信じたい。
傍らに彼女を。
今はただ、誰より望んだ花嫁自身が、望んで僕の隣にいてくれることを選んだことに。何よりの感謝を捧ぐことにする。
お手をどうぞ。差し出した手に、彼女が与えてくれる。
この光景が未来でもこのまま続くといい、だなんて。まずはひとときの安寧を喜ぼう。
「新たなはじまり」を始めるために。
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