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本の中の世界に似ていると言えばいいのか、限りなく現実に近い非現実の中を歩んでいるとどうにも近いものに例えたくなる。クロエの後ろを大きすぎない歩幅でついていく間、綺麗な絨毯が道しるべになるかのように敷かれている床に。音の全てが響いていきそうな程、朽ちや穢れを知らぬ様相で輝く備品に壁を見るだけで、屋敷の美しさに心が負けそうになる。お前は果たしてこの場に立つに相応しいか、と空気まで問い正しに来ているみたいだ。
リース邸内部、散ることが無い緊張感をしかと持ちながら付いていく。途中、ちらほらと見かけるメイドや執事陣が通れば頭を深く下げられて。歓迎と言うわけにはいかないが、今だけは僕達兄弟をこの場に入れてやってもいいという表れなのだろう。広間を抜けて行った先、日常を装ったかたちで慌しく動くリース家の一面の欠片が見える。曲がった廊下の反対側には、美しい曲線で螺旋をゆるりと描いた階段が上の階に繋がっている。まるで枝がわかれていくように点在する多くの部屋が、頑なにそのドアを閉じている様子ばかりがいやに目についた。
「いちおう、ひとばらいはしています。よろしくないきょうだいたちに、じゃまされてはいけませんので」
……よろしくない兄姉達、と言うのはまず間違いなくエリーゼの断罪に荷担した者達を指し示す言葉だろう。いたとしても顔を合わせることは今日は無さそうだ。
しかし、本当に邸内は広い。物見遊山で来たわけでは無いのに、目移りしそうな程。ただでさえリース家は人数が多いと言うのに、途方も無い。仮に、リースの子供一人につき母親一人と使用人が一人ついていたとしたらそれだけで人数は三桁を軽々越える。前世にある浅い知識からだけの推察で申し訳無いが、こう言った貴族の屋敷にはお抱えの料理人達と言う者も多いだろう。子供達の部屋だけで無く使用人の部屋や、これだけの人数の食事をいつでも用意出来る蓄えの多さ、数多の備品まで加えてしまえば他にも様々多いがこの規模の人数と広さの邸宅の維持を苦もなく行えている現状を見ると、生きている水準の次元自体が違うと誰しも思うだろう。保存庫、客間、娯楽や趣味に使う部屋まで入れたら人数以上を越えるのも当たり前。それはそれは広大な敷地面積になるのも頷ける。流石は、伯爵邸と言ったところだろうか。
「……これからあなたたちがおあいするおかたは、はくしゃくというかたがきには、とうていおさまらないおかたです」
クロエが、自らの主を心から誇っていることが分かる言葉だ。僕だって、それくらいは理解出来る。相当数いる家族の中でも一番末のエリーゼにまで愛を届け、こちらの要求を無理矢理通す形での会合にも承諾を貰えただけでも、ただ権力に任せて全てを成そうとするような輩とは比べることも失礼だろう。勿論僕個人の印象ではあるが。エドガー・リースと言うまだ見ぬ人間への印象を更に良い方向へ変える役割を彼がしてくれたとさえ思う。傍仕えと言ったクロエからこれほどの忠誠を捧げられている人間が、エリーゼを余計に傷つけることは無い筈だ。ずっと前に抱いた不信感は、恥ずべきことだったのかもしれない。どうして彼女を助けに来なかったんだ、どうして彼女の手をとらなかったんだと僕が憤ったところで、エリーゼ自身が「あの人なら気にかけてくれるかもしれない」とまで信頼を抱いている。彼女が寄りかかりたいと言うだけでも、家族の愛情には勝るものは無いのだと現実が教えていた。
それでも、彼女を一人の人間として愛している僕も気おされてはならない。思い出せ、あの時を。ドロップアウトする筈だった彼女の前に先の見えない道を無理矢理作ったあの時を。生まれる前から彼女を愛していた想いだけは、僕も誤魔化すことは出来ない。僕は求める、僕は欲する、僕にはエリーゼ・リースという存在が必要だ。誰にも歪められないこの気持ちだけは持ち続けることが出来る、その権利は僕にあるのだから。
「どうぞ、こちらが…おうせつまにございます」
最初に足を踏み入れた玄関のホールから、様々なインテリアや凝った装飾などに彩られた空間を思考の波に飲まれながらたどり着いたそこ。両開きの室内ドアの目の前に案内された僕達は、クロエの手が先を開いていく様子を見た。
地面に這った視線が、前に開けた視界に戸惑いそうだ。シックな柄の絨毯の上には、いかにも柔らかそうな素材で作られたソファが数台、宝石を装飾に組み込んだクラシック調のテーブルを挟んでいて。ドアを開いてから強くなるのは、どこかで香ったことのある…そうだ、ラベンダーだ。そのラベンダーの香りが濃くなり、僕達の鼻先をくすぐる。こんがらがった感情を落ち着かせようとする香りを出す持ち主が、クロエの声をかけられるよりも前にこちらをじっと見ていた。いいや、正確には、僕ひとりだけ、を。ぞわ、と表現すら難しい緊張感が一瞬で僕だけを襲う。
応接間、奥に見える人影よりも手前にいる、その人物が、最初から、僕を見ていた。執事然としたそのローズグレイの色の持ち主は、一礼だけして微笑む。その目に、一切の笑みも浮かべずに。
「いらっしゃいませ皆様。……ワタクシ、国王傍仕えの執事長をしております。ウィドー・バレスク、と申します」
どうか、お見知りおきを。
そんな社交辞令にも似た言葉をかけられた先、僕は、早速調子を崩されることになる。王国の、執事長。そう言われて思い浮かぶのは、もうたった一人しかいない。カナリア女王に忠告を出された、あの名前がその唇から紡がれたのを聞いて。後ずさりしたい気持ちを辛くもこらえた。自然と一歩前に出たウィドーと言う男が、手にしていたティーポットをクロエに渡して、「交代のお時間ですね」とだけ。冷たくも、どこか熱がこもったような声色で言う。
「こ……国王の、傍仕えの方が、何故、ここに」
「かんたんです。それは、――あなたをみさだめるためですよ、のあさま、」
瞬間。息が出来ないくらい強めに、襟首を後ろに引かれる。背後に誰も存在しない筈だと言うのに、奇妙な感覚を覚えたまま僕は後ろに大きく倒れて盛大に尻餅をついた。…ちょうど、急いで立ったとしても、そのドアに手が届かないほどの距離に飛ばされたらしく。痛いと言う間も無く、目に入ったのは同じように前方に転ぶような形で応接間に入れられたエリーゼと兄さんの姿。
「ああ、驚かないで下さいね。ワタクシの能力で少しばかり移動させただけですから」
「のあさまだけ、ここにはいるまえにじょうけんがあります。それは、うぃどーしつじちょうと、おはなしすること。あなたをしんじるとあたいするには、そのひととはなしをしてから。えどがーさまはそうもうされました」
「…っ!エドガー・リース殿、これは一体!荒事にはしないとお約束した筈でしょう!」
「おだまりなさいな”へいみんふぜい”が。――ふふ、しつれい。わがままをきいてやったからには、こちらのわがままもたしょうはうけいれるべきですよね?あーくさま」
でもおやくそくですから、らんぼうにはしませんよ。にこりと笑うクロエが、二人を連れ奥へ行こうとする姿とは対照的に。部屋の外に思い切り放り出された僕の元には、廊下に出てきたその男が近づいて来る。説明を、と言う前に、ドアが勝手に閉じていった。困惑しながらも僕の名前を呼ぶ兄さんの様子すら、バタンと大きくしまったドアの向こうからもう聞こえなくなっていて。一体どんな力が働いたんだ。呆然とし、一気に状況についていけなくなった僕が伸ばした手の行き先は、驚いたことにその男自らが作り出していた。
「ノア・マヒーザ。貴様はこの世界の住人である。間違い無いか」
間抜けに座り落ちた僕が伸ばした手を引いて強引に立ち上がらせたウィドーが、問う。先ほどまで見せていた礼儀正しさもかなぐり捨てた様子で、鉄のように冷たい雰囲気だけが僕達を囲んでいた。年の割りに長身だと言われた僕の背丈も少し越えた姿は、僕を見下ろしているのか見下しているのかの判別がつきにくい。独特な感情をその瞳に浮かばせていた男は、一瞬迷った僕を見てもう一度問う。
「間違いないのか」
「間違い、無いです。……それより、これは、一体どういうことなんですか。正当な話し合いは、」
慌てて答えた僕だが、強く睨み付けられたことに思い切り続きの言葉に詰まってしまった。
「何が正当だ。人の目が多くある場所で誘拐なんぞ堂々とした犯罪者が、兄の力を使っただけでいきがれるわけが無いだろう。被害者のエリーゼ嬢や冤罪の可能性があるアーク・マヒーザを除けば、貴様が一番の危険人物だ。貴様があの二人と同じ扱いのまま、エドガー・リースと話せるとでも?」
「うっ、…!その、通り、ですけれど、」
「…自覚があるならば良い。こちらとて、最初から貴様を犯罪者扱いするのは望んでいないさ…今のは、脅しの言葉に過ぎない。二、三聞きたいことがある。ああ、安心しろ。誰にも危害は加えない。それが、カナリア様と交わした誓約だ」
返答にもよるがな、と付け加えた彼に。思わず、唾を飲んだ。
「ついて来い。ああ、…こう言った方が来やすいかな?」
――貴様、違う世界の住人でもあっただろう?
脳天を、雷が貫いたかのような、衝撃が走る。
うそだ、と。既に震えていた声は、音にもなっていない。本来の拍動の許容を越えて大きく鳴り出した心臓が、警報を鳴らした。何故、どうして、一瞬でぶわりと冷や汗が流れ出す。知られたくない、奥底に隠していた僕だけの記憶に易々と触れるような言葉に、心を強く握られて。ただ、その場で鬼の首をとったような挙動を彼がせずに、呆れたような表情を浮かべただけで済ませたことに救われた。落ち着き払った様子で、迷子を見つけたような人間の素振りで。ウィドーは困惑する僕の胸倉をその片手で強く掴んで引き寄せ、静かに口を動かした。
「ワタクシ達の会話は、ワタクシ達だけにしか聞こえないようにした。なら、もう話せるだろう」
全部吐け、話はそれからだ。
僕を掴んだ手をそのままに、引っ張りながら歩いていくウィドーについていくのが精一杯で。ただ、ここに待ち構えていたのは暗雲どころかブラックホールのような、完全に何も見えない状況。
会合の前、もう一幕を送ることが決まった相手を前に。前世と言うものが、大きな枷になっていた。
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