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 一般人の姿は、もう一切見られない区域になっていた。ここだ、と静かに言葉を放ったエリーゼと、ようやく歩みを止める。少し前から見えていたシルエットこそ知っても、こうして目の前に来てみても全景が見えないのはそれほどまでに彼女の一族の人数の多さと、家名の大きさを知らしめている。

 邸宅、広く美しい格子状の門扉。可愛らしいアンティークなドアベルが端に付いた雰囲気とは反対に。そびえ立つ、という言葉がぴったりの巨大な屋敷を目にして顔面の筋肉が少しひきつりそうになった。下品な言い方になってしまうが、やはり金持ちの風格と言うのはあって得することばかりだろう。所有物の価値を見ることが持ち主のスケールを手っ取り早く知る手段でもある。つまり、これ程の財を平然と動かせることが一目で分かれば容易に敵には回したくないと言うことで。……敵に回しちゃったからな、とそこはもう覚悟している。いや、味方と敵で分けること自体が失礼だった。どちらにせよ、エリーゼを挟んで不器用にその手を引っ張りあいしている構図なのだから何とも言えまい。本拠地、と呼ぶべきここで、視界に入りきらない全景を見て息をするのも忘れそうだ。

 自分達に努力の痕が無かったなんて思わない、むしろ血のにじむような努力だけして泥臭い生き方をしてきたと思う。平民と言う枠だからなのだろうか、余計に自分のことがちっぽけに見えて。多分、身分違いの恋はそういう自己の卑下から萎縮してしまうことが多いのだろうと。そうはなるまい。身分が違おうが、僕には確かに自信がある。この世界に生きている誰よりも、僕は彼女を愛した時間が長いと言い切れるから。生まれる前から好きだったと、そんな使い古されたような言葉を正しい意味で本気で叫べる。そんな強みが、僕にはある。いいや、僕にしか無い。


「ここは俺が前に出るから、二人とも会ったら何話すかだけ、もう一回しっかり考えておけよな」


 兄さんがリース邸のベルを、躊躇無く鳴らす。透き通るような音が兄さんの手元で鳴った後、ほんの少し遅れて屋敷の向こう側からベルの音がかすかに聞こえてくる。どうやらここで鳴らせば内部に反響して伝わる仕組みらしい、来客が来たことを全体に伝える手間を省く為にどの部屋にもある程度の音量で反響するようになっているのだとエリーゼがひそひそと話してくれた。

 …当然緊張しているだろうに、そのベルを鳴らした手に一切の震えも無い兄さんは本当に大人だと思う。この会合で、権力を使ってでも引き合わせてくれた。今も三人の中で一番責任を取りにかかろうとしてくれているのだろう。絶対に、兄さんの行動を無駄にはしてはいけない。そう、僕は、誘拐犯と罵られる覚悟で。疑われているこの身がこの口で、彼女の花婿にしてくださいとほざく為に来た。あの場で彼女を救えたのは僕だけだった、あの断罪の場にいた親族は誰も彼女を救おうとはしなかった、ドロップアウトのこの先に来れた分岐点に、彼女に手を差し伸べた人間はどこにもいない。…それだけでも僕は怒りを感じていたのだから。気持ちをぶつけることは緊張せずに出来そうだ。精悍な顔つきに、少しは近付けた気がする。


 リリン、リリン、と鳴るドアベルに。これを聞いたあちら側は、どう思っているのだろうか。自分達と同じように、ある種の覚悟を決めているのか、それとも……。穏便に会合にあたる、と言う誓約は既に兄さんとの間に成立している筈。物騒なことだけは起こる筈は無いと、そうで無ければ困るのだ。どの道、ここまで来て兄弟二人を殺してからエリーゼを奪い去るような人間では無いと信じている。彼女が背負うその家の名が、そこまで愚かしいわけは無いと、心から信じている。

 一秒が五倍にも六倍にも感じ始めた頃、門扉の向こうに見える道から誰か一人分の人影が静々と近付いてくるのがようやく見えた。冷や汗が一気に噴出した、それは緊張からでは無い。――確実に、命の危機を、感じさせるもの……殺気、に近いようなものが。僕と兄さんを突き刺しながら着実に向かってきているような有様だった。


「かんげいなさい」


 その人物の出した声に反応して、門扉は重い音を出しながら左右にその姿を縮めていく。



「ようこそ、いらっしゃいましたおきゃくさま。――ゆめゆめ、わすれることのできないはなしあいに、なるといいですね」



 にこりと微笑む青年を前に、潜められた怒りを押し殺しているのはあちらも同じことだったのだと痛感する。黒一色で塗りつぶされた衣服と、灰色の肌。モーニングベールがその短い髪の動きにあわせて揺れる様は、死神が立ち去る切れ端のように見えて。えりーぜさま、と、大きな体格にしてはやけに幼い話し方で僕の隣にいる彼女を呼んだ。それは、僕と兄さんにかける声とは全く違う声色で。正直、恐怖も感じたが同時に彼女への愛情を持ち合わせていることもはっきりと確信した。

 エリーゼはと言えば、僕の背中を思い切り一叩きしながらその青年に言い放つ。


「久しいな、クロエ。こ奴との件では特に世話をかけた、……兄様に迷惑がかかることが、一番許せないのはオマエだっただろうに。今日まで顔を出せずにすまなかった」

「いいえ。いいえ。くろえはおまちしておりました、またえりーぜさまにあえてうれしいのです。おやすみがひつようなのは、だれだっておなじことですから」

「感謝する。……それで、そろそろその殺気を飛ばすのをやめろ。話し合いの前に全てを潰す気か?」

「いいえ、いいえ、ちょっとだけためしました。くろえのいまのきもちもわからないようなおろかものなら、えどがーさまのごめいれいもむししてこわしたでしょうが、」


 さいていらいんにはいることがわかりましたから、

 ……なんて、続けられて。地獄のような抜き打ち試験課題か何かかこれは。「お前を嫌う」「お前を壊す」そんな直情的な視線を向けられたことで、彼の言う通り僕はほんの少し試されたらしい。何をもってしてかろうじて合格とみなされたのか、確実に僕以上に超人的な域にいるだろうことが分かった今、それを予想することも難しいだろう。獲物を狙う鷹のような目から、威嚇の色がふ、と消えた時。やっとのことで僕は、目の前にいる青年の情報を頭の中にあるものと照らし合わせる余裕が生まれたのだ。


「あらためまして。えどがーさまのそばづかえをしております、くろえともうします。……さあ、こちらへ、このなかへ。みなさま、すでにおまちです」


 ――エドガー様を悩ます人間が大嫌いなリース家の使用人も、下手すれば貴方を諸悪の根源として潰しにくるかも、


 カナリア女王に以前言われた不穏な言葉が脳を過ぎる。間違いなく、ネームドでは無いにも関わらず脅威の棘として忠告されていた存在。その存在と、たった今僕は対峙して。そして、かろうじて、許されたのだ。”許された”、のだ。強者から弱者に与えられるからこそ、そういう言い方をする。ああ、紛れも無く、泣きそうな程に、強者だ。

 あの時、姿も名前も分からないその存在に怯えていたが、その存在とこうして目を見て向き合う距離に来るまで時間は経っていた。大丈夫だ、落ち着ける。す、と一呼吸すればすぐに冷静になれた。


「……ありがとうございます。エドガー様が会うと言う選択をして下さったこと、僕は絶対に忘れませんから」


 ノア・マヒーザと申します。クロエという青年に返事をかえし、ついてきてくださいと言う彼の歩く経路に従って、足を動かした。

 既に、待っている。それはつまり、彼女を取り戻したい人達が安息の日に集まってまで、僕と話をしようとしていると言うこと。それほどまでに、彼女を想ってくれていると言うこと。その事実も、決して忘れてはならない。

 久しぶりだ、と横で呟くエリーゼを目に。僕以外の誰かからも愛されている貴女が好きだと、嫉妬心無しで純粋に言えるようになっていた。

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