35
思わぬ場所での慈愛のヒロインとの遭遇より、早数時間。
久しぶりの王都にあるべく目的を持って来た途端洗礼を浴びてしまったようだが、意外にもその後はトラブルに見舞われることは無かった。初波が強すぎた後は、穏やかになるのを待つのみと言ったところなのだろう。正直実のところ、エリーゼの凛々しく颯然としたあの姿に脳内麻薬が溢れ出て一時的に何も恐れることすら出来なくなっているだけやもしれぬ、とも考える。自分は真面目に仕事をするんだ、という意識を強く持ち続けないと、時折手が少し止まりそうになるくらいに、彼女が与えてくれた言葉と態度はあまりにも、毒に似た薬だった。
彼女の名に、僕の苗字がつくだけでこんなにも嬉しい。喜ぶ、気が狂う、の境界線が入り混じるくらいに。地面に四肢を放り出してから叫びたい程の衝撃だ、…あの言葉達は、エリーゼを知るあのヒイロからしても驚きの意味を持つに違いない。彼女が、リースの名を言わずに、平民である僕の名を受け入れて告げるだけで。それはあまりに大きな変化に見えるからだ。ヒイロの周辺人物からは、エリーゼは変わること無い悪人だと思い込まれていることだろう。
それは、違う。大きく変化したのでは無い、彼女は変わらずに今も昔も自分の欲に正直に生きるだけ。その欲の範囲内に、周囲が入るか入らないかの違いだけでしか無い。彼女が言ったように、こちら側が選ばれる領域に達するかしないか、ただそれだけ。彼女の所有物に、虜に、なりたいと強く願った者だけがその範囲にようやく入れるだけなんじゃあないか。
僕は彼女の、強欲に正直に我を貫くところが好きだ。自分の好きなようにやった結果が世間一般から悪と見られるだけ、そうして作り続けた罪ごと彼女を愛しているのが僕、というだけ。悪と言う棘に阻まれて近寄ろうとしないのならばそれまで、僕だけはこの両手が幾ら血に塗れようと棘ごと抱きしめて共にいたいと誓うだろう。綺麗で美しい花ほど、毒と棘を有しているもの。それは、自分を本気で摘む手を試しているからだろうとも。
ああ、いけない。いけない。こんな、こんな欲に溺れてもいいものなのだろうか。初めからいつも駄目になるのは僕の方だったなあ。今すぐにでもこのとろけきった顔を曝して、この深海の双眸の中に、息遣いも聞こえるような距離で彼女を閉じ込めたいなんて思う自分を思い切り抑制する。男の子、とは。男、とは。こんなにも愛を求める生き物だったのかと、前世には無い感覚をより深く知った。
「アレは、オマエに無駄に似ている、」
理性が欲に打ち勝つ人間で良かったとつくづく思う、いつも通りの調子に戻ったふりをして商売を続け。ようやく品が捌け、ゆるりと話し込む余裕がまた出来た頃。…エリーゼが、僕にそんなことを言ってきた。指し示す存在はヒイロのことだと、直感で受け取る。少しまばらになりはしたものの、雑踏が残るここで。ずっと遠くに目をやっているエリーゼが、今度は僕だけを瞳に映す。その真紅の眼こそ、僕を絶対に外へ出さない檻のようだ。檻に自ら入りたがる男もいないが、この目には何時間でも拘束されていたいものだ。
「…きっと、その通りでしょう。だって、あの子は僕の知らない貴女を知っていて。……僕は、あの子の知らない貴女を知っている。そういうところも似ているのでは?」
「オマエは本当、悩まずともすらすら口説き文句が出てくるな」
「一生貴女を口説くことしか考えないからでしょうね」
「だろうと思った」
それは一生口説かれ続ける覚悟がおありということでよろしいでしょうか。エリーゼに、「僕は彼女のことしか考えない」と理解をして貰えることが、こんなにも幸福だなんて。心の中まで分かって見てほしいと、出来るものなら内面をかっさばいて大っぴらに見せてもいいと吹っ切ることが出来る男がこの世にどれくらいいるのだろうか。この心の中が全てエリーゼで満ちることは、全くの恥では無い。それをエリーゼに分かってもらうことは、生きる理由を認めて貰えたことに他ならない。
「アタクシを、どこまでも妄信する輩だ。オマエが女になったなら、間違い無くアレと見分けはつかんと…ふと思っただけさ」
「でも、僕は男ですね」
「そうだな。オマエが女だったなら、アタクシにここまで言葉を引き出させることも無かったろうよ」
「お褒め頂き嬉しいです。嬉しいですよ、死ぬほど。死ぬのにもってこいの日ですよ、それこそ、」
「残りの寿命全部アタクシに残して逝く気かい、負けず劣らず身勝手になったもんだ」
そりゃあ、愛する人にいつの間にか似てきているだけでしょう。呼吸する度に、酸素と一緒に歓喜を吸い込む。ヒイロしか知らない側面もあるけれど、いずれ彼女の全てを知れるように努力を重ねるのは僕の方だなんて、年下のヒロインにさえ対抗心を燃やしてしまう。
もしもの話、たとえ話、イフの時間軸があったとして、エリーゼがヒイロと結ばれる可能性もゼロでは無かったろう。ヒイロにとって限りなく特別な枠に、彼女は存在する。……他人を愛すると言うことは、異性だけを愛すると言うことでは無いのだから。それでも、地獄のような執着をエリーゼに見せる僕が今、この現実に立っている限り。エリーゼの幸せを優先しているふりをしながら、いずれは独占しようとすることに躊躇が無くなるだろう。彼女に善意で手を伸ばす者がこの先現れようとも、それら全てを振り払いどこかへ飛ばしてしまう男に、僕はなってしまうだろう。思考ばかりが物騒な花婿になっていく。
それでもいい、それがいい。その生き方で、僕も。強くなる我を持って、彼女の隣に永遠にい続けたい。それだけだ。
「さあ、そろそろ時間だな」
兄さんの明るい声が届く。軽くなった木箱に加え、周辺の荷物全て片付けて積んだ荷車を前に、いいよ任せて、と。その指先で魔方陣を刻もうとする兄さんを止め、予定通り戻すのでいいんだよね?と、非常に高ぶった感覚を伴いながら移動魔法の詠唱を行う。それは、行きのように幾重にも重ねたものでは無く…言の端を繋げた、短縮詠唱。魔方陣を刻む時間も勿体無いでしょう、なんて強気な発言の直後に試したそれは、確実な手ごたえがあった。光と共にしっかりと山の方までその姿を移動した荷車は、完全に消えていて。驚いた後に「気合十分過ぎるだろ」と爆笑した兄さんに、無さ過ぎるよりはいいでしょと笑って返した。
詠唱破棄とはいかないまでも、短縮詠唱も使い手の方にかかる負荷が大きいのだが。気分が高揚すると、本当に何でも出来そうだ。重ねた詠唱ありでもあんなに疲れていた行きだと言うのに、今は全く疲労を感じない。火事場の馬鹿力とでも言うのだろうか、まあその場の気分の高まりの勢いで行ってしまったあたり本物の馬鹿に僕は近いだろうけど。愛は、疲れを知覚しない程僕を愚かにさせる。それがはっきり分かると、とても悦ばしいじゃあないか。
「その我侭ぶり、きちんと見せ切ってくれるんだろうね?」
「そりゃあ。貴女を失うより怖いものなんてこの世にありませんからね」
世間話を続ける風体で、三人全員が自身の服に「変化」の目的を提示して触れた。あらかじめ服に施しておいた魔方陣に魔力を流し込む。換装魔法が発動し、全員の姿が平民の服から礼服を纏ったものへと変わっていった。
彼女を迎えに行ったあの時の僕と、その僕を受け入れてくれた時の彼女の姿。そして、仲人のように二人の間で背中を押してくれる兄さん。リース家のある王都の中心部へ向かうにはこれ以上無い程溶け込むに相応しい格好だ。
久方ぶりのピンヒールも難なく使いこなし、颯爽と音を立てて歩き始めるエリーゼを目に。兄さんと二人で笑い、彼女の両側を埋めるように横並びで歩く。
きれいなひと、と。誰かが呟く声。恐れられることしかなかったエリーゼを、美しいと称える音がしていた。
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