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 まるで、生き返った死人を見るような顔でもしてエリーゼを見るのだな。そんな風に、間近で彼らの表情を目にしつつもどこか俯瞰した視点でも僕は見ていた。ヒイロやスオウにとっては、知らないうちに断罪されていた憎き彼女が何故かこんな市場の端で平民として働いているのだから、今の僕よりも横殴りされたような衝撃が大きいだろう。

 その、トレードマークの分厚いビン底眼鏡の向こう側。目を大きく開いたまま声を失う様子のヒイロが簡単に見てとれた。荷物を平然と運んで彼らの目の前に立つ僕と、同じく平然と接客するエリーゼの姿は実に堂々すぎるところがあるだろう。ともすれば無謀とも言えるくらいの心の太さだ。

 しかし、……ヒロインという主人公性があっても。いざこんなに近くで見ると、本当に、普通の少女だ。もしも才能を見出だされなかったのならば、このままスオウと一緒に魔法界の事件にも巻き込まれることなく平穏に暮らせたろうにと思いつつも。この子の存在も、エリーゼの人格を形成するひとつであると考えるとふいに愛らしくなる。


「お客様、大丈夫ですか?何やら顔色がよろしくないですが」


 先手必勝、ここで騒がれる可能性はとても高い。市場を荒らす要因になりたいわけも無く、この場はあくまで売る者と買う者と言う立場をこちらが常に提示し続けよう。今もあたりに人が溢れかえる中、善の属性の二人が自分の感情に振り回されて暴れることも無いと確信しているからこそ、この場は会話で対処を行うべきだ。

 にこにこと誠実そうな笑みを浮かべつつ頭は急いで回転を始めている……ヒイロやスオウがカシタ農園の販売所に来たことは、一度として無い筈。ましてフレデリカ神父とも、この世界ではまだ姿を目にしたことも無い。となれば、やはり彼女達が言ったように、孤児院経由での依頼で今日初めて来たのだ。


「っ、な、んで!何でお前がここに!?」

「まあお客様、お静かに。彼女に言いたいこともありましょう、僕はほんの少しは内情を知る者ですから」


 でも、今ここで楽しく買い物している人達を無差別に巻き込みたくないでしょう?それを、貴方も望まない筈だ。

 ……スオウに向かい、小声でそう届けた言葉ははっきりと伝わったらしい。エリーゼに向けていた敵意がこちらにも分散するのが分かる。ぐ、と言葉に詰まる様子を見せつつもヒイロをその背に庇おうと一歩前に出て僕を睨み付けるように見上げてくる姿が、あまりにも健気で尊い。

 ああもう、やはり僕程度では子悪党を演じるのが精一杯だ。それでも今この場だけ、エリーゼ以上にヘイトを稼げるならこれくらいは煽りで言っておかないと。大変申し訳ない、スオウくん。君は、その子を守りたいだけ。……エリーゼに、大火傷を負わされた彼女を、今度こそ守りたいと、まっすぐに思ってくれているだけ。何の罪も無いと言うのに、苦しそうな表情をさせてしまったことに罪悪感が湧いて来る。

 でも、僕も。君と同じように、――エリーゼ・リースを、何に代えても必ず傍にいて守りたいと、そう思っているんだ。


「子犬……世話を焼き過ぎだ、少し下がれ。アタクシの姿がまた見えなくなるだろうが」

「失礼しました。でもですねえ、分かってても、……殺意を感じちゃあ流石に僕も黙ってられませんって」


 スオウの瞳は、エリーゼをエリーゼと認識したその時点で既に怒りに染まっていた。怒りの向かう先は、憎悪を纏いながら到達する殺意。それもその筈、実際ヒイロはエリーゼに殺されかけたのだから、目には目を歯には歯を…そして、殺意には殺意をもってしていつでも返せるような男だ。不器用だが、自分の足を引っ張るようなもしもの可能性は全て切り捨て、あえて複雑に考えずに誰にでも言うことを言えるのがスオウの良さ。作中、彼の何気ない一言がヒイロの核心をつくことも何度かあったのを思い出す。

 ただ。スオウの唯一の欠点は、ヒイロのこととなると僅かながら冷静さを失うことだ。その綻びを少し突き、こちらのペースに乗せればいい。ヒイロはこういった場面で積極的に前に出ることは……大怪我を負った時点では、まだ無い、筈。僕は、この場でスオウを御すればいい、ただそれだけのこと。テメェ!と、更に声を荒げたスオウを「まあまあ」と、彼より背丈も高い身体の僕が壁になり、悪気が無い顔をしたままその肩を力尽くで抑えて遮る。あえなくエリーゼに近寄ることが適わなかったスオウだが、正直こちらを押しのけようとする力が強すぎる。こちらの方が背丈も高く、山で様々培ってきた経験も長いと言うのに、年下の彼がどれだけ鍛錬を積んでいるのかと言うことが嫌でも分かった。

 兄さんがぎすぎすとした僕らの様子を見て戸惑いの表情を見せていて。大丈夫大丈夫と涼しい顔をしながら、心では「頼むからエリーゼ様に殴りかかろうとかは絶対にするなよ!するなよ!」状態のままであった。そんなことをされては最後、僕まで絶対彼に殴りかかる。断言する。エリーゼに手を出されたら、反射的に僕も手が出てしまうだろうことが、未来予知も真っ青な高確率で分かりきっているからだ。じゃれあっているように見せ付けながら場を誤魔化すのは大変だな、と心底思う。

 スオウを物理的にせき止める中、僕の背後でハッキリと。エリーゼが言葉を出すのを聞いた。


「よくもまあ、な、ヒイロ・ライラック」

「―――あ、…うそ、」


 ひゅ、と。ヒイロが息を飲み込む音だけがいやに大きく聞こえる。そいつに近づくな、と大声を出しかけたスオウの口を、悪いと思いつつ勢いで塞いだ。

 エリーゼ様の出される言葉の邪魔をするんじゃない、……ただ、大人しくさせようと出した言葉なのに。自分でも驚くくらいの冷たさを伴った声色に、スオウが少し驚いたように目を開いた。ぼそぼそ、と、その後、僕にも聞こえないくらいの小さな声でヒイロに言葉を投げかけたエリーゼが再び声を大きくして。


「まあ、そういうわけだ。今日のところはこの荷物を持ってとっとと帰りな、これ以上話せることも無い。いつも通り孤児院相手にイイコチャン面してりゃあいいさ」

「え、えりーぜさま、い、いまのは、」

「二度は言わん。…オマエの無駄に悪い諦めの無さを、自画自賛でもしていろ。その権利を今だけは、このエリーゼが与えよう」


 そうしてヒイロに向かい、その細く長い指を突きつけた。何を話したか知らないが、ヒイロが大きな衝撃を受けているのは分かる。そして、直後ヒイロの身体が膝から地面にくずおれていく有様も、見た。……力が抜けたからでは無い、恐怖を感じたからでは無い、よく見ればそれは。


 ――大きな動揺を隠しつつも、形を保とうとした、跪きの姿だった。

 

 その行動には思わず、スオウだけで無く僕も驚いた程だ。力んでいたスオウの身体がようやくするりと僕を押しのけて彼女に寄り添っていく。祈るように両手をあわせてエリーゼの前に跪くヒイロの姿は、そのまま宗教画の中に落とし込めそうな程、怖いくらいに真っ白な純粋さを感じさせた。


「ありがとう…、あ、ありがとう、ございま、す、……わたし、光栄です、エリーゼ様…!」

「ヒイロ、お前…」

「スオウ。行こう。…わたしの為に色々考えてくれるのは、とても嬉しい。だからこそ、今は何も聞かないで、…ね?お願い」


 またすぐにでも分かることだから、そう笑顔で告げたヒイロに。エリーゼが分かりやすく嫌そうな顔をしたのが、ちょっと子供らしくて可愛いと思ってしまった。やはり、ヒイロにしか引き出せないエリーゼの感情と言うのもあるのだ。ぶつくさ言いながらも、しょうがねえ、と諦めを見せたスオウに。こちらの緊張も少しは萎んだ気もする。


「…しゃあねぇ、今日のところは孤児院とこいつに免じて、見なかったことにしておいてやる、が。……エリーゼ、お前、あんなことやらかしておいて、平然と戻って来れるとは思うなよ」

「スオウ!」

「学園じゃもう、お前の味方なんざどこにもいない。戻る席も場所も、何もかもな。俺もそうだが、こいつを気にかけてる奴等は絶対に、お前の罪を許さない」

「なら、僕がその罪ごと愛します。その言葉にはこれで反論としましょうか」

「――あぁ?」

「言ったでしょう。彼女の罪ごと、僕は愛している」


 あまり、僕の花嫁を僕の前で悪く言わないで下さい。

 そう言ってやれば、二人して目玉が飛び出そうなくらいの仰天具合を見せてくれた。


「…は?え?……は、はなよ、め、?ア?正気か?エリーゼお前、そんな工作までして逃げのびたいってのか?」

「ハッ、脳が足らぬ奴め。それだからオマエはそこな小娘を何人もの男に簡単に寝盗られそうになっているではないか」

「ねとっ!??」


 ……そうだね、僕達、童貞仲間だったね、スオウくん……動揺して耳が赤くなったのを隠せていないよ、スオウくん…。きゅっと胸に染みるね、スオウくん。


「今のアタクシは、エリーゼ。”エリーゼ・マヒーザ”だ。もう一度、この響きを鼓膜に貼り付けて考えるといいさ」


 そして、エリーゼの紡いだ言葉に、今度一番驚いたのは僕、だった。鈴の音色のように心地よく、深い泥のように離れがたいその響きに。今の今まで、一番夢を見ていたその響きを、流れるように恵んでくれたこの瞬間を。僕が理解するのに最も時間がかかったのかもしれない。エリーゼ様、と。縋るように出した声は、永遠にも続くだろう喜びに酷似していた。


「ご覧、アタクシは、欲しい物以外に用は無い。興味も無い。そいつに関しても、そうしてやりたいと思ったからしてやっただけ。この子犬に関しても、同じようなもの」


 エリーゼ、


「アタクシの欲しい物に、花婿があったなら、と。考えることもオマエはしないのかい」


 嗚呼、嗚呼、なんと言うことだ、エリーゼ、


「アタクシはこれからも同じように、死ぬまで強欲で生き続ける。「戻りたい」なんて考えだけで動くような意志薄弱な女を、他人は「悪女」とは呼べまいよ。欲しいなら奪う、邪魔なら燃やす。アタクシに適応出来ない奴が勝手に消えていくだけさ。小僧、オマエはそれを根本から誤解している。適応出来る奴だけを、アタクシが選んでやっているのさ。――こいつみたいにねぇ」


 貴女はそうやってすぐ、僕の心を愛しさで燃やし尽くすのだから!

 間違いなく正解だと思えることを言おうか、世界は、僕の世界は、エリーゼを中心に回っている。回している。飼いならされた子犬の如く、彼女の隣ですぅっ、と頭の位置を下げて。条件反射だった。僕の顔を掬うように、その指で僕の顎をくすぐるエリーゼの姿は。誰も彼もが彼女により支配されるべきである、と、神が語ったかのようだった。


「そういうわけだ。空いている時間帯の世間話は、さぞや楽しかっただろう、ヒイロ・ライラック」

「――!」

「行け。これ以上の言葉は許さん、踏み込むことも許さん。オマエには、先程の言葉で十分すぎるほど伝わったろう」


 ヒイロの表情が、変化している。それは、ただ怯えるだけの少女でも。震えていただけの少女でも無い。ほんの少し、ほんの少しだけだけれども。……エリーゼに似た、凛々しさを、伴っていた。

 行こう。スオウをしっかりと促した彼女が、そこにいる。彼女の希望を優先するスオウも、僕達に複雑な視線を向けながらも、ただ、自分が守りたい存在の為だけに身の振り方を考えたのだろう。重量の枷を幾らか外された木箱達が、微塵の揺れも感じさせないまま宙に浮き、固まる。不満のぶつけ所が分からないまま、けれど部外者だろうと踏んだ兄さんに対してだけは、ふてくされたような声色で「ありがとうございました」とだけ言って背を向けていくあたり、本当に憎めない。

 彼は、自分の守りたいものだけ守れればそれでいい。その芯が、僕の心を強く打つ。


「……エリーゼちゃん、こっちでの知り合いだった?ワケアリの」

「失礼しました兄君、非常に面倒な腐れ縁のようなものです」


 まあ、家に戻る前のいい予行練習にはなりましたよ、なんて。淡々と呟くエリーゼに、思い切り心を乱された僕はもはや、何とも言えない物体と化してしまいそうで。


「エリーゼ様…責任、責任、取りますからね。取りますから、僕は絶対、」

「取りたくて仕方が無いんだろうが、オマエは」


 この一度だけでも、リースの名を名乗らず。彼女はマヒーザの名を、名乗った。僕の前で、ヒイロの前で。そして、彼女が彼女自身に対しても、名乗ったのだ。彼女が受け止めてくれた僕の重苦しい愛を、このように昇華させてくれた時点で……その覚悟の大きさが、どれほどのものか、理解させられた。

 荷物の受け渡しもあることからか、気を利かせていつの間にか会計所に「休止中」と書いていたらしい兄さんのメモ書きを剥がしたエリーゼは。さあ営業再開だ、と。僕の背中を、軽く蹴り上げる。これから先も、この光景を現実にしたいのならもっと強欲になれ、と。僕を励ましているかのようだった。

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