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 不思議と晴れやかで、爽快さも伴うような心地がした。引きずるような眠気も無く、纏わりつく倦怠感も無く。負担の全てが成りを潜めた分、体まで軽くなったような気までして来そうだ。不気味な程の静けさと、覚悟の上に座り込む穏やかさが同居した空気の中。あたたかい陽が、天使の輪を地面にいる僕達の頭髪に、光で描いていく。

 いつも通り、売り出しに出かける格好をしながら。いつも通り、荷車に商品を全て積み込んで。そして。


「子犬、心の準備は良いな?」

「先に言われちゃいますねえ、ほんと、ふふ」


 …最近、ようやく「いつも通り」になってくれた彼女の存在を隣に。今日僕達はひとつの変わり目を迎えに行く最中だ。王都の市場が開く朝の九時まであと一時間、最終確認を怠らず荷車の準備以外にも整える物を忘れないようにしていた。

 仕事中は作業着のままだが、その先の会合ではしっかりとした正装で無ければならない、当然ながら厳かになるだろう場での準備としては想定している。彼女を攫った際のあの一張羅、農家の次男坊にはいささか過ぎた素晴らしい出来の物。仮初の王子気取りを作り上げるには十分だ、少しの仕掛けを施した大切な衣装はまた今日お披露目となる。

 本当に、よくもまあ、無事にこの日を迎えたものだ。冷や汗が止まらず寝不足がたたったあの朝達も少しは報われるもの。とは言え、僕より聡明な大人達と僕より物事を動かせる兄さんがいたからこそ得られた温情だろう。ここから先は、僕が、僕自身の態度と言葉で示しに行かねばならない。エリーゼを攫った犯人として、リース家に泥を塗った平民として真摯な謝罪を。そして、……強欲で浅ましいことだと分かってはいるが。それでも、彼女を想って行動したこと。彼女の元々の婚約者などよりも、僕の方がエリーゼの幸福の為に動ける男であることも発言せねばならない。僕は、彼女を花嫁にしたいという、どうしようもなく逃れられない愛に囚われた人間だから。全くどうして、会合どころか弾劾裁判を真正面から受けに行く気分である。

 王都市場へ出店する、今日。誘拐犯農園でかく語りきと言ったところだ。


「まあまあ二人とも、肩の力は今は抜いておいて。力入れるとこは入れる、抜ける時は抜く、そうでないと神経磨り減りまくるぞ~」


 兄さんもいつも通り、からからと笑っている。いざとなったら俺がなんとかするから、権力で、と…そんな軽口までたたいてくれるのだから。いつもいつも世話になりすぎて申し訳無い、彼女を攫った時点で確実に兄さんを巻き込んでしまうことを自覚していても。いざその件で謝罪する頃になっても、兄さんはいつも僕の恋路を応援してくれていた。それこそ、僕がはじめて兄さんに「前世がある」ことを語った時から、ずっと。お前のたったひとつの強い我侭だからと、ここまで協力してくれた。

 だから。彼女の為にも、兄さんの為にも、ひとつの変わり目の今日は僕が一番頑張らないと。そう強く感じるのだ。


「ま、俺だって緊張してるとこあるししょうがないけどな!でも商売が終わるまではきっちり商売人の顔を作っておいてくれよ、お二人さん!俺達は、カシタの物を欲しがってくれてる人の為に市場に出てるんだからさ」

「勿論だよ、兄さん」

「無論、公私は分けます」

「はっはっは、しっかりした弟夫婦で安心するよ」


 間髪入れずに即答した僕達を前に、その手に書類の束を滑り込ませた封筒を肌身離さず持って。それじゃあ準備を頼む、と。兄さん自身が真面目に商売をする表情になってからは僕もきりりと体と心の背筋をしっかりと伸ばせた気がする。目を瞑り、深呼吸を三度。脳に浮かぶ、僕にだけ詠うことを許された言葉を吸い込んでいく。


「なんせ王都ですからね、……詠唱五倍の長さで負担軽減します、少々お待ちをエリーゼ様!」


 魔力の放出に伴い、途切れることの無い呪文を、普段より長く。王都はただでさえ遠い、空間から空間へ移動出来る珍しい種類の魔法とは言っても使い手の僕がポンコツである以上、相当の努力が必要なのは察して貰えると思う。

 そも、魔法の詠唱が何故必要であるのかと言うのは、自分の魔力や体力の温存の為でもあるのだ。ここ最近で王都とカシタ農園の間を動いたのは、やはり彼女を攫い出した時だけ。鮮明に思い出せる部分に、高価な魔力補填剤の乱用と幾重にも用意した魔方陣があったのは当然のこと。地球での話、創作世界での呪文詠唱は散々ダサイだの何だのと言われたこともあるが、魔法を本当に使える現実ではそんな頭の軽い感想を出すことが許されるわけは無い。むしろ、侮蔑の一言である。

 個々の魔法は、己にのみ与えられた祝福である。自分だけにしか許されない詠唱は、奇跡のようにいつだって僕達の中身に刻まれる。それは魔法を具現化する為にほぼ必須のプロセスと言えよう。魔力の調節と、呪文の詠唱。この二つの配分をきちんと行うことで、使用者にとっての負担を抑えることも出来るのだ。

 僕の場合、体力や腕力はあっても魔力がすぐ枯渇してしまう。まともに魔法を使えるようになったのが15の頃からなのだから、経験の浅さも相まって燃費があまりに悪い体質で。それを補う為、あの時は補填剤を使って詠唱も短めで移動魔法を乱発するなどと言う自殺行為をしていた。今考えると、本当に無茶しかしていなかったなあと思う。つまり、補填剤も無い今、ニアマウ村や近隣の町よりも遥かに遠い王都へ出向く為には、四十行近くはある詠唱を繰り返し行い、放出する魔力を最小限に抑える必要があるのだ。

 詠唱破棄、なんてのもよく聞く単語ではあるが。この世界じゃそんなことは魔術に精通した者程度しか手を出さない。プロセスである詠唱を無理矢理破棄して魔力のみで魔法を発現すると言うのは、詠唱の手間を省きすぐに魔法を使えるというメリットこそあれどデメリットが相当大きく……唱えなかった分、魔力や体力消費が凄まじいのだ。相当の実力の持ち主で無いと成し得ないことだ。ノーモーションで魔法を発動する必要性があるのは、市民の安全を守る為に働く魔法警吏や、王と女王を護衛する親衛隊くらいにしか義務は無い。詠唱破棄は、そもそも一般の人間にさえ扱うことも難しい専門的な部類なのだ。


「――空の祈りは私を照らす、風の導き、陽の施し、世界の隙間を縫わせ給え、私の足に祝福を、私の頭上に円環を――」


 僕は、凡人だから。ただ、心から祈るように。感謝を捧げるように、僕の言葉はそう出来ている。この背を押して、僕の体に翼をつけて、この世界のどこへでも行ける自由を僕は手にしていると、そう思わせておくれと。この魔法を使う為に、いいや、使わせてもらっていることに礼儀を尽くす。何の才能も無かった僕に、たった一つ頂いたこの糸を少しずつ太くするまで時間もかかった。

 だから、僕に出来ることは、一生懸命する。単純に語れはしないからこそ、努める。努め続ける。それが今の僕を作ってくれる全てに対する姿勢。


「……準備完了、目標、いつも通り直で行きます」

「おう!じゃ、行くとするか」


 頷く二人を目に、完璧に詠唱を終えた僕は魔法を発動させる。三人と荷車を包んだ光が一瞬眩く広く輝き、そして、すぐにその明るさをおさめていく。山神の防衛本能がすぐさま動き出し、僕達の留守を頑強に守護する態勢に移ったのを確認した瞬きの後、景色は既に変わっていた。


 × × ×


 教会の出入り口。今日も変わらず立つ、二つの人影。少しずつ高くなっていく太陽の下で、いつも通りに話しているのが見える。


「ごめんね、スオウ。今日、予定あったでしょう?」

「そんなんよりお前を一人で行かせることが怖いっつの。俺の予定気にしてる暇あるなら自分の体調心配しろ」

「あはは、ほんと、ごめんね」


 今日はカシタ農園さんが来る日だから、後で間に合うように行かないとね。そう微笑んでいるヒイロの顔に、隈は無い。学園の授業をすっぽかして昼寝をしてしまった、あの二日前から妙に記憶が曖昧で。少しは調子が良くなったものの、そんな様子を見せたヒイロにスオウの心配はより拍車をかけていた。


「フレデリカ神父とわたし、あそこの花蜜とミルクが大好きなの。売り切れないうちにいっぱい買いたいな」


 ただ、「二日後」「いつも通り」過ごしていればいい。そんな、予言めいた誰かの声を聞いていて。それにすんなりと従うように、気を張っていたばかりの最近、ようやく彼女は肩から力を抜いていた。荷物は全部俺が持つからな、と言うスオウの強めの注意に。ヒイロは苦笑しながらありがとうと返す。

 じゃあ、十時になったら一緒に出ましょうか、と。教会のお掃除もあと少しで終わるから、…そう言うヒイロの春の日差しのようにやわらかい微笑みを前に、スオウはようやく眉間の皺を作ることをやめていた。

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