4錠
30
彼女の身体が、僕の前に在った。正確には、このままひとつになってしまいそうなくらいの近さにいて。関節に砂鉄でも入り込んだのかと思うくらい、自分の身体が緊張していた。どうしました、とそのまま抱きとめた姿が僕に囁く。
ここにいたい。逃げ続けたまま、ずっとここで暮らしたい。
そんな言葉が、彼女の唇をついて出た時。嬉しいと思いながらも、ここが現実では無いと悟った。これだけはっきりとわかる明晰夢なんて久しぶりだろう、ここは夢の中だと断言することは滅多に無いと言うのに。こうなれば、あと数分で目が醒めてしまう予想がついてしまう。
「大丈夫ですよ」
今ここにいるのは、威勢を外された彼女だ。悪女と言うフィルターを、全て取り払われた彼女。確かに、吐きたい程の弱音を幾つも抱えている彼女の、別の側面だ。逃げたい、なんて彼女がはっきりと言うわけが無いことは知っている。彼女の「抗う力」の強さを以前に見た事がある自分は知っている。…だからこそ、思う。今ここにいる彼女は別人なんかじゃ無い。誰にも言えなかった抱えきれない不安を、弱音を、自分以外にも見せてくれる彼女自身だ。
大丈夫。そう言って、きつく抱きしめた。地面に穴が開いていくような、夢の終わりに吸い込まれる浮遊感が僕の足元を襲う。大丈夫、そう言って僕は、彼女を。僕の胸に顔を埋めてうつむいているエリーゼを離しはしなかった。
こうやって、ずっと、僕はお傍にいますから。逃げたくても、逃げない選択をいつも選ぶ貴女の傍に。前を向き続ける貴女に降りかかる火の粉を遮る盾に、貴女に牙剥く輩を突き刺す矛に、貴女を全てから遮断する程の壁に、いつだって僕はなりたいから。一緒に、乗り越えていきましょう。貴女は愛されている、それをもっと知るべきだ。見返りなんて求めない。貴女が少しでも、その背に負ったものを下ろせる道を僕と一緒に探しましょう。そうして、泣こう。絶対に、嬉し涙にして、みせますから。
夢の終焉に落ちていく。彼女の名前を呼びながら。絶対に、悪い結果にはさせないと…改めて誓わせるにはあまりにも、胸に刺さる夢だった。
ハッと目を開ければ、見慣れた木目が視界の中心に来た。――王都へ繰り出すまで、あと、一日の朝。目覚め後の重苦しい息遣いがすぐ楽になったのは、本能的に理解したからだろう。今なら、…彼女なら、動揺することも無く受け止めてくれるだろうと。完全に守れる、なんて自惚れじゃあない。今僕の胸にあるのは、自信だった。何が何でも、彼女を守る。守りきる。守れなかったら最後、この命捨てても惜しくは無い。
晴れた視界の中、ようやく動いた僕の手は。夢の中に出てきた彼女の手を導くように、無意識にその虚空へと伸ばされていた。
× × ×
「わかりやすいからな、オマエ」
「おや、やはり子犬の考えはお見通しされていましたか」
明日、王都へ仕事へ行きます。
畑仕事で土に汚れた昼中、突発的にそう言い放った僕は。今日の日まで伝えなかった出店のことを、家族とコンタクトを秘密裏に取っていたことも、重ねて謝罪した。エリーゼは、それに対して間髪いれずに「そうか」とだけ答えて。
「オマエは本当に、アタクシのことだけしか考えない」
そう言って、微笑んでいた。曰く、どうせ彼女のことを考えてわざと知らせなかったんだろうということも、秒で本人に分かられてしまった。全くその通りではあるのだが、沈黙されてしまうかもしれないと緊張感を持っていた僕が逆に驚かされることになっていて。この世界での僕達は、互いに顔も見たことが無い、出会ったことも、接点も何も無い。そうであるにも関わらず、ずっと前から貴女を愛していたという言葉を、世迷言では無くそのまま受け止めてくれた。どこまでも不自然で、歪で、狂気的な愛のかたちに近いと言うのに、それでも受け止めてくれたエリーゼの度量があったからこそ、僕は信頼を与えられたのだろう。
そうですよと、僕も平然とした態度で答えを投げる。いつだって、貴女にとってはどうなるかという可能性ばかりしか考えていませんとも。僕の重たい愛を確信してくれたからこそ出ただろう言葉に、飛び跳ねたいくらいの歓喜を身に纏ってしまう。
「正直気が気じゃ無かっただろう?アタクシに、あそこへもう一度行きますと言うのは」
「そこまで読まれると僕の顔も形無しですよ…」
「わかりやすいんだ。手に取るように分かる。……だから、そこまで悩まずともいい。オマエは、ここにアタクシといる時はいつだって、アタクシの影響を考えていた。今更の話だろう」
ここまでの大馬鹿野郎は初めてだからと、彼女は笑い飛ばす。オマエのうっとうしい程の愛は誰より本物だと、これ以上無いくらいの賛辞を貰い、まだ夢の続きなんじゃなかろうかと一瞬思考が停止しそうになって。
求めすぎることこそが自分の才能だと、彼女自身が自負していた。だからこそ、求める前に山ほど動いた僕のような人間は、初めてだと。正直今でも、僕の心には葛藤と罪悪感がふとした瞬間に押し寄せてくる。これは愛の押し付けだ、そう思う僕自身が少なからずいることを大いに自覚しているからである。
この愛の矛先が、もしもエリーゼ相手では無かったら。認められないかもしれない、拒否されるかもしれない、耐えられないかもしれない、そんなことばかり思い浮かぶ。一番最初こそ、僕もエリーゼに拒絶されると思っていた。自惚れたくない、救いたい、でもこの手をとってくれなかったとしたら、なんて。あの時、僕の手を取って逃げることを選んでくれたからこそ、僕にも自信が生まれたのだ。エリーゼには、この愛を受け止めてもらえる。エリーゼ自身に、「エリーゼを本気で愛している男がいる」と自覚して貰える程にまで。
「明日の予定は?」
「王都の市場への出店後、……リース邸宅にて、会合です。僕と貴女と兄さんで。貴女の一番上のお兄様が、特に心配なさっているようです」
「…そうか。あの、兄様が」
「………怖い、ですか?」
「今ここにいる女を誰だと思っている?全てを罪とも思わない強欲な悪女さ、恐れるなんて久しくしたことが無い、」
ただ、少しだけ、嬉しくはある。そしてそんな自分を複雑に思うと、エリーゼは土の香りを濃くしながらも手元を作業に戻していって。
「今更になりますが。戻りたく、思いますか」
「本当に今更だな。戻ったらオマエ泣くだろ」
「泣きますね」
「やはりな」
分かられている。恥だと思われる粋の、僕の心の底までも。何を引き換えにしても僕はエリーゼを第一にするだろうことを、把握されている。愛を理解されることが、こんなにも幸福だ。曝け出すことは、こんなにも福音を僕にもたらしてくれるのだ。どろどろとした感情を交えた愛までも、それを掬い取っても何とも無い顔をしてくれる彼女に、僕の方こそ救われ続けてきた。愛を知るとは、恋をするとは、こんなにも日常を変える。この愛こそが在って当然、と。日常に落とし込む為ならば、僕はどんな努力も惜しまない。
「厚顔無恥ですけど、…僕は、明日。僕を認めてもらうつもりで、王都へ行きますから」
「言うと思った」
「エリーゼ様の好きなようにしてもらいたいとは思います、けれど。……僕も、男ですから。強欲で、我侭で、理不尽な程、貴女を愛していることを、分かってもらえたらと」
「そうか」
「……エリーゼ様、」
――僕、貴女を、前世から愛していたって言ったら、信じてくれますか?
存外、どもらずに言えるものだなと。自然に口から出た言葉に、きっと今日がひとつの変わり目だろうと完全に悟った心が言える勇気を作ってくれたのだろう。にこり、いつもの優男な笑顔を浮かべて。悪戯をする子供のように問いかけていた。エリーゼは、そんな突拍子も無い僕の言葉に「面白い話だな」と添えて。
「どうせその続きは、ここに戻ってきてから話すつもりなんだろう?」
短い間にどこまでも、アタクシに似合う男になりやがって。僕の心を見透かす宝石のような瞳が、優しい淡さを見せていた。ええその通りですよ、と。豪胆な野郎め、とからかう彼女の言葉に僕は肯定の言葉だけを返していた。
王都での会合まで、あと、一日。明日、例え僕達の周囲に変化があったとしても。二人だけは絶対に変わらない、そんなことを思わせてくれる緩やかな時間が、今の僕達を支えてくれている。
金糸雀が、また歌いだすのが見えていた。
× × ×
「売り飛ばしてくれていいと言ったのに」
律儀な奴、
燃えるような紅蓮の双眸が見るのは、その両手に抱えた物。いつの間に手入れを続けていたのか、あの日あの手を取ってから一度も身に着けていなかった赤いドレスと赤いヒール。彼女の個性を最大限まで引き上げ、際立たせるには相応しいもの。
渡されはしましたが、僕にはそんなこと初めから出来なかったと今の貴女なら分かるでしょう。そんなことを言って、律儀に寝る前に渡しに来た人間の顔を思い出して余計に笑いそうだ。分かりやすい、本当に、あいつは分かりやすいのだ。自分をここに置いておきたい癖に、望まれたら離れてもいいとも思っている。それがこのエリーゼの願いならと、引く覚悟をしながらもこの存在を絶対に諦めないという矛盾を抱えながら。それすら理解しながら、愛するのだ。愛、してくれるのだ。
束縛をしたくない程愛おしい、と。冗談では無く、本気で言える男がこの世にどれほどいるだろうか。難儀な男だ、けれど。それほど難儀だからこそ、いつだって結論はひとつに帰結する。エリーゼのために、と言う終点へ。
全く。手こずっているのは自分だけ、と。どうせあの男はそう思っているんだろう。時折変なところで自信がなくなるのも、凸凹な愛嬌だ。話の続きをしたいだろうあいつの為に、ここに残ってやってもいいと思える程。この悪女に興味を持たせたと言うのに。
貴族の女の顔を、思い出さねばな。そう不適に笑うこの表情に、既に以前と変わらぬ凛々しさがあることを鏡が教えてくれている。
明日は、最高のお披露目の場だ。そう思わせる程の余裕が、彼女をまたひとつ、美しく際立たせていた。
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