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 木製のバケツに入り、前足を外側に出しながら時折「めぇー」と小さく高い声で鳴く生き物。大人の羊と比べると小さな子羊が、体重測定の為に入れられたそこにすっぽりとはまりながら暴れることも無くこの作業が終わるのを待っていて。この寒い冬を越すにも欠かせないふわふわの毛を纏いながら、時々きょろきょろと物珍しい風景に首を揺らす。

 家畜舎の近くにあるのは広めに取られた工具置き場、大きな木陰と屋根に覆われたここに今用意されているのは体重測定の為に使われる設備である。ところどころが錆付いてはいるが、まだまだ壊れることを知らない現役の大きな体重計とは別に、家畜の子供用として小さな物も準備していて。よしよし、と宥めつつバケツを持ち上げた。針で数値を示すそれは、前回の測定時と比べて順調に育っている証を見せる。


「おとなしいな」

「皆、僕達には慣れてるんですよ」


 しゃがみながら近くでじっとその様子を見ていたエリーゼが、測り終わってもまだバケツから出てこない子羊にふ、と微笑んで。彼女は意外と動物も好きだと言う一面を知った僕も、そんなエリーゼを見て可愛いと思う。次は体長計測の為に優しくバケツから出された子羊は、巻尺を手に取る僕なんて気にもしない様子で、この畜舎に増えた見慣れない顔の真っ赤なお嬢様を覚えるのに忙しいようだった。


 …エリーゼに今のところは内緒で、彼女の家族との接触を試みる手紙を兄さんと共に考え送ったのがもう三日も前になる。

 あの夜に慌しく打ち合わせをした直後の早朝、兄さんの権限を強めに出した封筒で積極的な姿勢で攻めてみたところ。その日の昼にはもう返答が来たことに驚いていた。基本的にはこちらと同じで、あまりことを大きくしたくないこと、何よりエリーゼ自身の精神的な影響を考えた上でこちら側の提案を飲むことを承諾した旨の文面が、これまた見たことの無いような厳かな装丁の封筒で返されてきた時は息が止まるかと思ったものだ。

 真人間であることを証明するような文体の中に、ちょくちょく僕に対する殺意に似たような気持ちを受け取れたのは僕の気のせいなのかそれとも…。とにもかくにも、エリーゼのことを考えて、と入っていた言葉に安堵すると共に僅かな嫉妬心ももやもやと霧のように発生していた。彼女を危険にさらしたくないあまりか、返信が来たことに喜びもしたが最初こそ、警戒を怠らずにいるしか無かった。安心という油断を与えておいて、いきなり誰かを差し向けてくるんじゃないか、何かしてくるんじゃないか、そんな感情の鎧を纏ってずっと気を張ってはいたのだが。意外や意外、僕が思うような危ない目と言うのは全く起こらなかった。そうなると、やっとのことで僕の肩の力も抜けてくる。純粋にこうやって、彼女と昼夜農園で過ごすことを、心から嬉しいと思える余裕がまた帰って来たのだ。

 一度安心を覚えると、時の流れがこれでもかと言う程早く感じる。手紙を送った直後、生きた心地がしなかった時に比べれば、あっと言う間に何十時間も過ぎてしまって。


「測定はこれで終わりか?全部子供や赤ちゃんのようだが」

「大人の家畜の方も、一定の期間あけての測定はしてますね。子供はしっかり栄養が身について育ってるかのチェックが欠かせないので、短めのスパンで行ってるんです。最近産まれた子とかは特に」

「今日はちっこいのばかりの日ってことか…まさか、ひよこが産まれた時も、一匹一匹やるのかい?地味に大変だねぇ」

「あははは、飼料が口にあわなかったら大変ですしね。おいしい卵も産めないし、おいしいお肉にもなりません。…命を頂くことが多いですから、最期まで丁寧に僕は付き合いたいなって思うんですよ」


 めぇえ、めぇ、高い声で鳴く羊がエリーゼに近づいて行き、ガーデンエプロンに顔を擦り付けた。こら、と言いつつ子羊の頭を撫でるエリーゼからは、安らいでいる雰囲気を感じて。少し抱っこしてみます?なんて聞いた僕に、抱く、と即答された。何だか僕に向かって言われたみたいで、これが役得かと。


「案外重いんだな、オマエ」

「めぇえー」


 彼女の腕の中、子羊が万歳をしている。僕ですらまだその腕の中に入れたことが無いのだからしっかり堪能しておきなさいよと、僕は優しい視線だけ投げていた。


 今日はエリーゼがこのカシタ農園に来てから、丁度七日目。そして王都に出向き、彼女の親族と顔を突き合わせるまであと六日となる狭間の日。

 当日は彼女だけをこの農園に置いて行くことは出来ないだろう、エリーゼ自身が名前を挙げた人間から即返信があった時点で、現当主であるエドガー・リースも彼女を本気で心配していることは判明した。何より、孤独だと思い込んでいる彼女の諦めを和らげるには一番いい展開でもある。ただ、王都とともなると絶対に出てくるのが、悪女であるエリーゼを疎ましく思っている学園の人間だろう。市場に学園の関係者が出入りしている姿はあまり見かけたことが無いが、私服で来られたらもう見分けはつかない。会合の予定時刻としては夕方、市場での商売が終わった後。それまではあまりエリーゼを目立たせないように振舞わなければならない。細かく言い出せばきりが無いが、全てに気を配る男になれと言うことである。

 僕も僕で、絶対に感情的にはならないようにしなければと今から自分を抑える心持ちだ。彼女の親族を納得させ、なおかつ、彼女を愛する心が偽りの物では無いと証明しなければならない。愛する人を、僕は花嫁に貰いたい。つまり六日後は、いわゆる「お兄様僕に彼女との結婚に関するお許しを」な重大場面でもあるのだ。アホみたいなことを言ったり感情的になれば、僕からエリーゼを奪い返す口実を相手方にいくらでも作ってしまう。少しの嫉妬や複雑な心もあるが、誘拐行為すら上回る程の誠意を見せる対応が求められるのだ。…何だか、地球での仕事の方がむしろ楽だったのでは?と疑いたくなるようなプレッシャーだが、これは愛の試練だ。全身全霊で一生懸命、彼女の幸せを共に作る者として、花婿になる。まあ、そもそも誘拐してから挨拶に行くと言う時点で凄まじく礼儀を欠いた行為なのも自覚はありますけれども。あの時は誰も彼女を守る人間が、いなかったのだから。自分の行いを正当化するとまではいかないが、考えがあってのことだったと主張する機会を貰えたのはありがたい。


(ああ、愛らしいなあ、)


 愛しい。本当に、この世の何を捨ててもいいくらい、彼女のことを求める気持ちは変わらない。死ぬまで、死んでも、きっと募らせて拗らせる想いだろう。

 王都の方では、彼女の悪の側面しか知らない人間ばかり。こんなに素朴な表情を見せて、普通の女の子みたいな振る舞いをする姿を知らない人間ばかりに決まっている。誰からも認められない、否定された悪である彼女。洒落ではすまない行いをしたことなど、僕にはとうに分かっている。お前はその女がどれだけ悪いか知らないのだと例え誰かがほざいても、僕は絶対こう返す。その悪ごと、僕は彼女を愛していると。彼女にとっては罰かと思われるくらい、僕の愛ははたから見れば異常で、重い。他の人間が許せない行為を働いた彼女を、それでも僕は愛する覚悟があるのだから。

 この先、どうあっても向き合うことになるだろうことは、彼女が起こしたたったひとつの事件。…彼女が学園から追われることになった理由であり、僕も目を背けずに理解していることだ。「慈愛のマトゥエルサート」のヒロインであるヒイロ・ライラックに対して行ったある行動が、彼女のドロップエンドを確定させたものであるから。


 彼女は、ヒロインを殺しかけた悪女だ。


 メインストーリーやイベントストーリーでも大きな悪役に狙われたり、小物に誘拐されかけたりと。ヒロイン枠であるからこそ大変な目にあうことが多いヒイロが、唯一。極身近な範囲での敵として、最初に対峙することになるのがエリーゼだった。ストーリー面では、ユーザー側がヒイロに感情移入出来るよう、どう見ても悪役というインパクトがほしかったらしい。心優しく臆病なヒイロとは正反対のキャラにした上で、他の乙女ゲームでもあまり無いだろう展開を入れよう……そんな秘話のあれこれが実現され、ストーリー中盤のライバルポジションとしては異様に気合が入れられた悪女となったのだ。ビジュアル面でも、話し方も斬新な方向を狙い、扱い注意の危険な香りも漂わせる。そのキャラ性を大事にして作られた彼女は、ドロップアウトする前にヒイロの命を脅かすかたちでの障害として立ちふさがり。そして、慈愛を冠するヒイロの心に「どうしても相容れない人間はいる」という教訓を教える立場として去っていった。

 ヒイロ・ライラックは、エリーゼが一番得意とする炎の魔法で大怪我をして。彼女が療養をしている最中に、あの断罪の場は設けられた。アタクシを罰せられるのはヒイロだけだと豪語する彼女は、去り際さえも凛々しく。そして、多くの謎を残したまま消えていって。アプリの上では、気に食わなかったから、という理由でヒイロの敵にはなっていたものの。僕が住むここは、とうにゲームの世界から剥離したパラレルワールドだ。ヒロインを殺しかけたことが事実であっても、その詳しい理由や内情は明かされていない。

 …エリーゼがここに来てからと言うもの、魔法を使う姿は見かけないままだ。意図的に使わないようにしているのか、もしくは彼女との一件で思うことがあるのか。ともあれ、そこに至るまでの理由も、時間がかかっても知りたい。エリーゼが現実で行ったことを受け止め、なおかつその理由まで全て知りたいと思う人間が、僕以外に果たしているのだろうか。彼女を愛するからと言って、彼女の何でもかんでもを肯定することは彼女の為にはならない。…愛しているから全てに頷くのでは無く、全てを知った上でそれでも愛したいから、僕は彼女が何を思いどう行動して来たかを吸収したいし、彼女を幸せにしたく思うのだ。熾烈なまでに正直な彼女の生き方は、僕の弱音でさえ蒸発させていく。何を知っても、僕の愛は揺らがない、それは確定事項。ただ外側を見ただけの人間とは、一緒にされたくない。


「では、今日はこのまま畜舎の掃除に移るとしますか」

「ああ。…皆、親子で住んでいるのだから、綺麗にしてあげないとな」


 ほら、今だって。一秒ごとに、新たな色を見せる彼女が、ここにいる。だから、六日後の彼女の輝きもまた増すに決まっている。


 ――神様、僕は、彼女とここで暮らしたいんです。永遠に!


 マヒーザ夫妻と呼ばれる日を夢見て、僕はこの先の全ての出来事に臨むだろう。さあ、張り切らなくては。そんな僕を見守るかのように、木の枝に止まる金糸雀が鳴いて歌う。祝いの歌ならいつでもどうぞ、そんな強気な姿勢で僕は王都の方角に視線を投げて。今日も彼女と過ごす時間を心行くまで堪能するのであった。

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