26
時はほんの少しだけ、遡る。
リース家にマヒーザよりの知らせが届いた朝。丁度その頃、同じように新しい局面を連れてきた朝を迎える者がいた。
× × ×
薬草のつんと来るような香りが、やけに染み付いている気がする。部屋ににおいが移ってしまったのだろうか。
質素な一室にたたずむ少女は、瓶底のように分厚い眼鏡をかけながら鏡の前で最低限身だしなみを整えることにした。……少し前に大火傷を負った腕にも顔にも、その痕跡はひとつ足りとも残ってはいない。世話になった癒術師の腕が特に良かったと言うのもあるだろう、少しだけ重く感じていた体も、起きてから一時間も経てば動かし方をいつも通りに思い出すものだ。
「二週間ぶりかあ」
灰色の帽子を頭に、学園支給の短いローブを簡単に羽織る。準備中にふと宙に落とした言葉は、少しの懐かしむ様子を表し。けれど反対に、複雑な心境を表すような不穏の響きも香らせていて。自分がいない間の学園がどうなっているのかの状況が全くもって分からないと言うことも、彼女の心に不安を産んでいた。
絶対安静にしてろとお節介な幼馴染みに毎朝見舞われては、安定するまで家の外に出るなと厳しく言われて。ほぼ完治した今、これ以上学園を休むのも憚られると思い復帰を決意して鏡の前に立っている。どこも痛くない、どこも熱くない、痛覚も刺激されていない今の状態に安心して…この身体に刻みつけられた痛みの熱量の恐ろしさを頭に浮かべた。無事だからこそ覚えているあの辛さを、それを面と向かってぶつけてくれたあの先輩と、自分はこれからも向き合わなければならないと思うのだ。
緋色。
それは、深く濃い赤の色。彼女自身の名前そのものになった、彼女だけの色。そして、…ライバルとも呼ぶべき人と対等な色。
「ヒイロさん、ご準備は出来ましたか。スオウさんがお迎えに来てくれていますよ」
思考を向こうへ飛ばしていると、それを現実に連れ戻すかのようにこの部屋に向かって声が届いた。言葉の全てを綿でくるんだかのように優しい音をさせるのは、彼女をこの家……教会に引き取ってくれた恩人の物だ。
もうそんなに時間が経ったのかと、慌てて時計を確認して持ち物と共に部屋を出る。
「あ、はい!…行ってきます、フレデリカ神父!」
「いってらっしゃい…お気をつけて。もう、事故は起こさないように」
「あ、あはは……ごめんなさい、とても気をつけて帰ってきます!」
――彼女の名前は、ヒイロ・ライラック。孤児院生まれの平民だ。
それは二週間前、リドミナ学園で起きた”とある事故”により大火傷を負った少女の姿。
教会の居住スペースから慌てて飛び出したその姿が、正面入り口で突っ立っていた少年の背中に思い切りぶつかるのが見える。一目見て体格が良いことが分かる、勢いで飛び出してしまったヒイロに後ろからぶつかられてもその体幹が全く揺らいでいなかった。すぐに振り返り、彼女の肩を支える様子は手慣れたもので……流石は、幼馴染としての長い付き合いを経験しているだけのことはある。彼女以上に慌てた雰囲気で叱るような声が出されていた。
「バッカ!!バカ野郎!ヒイロお前!病み上がりで前見ないで勢いで走ってくるやつがあるか!?」
「す、スオウ、おはよう、ごめん…慌てちゃった」
「こんな時まで張り切り見せなくていいっつの。今ので傷口開いてないだろうな?」
「大丈夫。…ありがとう、スオウ」
水晶が埋め込まれ、鍵の形を模した杖を背中に背負い。名前と同じ色の髪をなびかせて歩くその光景。平凡な生まれでありながら、他の誰もが真似出来ないだろう輝きをその分厚い眼鏡の奥の瞳に宿していることを…彼女の理解者達だけは知っていた。
行くぞ、と。スオウと呼ばれた、乱暴ながらも彼女に対する気遣いがそこかしこに見えている少年が手を伸ばす。躊躇することなく、けれど久しぶりに手を繋いで行けることに照れを見せたヒイロは、スオウと視線をあわせないまま手を捧げていた。強い力で握り返された手に、おずおずと遠慮がちにヒイロも力を入れる。
幼馴染の彼には、とても世話になっていた。自分も気付いていなかった魔法の才能を見出されてあの学園へ編入した時だって、あとを追って編入してくれたスオウにずっと世話を焼かれてしまって。口調が乱暴で、何をするにも荒々しいけれど、それで誤解を受けることが多いことを知っているのは恐らく自分だけだ。気が弱く人と話すことさえ臆病になるヒイロにでさえ、そう思わせる程の自信を持たせてくれるだけの長い時間を二人は過ごしてきた。
だからこそ、この存在に守られることばかりだけでは、いけない気がして。頼るだけでは、何も言わないままで成長した姿すら見せられない人間にはなりたく、なくて。手を引いて導いてくれるスオウを感じながら、俯いたままで話しかけた。
「……ねえ、スオウ。もういい加減、教えてよ。わたしがいない間、あの人はどうなったの」
エリーゼ様は、どうなったの?
リドミナ学園へ通じる道を、二人の足音が辿っていく。スオウは、まだそんなことを言うのか、なんて。かわいそうなものを見る目でヒイロを映していた。
カナリア王国、王立魔術学園リドミナ。
一週間前、そこでひとつの大事故が起きた。本来なら事件、とするべきだろうに。事故、と言うのはその被害者である人間……ヒイロ・ライラック本人が事件の可能性をひたすらに否定し続けていることと、学園の教師側がことを大きくしたくないと躊躇いを見せていたこと、そして加害者である人間のバックが家の名を悪しき意味で広げぬように素早く手を回したこと等が諸々重なった結果だ。
……リース家。このカナリア王国では様々な界隈で名を挙げる者が多い、伯爵家。ヒイロは一週間前、そのリースの一族の一番末の娘に手酷い仕打ちを受けたのだ。
「お前まだそんなこと言ってんのか、もうあんな女のことなんて忘れろ」
「嫌よ。……嫌。スオウはいつもそう、……わたしを守る為に、わたしの気持ちを否定するもの。そこだけは、わたし、寂しいかな」
その日は、講義以外で見られることの無い膨大な魔力が学園内で検知された。駆けつけた人間が見た光景は正しく地獄絵図だったと言う。舞うように空中を飛ぶのは、意思を持った炎の群れ。火だるまの状態で倒れたヒイロからようやく炎が剥がれ、消え失せた時。そこにいたのは、大火傷をした彼女の姿だった。全身を悪戯に炎に啄まれ、痛みの熱に巻かれただろう苦しみは計り知れない。
事態が起こり、癒術師がすぐさま呼ばれて。ヒイロは学園から癒術院に搬送され、手当てを受けた。顔と腕に負わされた火傷が一番酷い有様だったが、この国の癒術院には回復魔法のプロフェッショナルが山ほどいる。発達した癒術の力にかかればどれだけ深刻な症状でも、死から遠ざけることはとてつもなく容易であった。
怪我を治し、すぐ意識を取り戻したヒイロ。それはとてもめでたいことであったが、そこから先が対応を無駄に長引かせてしまっている要因になる。
「わたし、何度だって言うもん。……エリーゼ様に、私はいじめられてなんかいない。嫌がらせも受けてない。周りが勝手に誤解してるだけよ!……ただ、女同士の事情があっただけ」
「お前なあ!証拠も揃っててそんなこと言うのか!どれだけ、俺も心配したと……!」
「うん、ありがとう。でも、もう心配しなくていいよ。わたし達がやったのは、ただの大喧嘩で、ただの「決闘」なんだから。事件なんかじゃないわ、ただ二人してかっとなってしまった。だから、喧嘩は両成敗されるべきなのよ」
魔力の解析などすぐに出来る。例え現場から跡形も無く姿が消えていたとしても、ヒイロを傷つけた人間の特定は早かった。そして、ヒイロの人間関係を見れば、調査結果を詳細まで知らされていない生徒達も勝手に紐解いていく。
犯人は、エリーゼ・リース。
ヒイロより三年上の先輩で、学園内でも悪名高い不気味な女生徒だ。化物のような瞳に、不遜な態度。取り巻きをいつも周りに侍らせており、気に食わないことがあれば一族の権力を使って我侭放題。厄介なのが、口だけでは無く相当強い魔術師であると言うこと。自ら好んでエリーゼに近寄る物などいない、学園でも孤立した存在ではあったが圧倒的な負のテリトリーを形成していた一角ではあった。
ヒイロが編入してきた時期である三ヶ月程前から、ちょくちょくとエリーゼと接触する姿は見られていて。幼馴染であるスオウの忠告も、ヒイロを学園に誘ったと言う貴族の男やその知り合い達も口を揃えて心配していたにも関わらず、ヒイロはエリーゼに関わり続けたのだ。最初は誰の目にも「ヒイロがエリーゼのいじめの標的になっている」としか見られていなかった。人との交流が死ぬほど苦手で、コミュニケーションにも難ありの消極的すぎるヒイロの性格は、正直言って嫌悪感を集めやすくもある。今でこそ様々な生徒と関わったからか少しは勇気を持つことを覚えてはいるが、当時は本当に弱虫の擬人化そのもので。そんなヒイロが積極的に、あんな、悪女に会いに行くわけも無い。ヒイロ自身は否定してはいたが、それが強がりだと周囲の人間は決め付けて。
エリーゼに怒鳴られて泣いている姿を見た、エリーゼに無視されて顔を青白くしている姿を見た、エリーゼに突き飛ばされて謝り続けていた、…スオウはあの学園でそんな姿ばかりを見てきたのだ。せっかく学園に編入出来た機会が、ヒイロが変われる機会が、こんなところで潰されていいわけが無い。だから表立ってヒイロをかばうことは多かったし、エリーゼに味方する者もいなかった。誰が本当に悪いのかを皆が分かってくれている状態だと言うのに、下手に家が権力を持っているからか誰も逆らえなくて。そんな中での、二週間前の事件。ヒイロが大怪我をした、それだけで大多数の生徒は犯人像がすぐに思い浮かんだのだ。それほどヒイロを嫌っているのは、エリーゼしかいないだろう、と。そして何より、ヒイロの大怪我の原因になった大元の炎。…エリーゼ・リースが最も得意としていた魔法も、同じく炎だった。
「スオウが教えてくれないなら、いいもん、勝手にリース家に突撃するもん、」
「……お前、本当に、あの女と何があったんだ?」
「教えない。スオウだって、「男と男の都合だ」って、バトラトン様とか、ギエル様とか、あの方達の間で内緒話をしているじゃない。…女と女の都合もあるって、わかってほしいな、それだけなの」
「いや、お前、あのド失礼貴族共と俺の話は置いとけよマジで、」
「ほら、そういう反応する。わたしだって、今そんな感じよ。勝手な憶測とかで、色々決めないでほしいの。……ね、お願い、知ってる範囲でいいから。スオウ、教えて。…わたし、本当に頼れるのは、あなたしかいないの、」
ヒイロの声色に、苦虫を噛みつぶした様子を見せ。ようやく降参したとばかりに、スオウは盛大に溜息を吐いた。
「お前、俺に頑固なとこだけは変わらねぇな、ほんと。……大体のことは、学園から口外禁止されてる。俺が話しても、あっちに行ったら知らない振りを突き通せ、いいな。最悪フレデリカ神父が責任取らなきゃいけないことになる」
「!スオウ、ありがとう…。うん、神父様にはもう迷惑かけられないもの。だから、余計に、あの件を大げさにしたくない」
少し大回りして行くか、と。道を変えたスオウの背に、手を繋いだままついて行った。
ヒイロ・ライラックも、また。とある青年とは別の側面から、エリーゼ・リースの影を追う者。今はまだ遠く離れた点同士、それが繋がる頃にはどうなるか。…神の横で、同じく全てを見通す女王にしかその道筋は見えていないだろう。
金糸雀が美しく囀る。その鳴き声はまるで、彼女達に花弁を降らせるかのように優しく、甘い毒のように現実に注がれていった。
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