18

 ノア・マヒーザ。

 カナリア暦1800年1月12日生。現在17歳。性別、男性。

 肉親は兄のみ存命、その他に血縁関係存在せず。本人が9歳の頃に両親は共に死亡。領土圏外の他国まで旅行した帰り道、急な土砂災害事故に巻き込まれ兄弟のみが生き残る。

 魔力量、平凡。戦闘能力、測定無し。色素、濃紺。潜在能力開花の兆しの傾向、不確定。通学記録、一切存在せず。農園内で独学を積んでいると思われる。

 1814年、極めて能力は弱いが空間魔法使用者として王都にて国民識別書の更新を行っている。以降の更新は無し、今回発見された逃亡時の痕跡から、当時の更新日より高等で緻密な空間把握・移動能力を取得したと思われることから、数年更新が無かったことは意図的の可能性有り。

 現在は兄アーク・マヒーザ(精霊魔法使用者として1809年に国民識別書の更新有り。以降毎年の義務報告は届いている)の管理するカシタ山、及びカシタ農園にて生計を立てている。


 ――その足跡に、エリーゼ・リースとの接触の痕跡、一度たりとも見られず。


「どちらだ?」


 焦りか、恐れか、それとも苛立たしさからか。両目を零してしまいそうな程に睨みつけていた書類から顔を上げた時、彼は愚痴を吐くようにぼそりと言葉を地面に落としていく。

 専門職以外の持ち出しは緊急時を除いて原則禁止という意味を持つ刻印ばかりがついた紙面に記載されているのは、何のことは無い。とるに足らない程平凡で、危険視などする方が間抜けとさえ思える程のどうでもいい人間に関する個人情報だ。昼夜を跨ぎ、現時点で自身に集められる情報は集めきった筈、そうであるにも関わらず、調べ上げた相手の略歴にどうにも異常性が見当たらない。

 いいや、この場合は、異常性が見当たらないということことが大きな異常であるのだ。ウィドー・バレスクは自室で心底悔しそうに舌打ちを繰り返していた。おおよそ執事長がするべきではない顔をしていることに、彼自身も自覚はあるらしい。苛々とした空気を募らせた後、大きく深呼吸を繰り返していた。左目にかけた片眼鏡を外し、ほんの少しついた汚れを布で拭き取る。

 彼の手の下に見え隠れする分厚い書類上には、ノア・マヒーザという一人の青年の情報が記されていた。


(識別書の原本自体も記録水晶との齟齬無し、どちらかが改竄された痕跡も一切無し。…有り得るのか、このようなことが、)


 あの、何でも無いような青年が「何も仕出かさない」可能性など、あるわけが無い。最大限の危険視はせねばならぬ、そう思っていても、彼の情報を見れば見る程困惑してくる。貴重な空間魔法を使用出来る才能の隠匿はまだいい、識別書の更新が面倒だったという理由で怠る平民など普通にいる。だが、やはりおかしいのだ。今まで山地内、もしくは契約した村や市場に向けての空間魔法の使用に限定してその頻度を増やすことすら無かった青年が、今回起こした奇天烈な誘拐事件にだけおいて相当の頻度で魔法を使用…しかも、その理由がよりにもよって「一度とて会ったことの無い女を攫う為」と来た。サイコパスの素質でもあるのかこいつは、ウィドーは胸の内から溢れ出る陰鬱とした気を抱える。


 …ウィドー・バレスクという男には、決して譲れぬ矜持と誓いがあった。

 僅か17という年齢でこの国を治める王と女王の二人、その尊き方々の盾になる為。尊き二人の間に流れる優しい時間を、生きている間に一秒一分でも増やす為。…彼等の為ならば、彼等の愛する物でさえ手に掛ける覚悟もある程の男だ。王家に仕える執事の子に産まれた頃より、まだ見ぬ王と女王が産まれてくるのをどれほど心待ちにし…その姿の前に跪くことを夢見たのだろうか!

 自分の命よりも大切なその二人に、「自分にならば裏切られても構わない」と言う言葉まで出させてしまった、あまりに罪深い男。だからこそ、ウィドーは、手を抜けない。手を抜くことが出来ない。あの二人の未来を潰す可能性がある存在を目にしてしまえば、彼等の疑問を無視してでも遂行せねばならないと思っている。

 たかが伯爵令嬢が一人攫われた程度の小さな事件であろうと。そこに現れた異物を認知した時、あれを処分しなければならないと使命感を帯びたのだ。


(……いないんだよ、お前のような存在は、最初からいる筈が無い)


 それなのに、何故存在するのだ。どのような方法を使って、この青年は産まれ落ちた?意図的に?偶発的に?もしくは、既に犯罪指定されている魔法で――この青年になるべき者の心でも乗っ取ったのか。そうであるのならば、なんとおぞましい。本人になる筈だった者が、別の物にとりつかれ、……成り変わられた、のだろうか。そうで無ければ、この豹変の理由が全く説明出来ないのだ。平民が、一度も会ったことの無い伯爵令嬢の顔と名前を言い当て、婚約を迫り攫うなど。その突拍子も無い行動の理由に出来る物が無い。

 だが、ウィドーにだけは分かる。真実を確約するものでは無いだろうが、それでも一番近しい可能性を当てることは彼にも出来る。心臓が不穏な鼓動をじくじくと刻んでいた、…この世界に生まれて。いや。”生まれ変わって”…こんな事態は、初めてに等しい。かつては自衛の為に望んでいた不穏分子が、まさか平穏を手に入れたこの望まない時期に現れるなど、憎らしくて仕方が無い。

 いつだ。いつからこの青年は、知った。青年が、不穏分子に成り得るイレギュラーであるということを。その記憶を、能力を、何の為に使おうとしている。


 など、ワタクシのどの記憶にも無かったのに――!


 バチッ、と目の奥に星が光るような感覚が、激しく自身の脳を突き刺した。いや、そうだ。そう。意識してはいけない、これは自分に科した呪いでは無いか。思考を覗かれぬよう、我が遥か遠き過去のことを意図的に強く思い出してはいけないと、心に繋いだ呪いだ。記憶を司る器官、焼きごてを当てられたかのように自身の中身が減りゆく。恐ろしい、何より恐ろしい。

 忘れていたいと頭の中に錠をかけた筈が、それさえ自身の葛藤で壊しかけると言うのだからあまりにお粗末だ。


「ノア・マヒーザ……!」


 お前にだけは会わねばならない。尊き方の、平穏の為に。お前にだけは会わねばならぬ、お前がどちらか見極める為。

 待ちわびることすら忘れたほどの、共犯者か。それとも……虫けらにすら値しない、欲望だけで動くことしか出来ない獣であるのか。判断をしなければならない。この、このワタクシは、判断しなければ、ならない。ウィドー・バレスクとして在る限り、絶対に。

 対峙した時、彼が後者であるならば。前者であると判断するに乏しい人間であると言うならば…もう逃がしはしない。死ぬまで殺して死なせ、殺すまで死なせて殺すまで。


 叶うことなら、この手が正しきことが出来ますよう、

 ああ、王よ、女王よ、貴方達の未来にこそ幸福あれ!このウィドー、それ以外に何も、何も望むものは無い、



 人の目から隠れたいとでも言うかのように暗く落とされた灯りは、その男の別の側面を撫で上げていた。

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