3錠
19
朝焼けが、目に染みる。赤くなった空を見上げ、もう何時間以上も経ったのかと呆けたような風体で僕はいた。
こんなにも清清しくない朝と言うのは久しぶりだろう、はっきり言って眠れるような状況では無かったのは当然のことで。それでもあれは都合のいい夢などでは無かったのだと、僕に少しはなついてくれたのか肩に乗ったまま離れない金糸雀が示していた。
普通。予想出来るものか。規格外の存在が、エリーゼの味方であることが分かるなんて。それと同じく、全く知らない人間相手に恨まれていると言う件についても心当たりが無さすぎて、困惑する。考えるより先に、一言どうすればいいんだよと迷いを口にして払拭する必要があるだろうこれは。どうしようなあ、と、あれから一晩中自分の部屋に小さな明かりをつけて悩んだ結果が、今疲れた風体で朝日を拝んでいる僕なのだから察してほしい。横で囀る金糸雀は、僕の為に子守歌でも歌おうかと話しかけてくれているように見える。思考に靄がかかる、ベッドで全身をちぢこませてごろごろとしてみたものの睡魔は訪れず、全く眠らずで隈を作っての起床と相成った。
…睡眠と言うのは人の身体には絶対に必要だと言うのに、頭で分かっていてもそれを身体が分かってくれていない。ふあ、と欠伸を大きくし、ふらふらの足取りで廊下を歩く。勿論、エリーゼは起こさないように、足音を消すのを忘れずに。彼女には、これ以上余計な心労を負ってほしくは無い。しかし、彼女を心配している人間がいたと言う事実だけでも起きたら伝えておくべきだろう。謎の執事と僕の間にある何らかの関連性はとりあえず横に置いておき、今はこの場所と兄さんとエリーゼの無事を確保することが最優先なのだから。僕のことは二の次三の次にしなければ。
太陽の姿を感じてからいち早く着替えることも、身だしなみを整えることも忘れて。眠ることが無かった僕を包み込んでいる寝巻のまま、自分の部屋から出てすぐ、まっすぐに兄さんの部屋に向かう。若いと言うのは素晴らしいもので、遅寝早起き状態でもいつも僕も兄さんもぴんぴんしている。帳簿管理や市場、村へ出向く予定がある際は兄さんも僕並に早く起きることが普通で、今日は既に起きてくれているだろうという予想が完全に当たっていた。電気のついた兄さんの部屋の前で、閉じそうになる瞼を必死に上げながら戸に手を伸ばす。数度のノックと一緒に声を出した筈が、久々の寝不足だったからかろくに喉から音が出なかったらしい。兄さん、と僕が呼びかけるよりも先に、部屋の戸が開いた。既に身支度を終えて着替え終わったいつもの兄さんが、僕を見てその眼をぱちぱちとさせている。
「…どうしたその顔、おはよう。眠れなかったのか、」
「…おはよ、ちょっと、昨日話せなかったことあったから、今でもどうかなと思って」
へら、と力無く笑う僕に、兄さんは溜め息混じりで呆れた様子を見せて。机の上に、商売で使う書類や金銭管理の帳簿、筆記用具がとっ散らかっているのがちらりと目に映る。肉体労働が多めの僕とは違い、事務仕事も多く契約している相手方との交流もしなければならない…そんな風に頭をとにかく使っている兄さんは精神的に辛いことも多いだろうに、いつも年下の弟の僕がいるからと、どんなに大変な時でも弱音を吐かなかった。事故で両親を亡くしてからと言うもの、僕が一番支えられてきた存在が、アーク兄さんだ。僕が泣いていれば、励ます側にいつも回っていた。僕が悩んでいれば、聞く側にいつも回ってくれた。その優しさは今現在も変わり無くて、「エリーゼちゃんには聞かれたくないことか?」と、僕の心を見透かしたように言葉を投げてくれる。僕、そんなに分かりやすい顔をしているのだろうか。元気も出せない状態でただ一回頷いた僕に、兄さんは書類をすぐさま金庫に入れて鍵をかける。
「ちょっとだけ表で話そうか。空気に触れれば、少しは目もぱっちり開くだろ」
その後で休みはしっかり取れよ、と。僕に叱るのも忘れずに。ありがとう、と返した僕ものろのろとついていく。僕が玄関に着く前に、兄さんは僕の分の飲み物も取っていつの間にか側にいた。僕が遅すぎるのか兄さんが早すぎるのか、徹夜なんてするとこんなにも人としての性能も駄目になるのだから、恐ろしいものだなあ。地球のブラック企業の人間が、こう言った世界のスローライフに憧れるのも頷ける勢いで、久々すぎる倦怠感にくらくらしながらも歩く。労働が多いとは言え基本は健康的な生活を送っている人間に、望まない不眠は辛い。
いつだって、兄さんは頼りになる。一人で考えるのが難しいなら、一番信頼している人に相談するのがいい方法だ。今日も、少しだけ、甘えさせて貰ってしまう。寝ぼけ眼のひよこのようにぽてぽてと、兄さんが手に持つレモン水の微かな香りにつられていった。
× × ×
「侵入者ぁ?この山に?昨日?」
「や、正確には、なんというか、そんな枠におさまらない人、お方なんだけど、」
空気は澄み、晴れ渡り、赤さを見せる朝の山の光景は言うまでも無く最高に等しいほど美しい。ログハウス、玄関を開けてすぐのスペースにいつも置いてあるアンティークな木彫りの丸机と、二人分の木椅子。僕はそこで兄さんを相手に、とりあえず順に相談してみようと口を開いたところだった。両親がいなくなってからは、玄関先に四脚あった半分を家の中に片付けて。二人だけで働き出してからは農作業中にもここをいつも休憩の為に使っている、落ち着くスペースだ。
レモン水の味が舌の上に広がり、普通の水よりほんのりと味がついたそれにじんわりとだが目が醒める。だが頭の働かなさは異常のまま、何から伝えればいいか分からないがとりあえず女王が昨日ここにいたことから話し始めようかと思っていた。しかし表現に迷った挙げ句出してしまった言葉に、兄さんは険しい顔をしている。
「……ノア、昨日もそう言った反応は一切無かったが。疲れてたから見間違えたとかでは無く?」
それもその筈だ、この山の管理者である兄さんは、全体のセキュリティの管理役もしている。何か不測の事態が起これば、例え寝ている最中でも感知して飛び起きることが出来るのだ。それこそ、この山全体と兄さんは一心同体のシンクロ状態であるから。と言うのも兄さんは、僕とは比べ物にならない程の実力者。どこの国でも希少な大精霊の魔法の使い手であり、その力でこの山をおさめている。代々この山の管理者だけに受け継がれる一子相伝の契約魔法のようなもので、遥か昔にここに住むようになった一族が同じくこの山を住み処とした男神の存在を知り、信仰を捧げる代わりに力の一部を貸してもらうという流れが現在まで続いている。
事故で両親が亡くなり、その山神と契約していた父との縁が切れてしまい。その間が少し空いてしまったものの、まだ幼かった兄が僕を押し退けて契約を行ってくれた。山神としての年季がとても長く、その力も強大で。昨日、不審者なら兄さんが気付く筈だからと信じ、いきなりやって来た女王様の存在に驚いてしまったのもそう言った背景があるからだった。兄と山は契約した力により一心同体、異物が混入したり様子がおかしければすぐに感知出来る。ただ今回は、凄い兄さんですら反則的に上回る程の人間が割り込んできたこともあり、説明が難しい。一晩だけでインフレーションが激しすぎるだろうと思った。
「はは……いや、規格外のお人がね、と言うか…………昨日まではこの子だったんだけど、」
ね?と、ずっと肩に乗ったままだった金糸雀に声をかけると、返事の代わりに一声鳴かれ。
昨夜、この子をボーッと抱いたまま家の中に帰ってきて。家にいた兄に、何と伝えていいか分からずうやむやにしてから自分の部屋にこもってしまったせいもあって。流石に、相手が相手だけに言葉に出すのにも落ち着く時間がいる。こんなの前世の規模で例えるなら「実は昨日の夜総理大臣がうちの庭に侵入してきて」なんて言うような物だ、余程信頼がある人か受け入れてくれる度量がある人相手でないと話すのも躊躇うだろう!普通!
「驚いてもいいから、信じてほしいんだけど、」
「信じるさ、勿体ぶるなよ。ひどい表情してるぞ」
「……あの、まず。昨日侵入してきたのが、エリーゼ様のご友人で。見回り中に出会ったんだけど、……」
「ふむ、」
「そのご友人と言うのが、その……カナリア女王様だったわけなんだけれども、」
「は」
目が全部乾いてしまいそうだ、兄さんは僕の口から出た言葉に瞬きも忘れて僕を見つめている。おまけにもう一度、は?と大きな疑問符が返ってきた。正直僕も兄さんも全く悪くないと思う。
「あの、山の敷地内にいたこの子にさ、女王様が、魔法でとりついて………現状の説明をしてもらった、と言いますか……。それで、これからのことを相談したくて、」
「……山でクジラを見かけたような気分だよ、今、」
「兄さん、」
「信じられるさ。そんな顔してるお前のことだ、それに……ここの山神様の年季がどれ程だと思ってるんだ、生半可な能力持ちが入ったなら即反応するよ。俺が気付かず眠ってたって言うのも、それを悟らせない……と言うより、山神様も認めたような存在だったからなんだろ。そう考えないと辻褄があわないし、」
うー、あー、とひとしきりうなった後。緊張感がようやくのぼってきたらしい兄さんの顔は、畑もびっくりの土気色になっていて。
「…………山燃やすとか滅ぼすとか、言ってた…………?エリーゼちゃん返せって?」
「いやいやいや!!!そこまで!そこまで乱暴なことは言われてないよ!!?」
「女王様だろ!?あの!!特に伝説が巨大なあの初代様に生き写しの生まれ変わりとか散々言われてるあの女王様だろ!?……エリーゼちゃん………やっぱり滅茶苦茶貴族令嬢だったんだな……繋がりが、繋がりが俺らと全然違う、すごい、」
「うん……交遊関係がゴージャスすぎるね……」
閑話休題、と言うわけで。改めてあれが夢では無かったことを自覚するとともに、かくかくしかじかと僕はゆっくり昨日得られた情報を語り始めるのだった。僕が起こした誘拐騒動で、王立学園が今どういう状況に落ち着いているのか。エリーゼにも心配してくれている家族がいることと、そして、何故か僕が見知らぬ人間達に狙われているかもしれないと言うことも。カナリア女王様から教えて貰えたことは、全部。
そうして話し終わり喉を潤す僕の前、あまりに普通に聞いてくれて逆に怖さを感じるくらい、すっと受け入れてくれた兄さんがいる。
「……農園に、変な影響とか出たらごめんね、」
「それは今更だろ、ノア。お前があの子連れてくるの了承して送り出したのは俺もなんだから、俺も共犯だよ」
「兄さん、……」
「だって、夢だったんだろ。あの子と会うの……それこそ、ずっとずーっと前からさ」
それがここで今叶ってるんだから、台無しにしないように頑張ってみようぜ。
突然のことに、一寸迷いが出た僕の心に。兄さんの言葉は奥まで響いていく。いつだって僕は、この人に支えられてきた。身体ばかり大きくなってうじうじしてる僕を、大切な弟としていつも励ましてくれる。兄さんはいつだって、僕の心の薬になってくれていた。
「あの子も今は休みたい時間だろうし、お前が話せるタイミングでいいんじゃないか?波風立てないでしばらくは二人とも、穏やかに過ごした方が絶対いいって。……それで本当にお前かエリーゼちゃんを狙って、何かあったら。俺も管理者としても、保護者としても、お前達を絶対に守るよ。だから一人で抱えなくていい」
「……兄さん、ありがとう、」
「辛気くさい顔するなよ。エリーゼちゃんが見たら心配するぞ、」
本格的な作業まで後二時間はあるから少しだけでも眠って来い、と。僕の肩を叩いて、中へ入るよう促してくれる。空になった僕のコップまで、兄さんは僕の手からいつの間にか奪い取っていた。
「何か、刺激的すぎて逆に笑っちゃうからさ。ちょっとだけ肩の力抜いてもいいんだぞ、男手は二人分あるじゃないか、なあ、ノア」
――今日もいつも通り過ごせばいいんだよ、お前のいつもはそれだけで頑張ってるからな。
空の下、大陽に照らされた兄さんが、ひどく神々しく見えた。
朝は作っておくよと声をかけ、身体を引きずる僕を引っ張りながら部屋へ連れていく。
この人が兄で本当に良かったと、強引に入れられたベッドの中。ほっとしたのかすぐに睡魔に襲われて。僕はと言えば、無責任にも数秒で寝息を立てることになったのだった。
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