衣擦れの音がする。山奥の家、畑で動きやすい為の着替えが必要だと言えど、男女が同じ部屋の中でこのように衝立を挟み衣服を黙々と着替えると言うのは。ある意味でボタンを止める手が震える緊張感がある。いいや、多分恐らく絶対おおよそ、僕の顔は赤い。一帳羅を変に引っ掻けて糸がほつれないように慎重に脱いだ後は、ぱぱぱっと部屋に置いていた作業着姿にすぐ変わった。農業暮らしをやっていると、作業が中心の生活になるからかそれ以外の行動はとにかく早く済ませようという長年の癖である、下着姿から作業着に着替えることなんて数秒で出来るのがちょっとした自慢だ。

 普段から男一人使いの自分の部屋、そこに今、愛しの彼女がいてくれるだけでもこの部屋の価値が更に跳ね上がるような気がする。ああもうこういう時は羊を数えるべきか数を数えるべきか、無を数えるべきなのかよく分らなくなってきた。畳んだ一張羅は後で綺麗に洗浄にかけるとして、ここからどうすればいいんだ。どうしろと言うのだ。いや、何はともあれまずはエリーゼが衣服を着替え終わるまで待ってからが先だ。つくづく本当にとんでもないことだと思う、この日に彼女の前に立つまではまだ想うだけで満足していた。川に釣りに行った際の水面に、夜に月を見上げた際の星空に、森の中の遠い緑を目にした際の花々に、幾多もの事象に彼女を重ねて恋しく想うだけだった。見たことも無いのにその容姿を、その性格を少しだけ知っている彼女を愛して夢想して。こうして現実に相まみえるまでは、その想いの全てですら空想の中に消えてしまうものだっただろう。

 薄まった香水の芳香が、彼女がドレスを床に脱ぎ捨てた音と共に鼻腔をくすぐる。カッ、と胸の中心が熱くなった。正直青少年にこれは、色々な意味できつい。想うだけでここまで努力を続けてきた自分に対して、いきなりの現実という褒美は全身から血を垂れ流してもおかしくない程に刺激的だ。いや確かに彼女をここに連れてくるということを目標にすると言う覚悟があった以上、ひとつ屋根の下で彼女と暮らすという幸せの可能性もあるわけで。でも流石に出会ったその日に同じ部屋で着替えするとか思わないだろう。しょうがないだろ、童貞、なんだから。

 兄君がいたのだな、と。木彫りの衝立を挟んで向かい側、エリーゼの淡々とした様子の声が聞こえた。邪な心を言い当てられたとでも勘違いした体が一瞬びくっと跳ねた、そう、兄。その兄が服を用意してくれたお陰で今こういう場面になっているのだ。


「ええ。僕の、たった一人の身内です」

「オマエとあまり似てもいない」

「そうなんですよね、性格も結構違うので違和感があるかもしれません」


 髪色も性格も何もかも違うけれど、確かに血の繋がりのある大切な兄。顔も見たことも無い、まだ知りもしないだろう彼女に恋をしているという話でさえしっかりと受け止めて応援してくれた兄。……彼女を無事に攫いおおせて、この家にたどり着いた時。補填剤の乱用と度重なる疲労でエリーゼを家の中にエスコートするまでに至らず、その場でばたんと倒れて気絶してしまった自覚は僕にはある。猛省している。彼女を連れてどうにか帰ってくることが出来た僕を出迎えて、僕の部屋のベッドまで寝かせてくれたのもその兄だったと、エリーゼが聞かせてくれた。僕が起きたタイミングですぐ、その服のままでは二人ともくつろげなかろう、という気遣いで僕にはいつもの作業着…エリーゼには、母の形見の可愛いガーデンウェアを持ってきて。別の部屋で着替えるか?と言ってくれた兄に、「ここでいい」と、平然と答えたエリーゼに対して僕達兄弟は目をまん丸にする羽目になったのはお察しの通り。部屋に衝立があったからいいものの、思いきり彼女を意識している僕という存在がいると言うのにそんなことを言われると、滅多に動かない僕の男としての部分が揺らぎ始めそうで怖い。紳士的に、あくまで紳士的に、狼にならないように自分を律するのは本当に大変なのだと思った。


「アタクシの家は、無駄に人が多かったが。兄弟と言うのはこんなに数が少なくとも、あのように満足な顔も出来るのだな」


 水面に一滴、波を立てるように落ちたその一言は。まさか。まさかとは思ったが、彼女が全く見せない、羨望に近い感情なのではないかと。恐れ多くも思ってしまった。…エリーゼの背負っていたリース家の名、それを考えれば。彼女の周辺の簡単な事情を、前世に得た情報を本のように脳の中で見て覚えた僕にとっては察することが出来る。


 リース家は、過去。未だ王制が立ち上がったばかりの大昔の話になるが、その時に多くが王の側仕えとなり尽力した。褒美として伯爵の爵位を授かったと言う由緒正しい貴族のひとつだ。特徴はなんと言っても、この王国の中で唯一今の時代に一夫多妻制を「公言」し貫き通している貴族だと言うこと。

 エリーゼ・リースは現在のリース家において、34女の末娘だ。姉だけでも上に三十人以上いるということで、兄も含めた場合の数字の大きさを考えれば、どれほど大勢の兄姉がいるかは分かるだろう。流石にそれ程の背景となると相当の疑問も多い、最初の子供とエリーゼの年齢差は幾らくらいなのか、そもそも父親が何歳の時の子供がエリーゼなのか、と言うのは流石に前世を持つ僕でも全く分からないのだ。それ以外の兄や姉の名前やプロフィールなどは一切明かされておらず、前世で見た情報としてはエリーゼ自身のフレーバーにしかならなかったのだが。政財界のみならず、多方面でもリース家出身の者は活躍をしているのが今生きている世界での現状だ。とにかく子を増やし、様々な家との繋がりを強めては次の代へ、という行動をずっと行っている。そんなに多すぎる兄弟と言うものに、僕は感覚が追い付かないのも本当だ。前世では大家族特集だかでよくテレビに映っていた家庭の紹介もありはしたが、エリーゼのようにそこまで多い兄弟関係となると顔や名前を覚えられるのか、愛情を全て均等に与えられるのかさえ怪しいと思う。

 それだけの人数がいる場所で、一番の末として産まれてから。彼女はどれだけの時間孤独を感じて過ごしたのだろう。本能のままに生きた姿を悪女と言われ、断罪の場に混じっていた一部の兄弟からも簡単に見捨てられるくらいには、誰も彼女の本質を見ようとしなかったのだろうか。彼女と血を分けた肉親であるにも関わらず、エリーゼのことを手離すだなんて愚かな選択は、僕が彼女の兄や弟であったのなら絶対に選びたくは無い。どれだけ力が無かろうと、情けなく泣きながらでも今日みたいに彼女の手を引っ張って一緒に逃げたいと叫んだ筈だ。彼女を救うのが僕よりも簡単な位置にいるくせして、誰も彼女を助けようとはしなかった。その事実が、胸を締め付ける。


「ええ。……ええ!出来ますよ!きっと!エリーゼ様も、」


 絞り出すように漏れた声は、果たして彼女の耳に届いただろうか。なんて口惜しい、考えるだけでも全身の骨が軋みそうだ。僕は、前世で得たこの世界の情報を持っていたとしても、知らない情報まで連鎖的に開示出来る能力を持つわけではない。詳細を知りたいことは、自ら動かねばならないことも分かっている。でも、無理矢理に聞き出すことは絶対にしたくはない。

 彼女の過去。エリーゼが話してくれる時を、エリーゼが話したいと思ってくれるような時を、僕がこの家で作ることが出来たらなあと思うのだ。


「……何だ、着替え終わったのなら早く言え。つまらん話をするところだったじゃあないかい」

「ひえっ、ちょっ、ま、エリーゼ様!」


 カタン、背後から衝立を動かした音がして慌てる。僕が服を着ていたからいいものの、裸だったらどうするつもりなんだろうか。数秒前まで僕の背後で着替えていたエリーゼを振り返れば、言葉を失う。

 母の形見のガーデンウェアは、ドレス時にはコルセットのせいもあり相当目立った彼女のくびれをゆったりと解放し、全身のシルエットを優しく包み込んでいる印象を受けた。視線の鋭さやベリーショートに近い髪型のせいもあり、やさしめの色合いであるガーデンウェアは確かにアンバランスではあるのだが。真紅のドレスで舞う彼女とはまた、大いなる違いが見えて、ひどく愛らしい。美しいのに可愛くもある、とにもかくにも賛美の言葉だけが僕の脳内では同居していた。ドレスを乱雑に畳んで小脇に抱えてこちらを見るエリーゼに、視線をさ迷わせながら「お似合いです」と、照れを隠せもせずに言う。


「ああそうだ、このドレスは後々売るなりして役に立てるといい。家財の一切は一瞬で奪われたが、着ていた物だけは誰も奪えようが無いだろう。アタクシとて、こうなった以上施しばかりを受け続けることはしないさ、それに、」


 嫁にするなんてことを口走っておいて、裸を覗いてくる勇気も無い子犬を見ていたら情けをかけてやりたくなるだろう?なんて。顔色ひとつ変えないで、口角を上げてからかうエリーゼの言葉に。僕はなるほどその通りでして、狼以前にまだまだ立派な牙も生え揃わないわんちゃん程度ですと言うことを見破られてしまったらしい。死ぬほど恥ずかしいけれど、やっぱり。死ぬほど、好きだ。彼女のことか、好きだ。


「…はあ、もう、エリーゼ様、お戯れを……」

「本当にアタクシに興奮しているんだねえ。顔が赤いぞ」

「あああああれですよあれ!エリーゼ様の瞳が真っ赤でいらっしゃるから!!僕もお揃いになりたいだけです!そういうことにして下さい!」


 どさくさに紛れて呼吸をするようにすごい言葉を出した気もするけど、恥じらいも何もかも合わせて最終的に彼女に対する好意に終結するあたり僕も僕らしいとは思った。


 今だけは。今だけは、全てのしがらみも関係無い。これから起こるだろう問題からも逃げて、目を背けても、いいんだ。今だけは、彼女を縛る枷を壊せた瞬間だと思うから。その瞬間を笑える時間がほしい。その瞬間を喜べる時間が、彼女も欲しいに決まっている。

 早速彼女の色に染められてしまった僕は、その愛しい色を持つ彼女自身と部屋を後にして。まずはくつろごう、と言ってくれた兄の元に二人で歩を進めていったのだった。

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