乗り越えた、逃げきった、その達成感も自分の身を支えていることは確かだが。今ここにいる彼女の存在自体が、僕を努力させてくれるのだ。棒になったような足をそれでも精一杯動かして辿り着いた。この両足を針に見立てるつもりでしっかりと、地面を刺すように芯を持ち立っている。開けた場所に出た途端、力強い風が草を吹き上げてこちらへ向かってきた。まるで、ここから始まる、僕達だけの物語を彩るように。

 視界のど真ん中。深い緑の木々に守られるようにして囲まれたのは、ひとつの家。木を組み上げて作られたログハウスのすぐ隣に広がるのは作物を育てる為の畑が広がっている。更にその横には、実を幾つもつける果樹が健康に育った様子を誰かに見てもらいたいとでも言うかのように、綺麗に繁った葉を揺らしていた。この距離からでは見えないけれど、家畜を数匹育てている小屋があって。ここは、僕にとっての大切な場所。両親が残してくれた財産で、今の僕と兄を生かしてくれる命の綱。この歳でもう働いている僕にとって、ここは仕事場であり故郷であり、何よりも安心する帰る場所。…慣れ親しんだ森の香りが僕に囁く、おかえりなさい、と。浴びるように貰い続けてきた森の、山の、この大地の加護はいつだって僕に癒しを与えてくれる。


「さあ、ここが、」


 貴女と共に過ごす家です、と。果たして僕ははっきりと言えただろうか。かすれた声が、空に散っていく。

 心の内は何とも言えない想いに溢れていて。感動で、最早何も語るべきことは無いとさえ思えた。幼い頃に思い出したこの世界の仕組み、大きく動揺しはしたものの、前世だけに引きずられるのではなく、僕として生きるべきだと決意して。ただ、ひとつだけ諦められないものがあっただけ。とても執着してしまった彼女だけを、この世界で愛することを生きる目的のひとつとしてずっと生きてきた。

 夢だ、夢の第一歩が今まさに叶ったのだ。前世の記憶のせいで困惑することもあったし、自我が混じるのではないかと、昨日までの僕と別人になってしまうのではないかと悩んだこともある。でも、それも、この場面を迎えられたのならば、いい障害だったのでは無いか。

 必死の虚勢も、どうやら切れる時間が来たようだ。ぷつり、と、糸が離れていく音が、する。手を繋いだままでは、彼女まで倒れてしまう。ぱ、と意識的に離した僕の手は、体ごと、優しい土の上へ落ちていく。

 ノア!と、遠くで兄さんの声が聞こえたのを最後に、無茶をしすぎたカッコ悪い男の子は、このようにして気絶してしまったのである。


 ×   ×   ×


 マヒーザ家は、過去ひたすら山を愛し籠もっていた一族の末裔である。山と共にあり、山の恵みを頂いて、日々の命あることに感謝する。そういった思考故、王都や城下に行くと言う習慣がまるで無く、最近の数代になるまではド田舎者として見られてもおかしくはなかった。今は亡くなってしまった僕の両親は「山だけにこもるのも商売の機会を逃している」という意見を持ち、城下の市場に定期的に店を出す契約と許可を見事取り付けて来てくれた。そのお陰で、僕と兄だけになったあの農場でも安定した生活が出来ている。

 作物と家畜を育て上げ、自分達で料理しながら毎日をすごし。時折市場に出てはそれらを商品として売り、加工品の為に提携してくれている商用ギルドと話をつけたり。海の方で催しがあれば露店として出店する為に出掛けたり、商売の為に広げるところは広げていく努力をたった二人でしてきた。稼ぎは正直いいとは言えない、何せ「二人で生きられる分が手にはいるなら最低限の稼ぎでいい」という謙虚な姿勢で行ってきた故に破格の値段で提供しているからだ。

 自分達は貴族向けに商売をしているわけではなく、安いと言う魅力が一番刺さるのは同じように所得が低めの平民の皆だ。市場に出れば、安価でおいしいという評判を無事に手に入れた二人の前には行列がいつも出来る。自分達の作物で彼らの生活が助かる、という人の姿を見るだけで嬉しいしリピーターを多く増やせるということは自分達の生活の足しにもなるのだ。

 前世の僕の言葉になぞらえて言うのなら、「田舎暮らしのスローライフ」と言うやつをのんびりと漫喫しているとでも例えたらいいのか。まあ実際はゲームのように一画面一画面でぱっと作業が終わるなんてことは無く、鍬を握り斧を振り重い荷物を持って素早く動けるようになるまで体を完成させるにも苦労した。前世の女性体では経験出来なかった、男性としての力仕事に一生懸命向き合って汗水垂らして働き続け、稼ぎの中から少しずつ貯めた貯金が大きくなり、エリーゼを迎える準備が出来るまで整える期間は相当大変だった。


 貴族階級のエリーゼに、平民の僕は似合うのだろうかと。ちまちまとお金を貯め続け、本当に小さいことからこつこつこなしていった自分は、そういった不安に苛まれることが確かに多かった。何故かって、階級が上の者の暮らしや価値観などわからなかったからだ。前世の記憶を一部思い出した際も、都会でOLとして働いていた女性の価値観と、この実りある大地でしがらみもなく幸せに暮らしていた僕の価値観は大きく違い、正直前世の価値観のほとんどは捨てて忘れるべきものでもあったと言える。いや今の生活環境で1000万相当の金を娯楽に使い果たすのは流石に無理だろう、あれはあの世界のあの自分の前世に財布の余裕があっただけで、ノア・マヒーザは必要な時以外の費用は切り詰めて節制する派だ。けれど、その異様とも言える愛が今の僕に、エリーゼを愛する切っ掛けをくれたのだから、いいところは少しは、ある。

 そう言った点にくわえて、僕は僕自身が群集に混じるだけの立ち位置の自覚があった。何かを今すぐに一瞬で変えられるような力は無い、小さく地道な努力を絶え間無く続けることでしか少しずつの変化を生み出せない。彼女一人を迎えに行く、ただその為だけに買い集めた魔力の補填剤だって、魔術の訓練をろくに受けていない平民の身体にはきつい物でしかないのだ。下手をすれば依存性や副作用、後遺症まで出ることがある、長年の歳月と自己犠牲…そういった物に多く手を出してからようやく彼女に手を差しのべられる位置に行けるのだ。

 けれど、苦労しても何も変えられない時だってある。もしも彼女を思い出せなかった場合。もしも僕に魔法が使えなかった場合。例えこの歳まで上手くいったとしても、あの礼拝堂で彼女が僕の手を取ってくれなかった場合。マイナスの想定は、いつだって出来た。失敗を考えずに挑むのはあまりに愚かなことだからだ、何も無しに自信を持つことはただの根拠の無い自惚れ。もしうまくいかなかったら、もし、もし、もし……そんな幾何もの不安を、虚勢だけで乗り越えてきた。肝は少しは据わったと思うけれど、この愛が空回りしてしまったらどうしようだなんて我儘な欲を、青少年らしく持ってしまった。

 好きなキャラクターだったから、運命を変えてみたいキャラクターだったから。始まりはたったそれだけでも、それは前世の女性の思いだ。前世の記憶を少しだけ拝借しただけの僕にとっては、この世界にいる顔も見たことが無いのにその容貌を知っている、という運命的な恐怖はあまりに甘い毒が過ぎたのだ。会えたらいいな、程度の認識から次第に募る思いは増幅して。いつしかそれは恋心に昇華されるまでに至って。

 怖かった。きっとそれは、彼女を愛する時の僕が。前世か今か、どちらの人間か分からなくなる時があったから。前世は前世、今の僕は今の僕、と割り切って考えることが多くてもどこかで恐ろしく感じるのだ、この愛する想いは僕が選んだものではなく、前世の女性が強制しているものではないのか?と。


 ――だから、ひとつ決めていたことがある。


 新たな始まり、そう僕は思っていた。礼拝堂で僕の手を取ってくれたことも、僕と一緒にここまで来てくれたことも、僕を選んでくれたこと全てが奇跡で。その瞬間全てが始まりの合図。

 こうなったことが当然と思ってはいけない。時として前世の記憶は自惚れの元になる。利用出来る知識はこの世を生きるために活用すべきではあるが。この世界をゲームと見ていた頃の価値観や倫理観は、この世界を現実として生きる今の僕には捨てるべき物。僕の兄さんも、エリーゼも、ヒイロも、ベニアーロやカナリアだって、データ上の画像なんかでは無く……今を必死に生きる者。

 だから、ひとつ決めたことがある。今に至るまで不安の元となっていた、前世の記憶。あの前世との向き合いかたをどうすべきか、覚悟する為に設けた分岐点。


「……ふふ、夢、みたいだ、」


 ふ、と。目が開いた。紺の瞳に目映くうつる光景に、唇が勝手に動く。見慣れた天井より前に、エリーゼの姿が見える。泣きたいくらいに嬉しかった。だって、


「ここまで来て、夢にアタクシを置き去りにするつもりだったのかい。豪胆だねえ。覚悟があるのか無いのかわかったもんじゃない」

「はい、申し訳ありません、ふふ、……嬉しくて。嬉しくて。あなたをここに、連れてこられたことが、」


 もし、エリーゼをここへ連れてくることが出来たのなら。宙ぶらりんな意識は全て消して、今度こそノア・マヒーザという男として…前世に引きずられずに真摯に彼女の前で生きよう、と。そう、自分自身に約束をしていたから。

 真紅の瞳に映るのは、僕だ。僕以外の何者でも無い。紺の色をこの身に宿す青年、それ以外は何も映していない。今エリーゼが見てくれているものは、紛れもなく、今だけを生きる僕。


 いつの間に、ベッドに沈み混んでいた身体をゆっくりと起こし。真横にいてくれた彼女が、お前の前世など関係ないとでも言うように真っ直ぐな目で見てくれていることに深い慈しみを覚え。ただただ僕は、この宝石のように輝く存在をもっともっと映えさせる男になりたいと強く思うのだった。

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