第6話 あれから…

 ワーワーとうるさい歓声が今日の暑さを底上げする。先輩から同級生まで、多くの人が校庭に集まった。僕は片膝立ちの状態で上半身を前に倒し両手をつく。うろ覚えだけどクラウチングスタートの体制。白線の粉で膝を汚したくないからスタートラインの少し後ろで構える。なんだこの状況。周囲の歓声はますます高まり、ある瞬間校舎を揺らすほどになった。陸上部のエース、川上 颯(かわかみ はやて)先輩が現れたのである。この人とは何の面識もなかった。一時間前までは。

                一時間前。

 僕は同級生がごった返す廊下で琴音さんと帰宅の道につこうとしていた。今日はキヨさんの家で畑仕事があるので、一緒に帰ることにした。なんか嬉しい。優越感にも似た感情に酔っているとき、先輩は現れた。いや、現れるだけならよかったんだ。今や琴音さんは学校のマドンナであり、男子はたいてい惹かれている。先輩も例外ではなかったらしい。しかも、琴音さんが陸上部へ仮入部に行ったことに盛大に勘違いをしていたらしく、

「よう、琴音。これから帰るのか?」

と、キザな感じで話しかけてきた。好意はバレバレだが、琴音さんは特定の相手に対してだとそういう事に疎いらしい。素っ気なく、

「あ、川上先輩。こんにちは。今帰るところです。」

と言っていた。そう、ここまで、ここまではよかったんだ。ここまでは。問題はこの後に言われたこのセリフ。

「風矢君、こちらは陸上部のエース、川上 颯先輩です。とても足が速くて、全国でも有名な選手なんですよ。」

え?普通に先輩を立てたいいセリフ。だって?まあそう聞こえるし実際そうだけど先輩にとっては違ったんだ。先輩は琴音さんが僕を「風矢君」と、名前で呼んだことが気に食わなかったらしく、僕に激しく突っかかった。

「お前、琴音のなんなんだ!?あぁ?!」

漫画に出てくるカマセキャラみたいなセリフを吐き、挙句の果てには、

「一時間後に校庭に来い!100メートルで勝負だ。俺が勝ったら、琴音はもらうからな。覚悟してろよ…。」

なんて言って、どっか行ってしまった。僕は慌てて教室に引き返す。でも、その前にバイトに遅れる報告も兼ねてキヨさんに電話をした。事態を詳しく報告したのに対して、キヨさんの反応は、小さく、重く、鋭い声で、

「…勝ちなよ。」

だけだった。 こういう場合はキヨさんは当てにならないと分かった。それだけでも、実りある電話だったと思うことにした。電話を切ると僕は弾かれたように教室に入る。琴音さんもそのあとについてくる。教室にはイケメンとゴリマッチョがいた。僕は慌てて駆け寄る。机が太ももに当たるけれど、関係なく進む。

「どうしよう!陸上部のエースの先輩に100メートル対決を申し込まれた!」

「走れば?」

「うん、走ればいいんじゃね?どうせ勝つだろ。」

二人とも興味はなさそうだ。言ったかどうかは忘れたけれど、僕にはとある趣味がある。それは、毎年行う体力測定で日本高校新記録を出すこと。何言ってるかわからないかもだけど、これが趣味なんだ。少し傾いた日が差し込む金曜日の教室で、僕は二人の友人にあっさり見捨てられ、走ることになってしまった。


 これが事の発端。そういう訳で僕は、校庭でクラウチングスタートの姿勢をとっていた。そして先輩が来る。後戻りはできない。日はさらに傾き、雲一つない空はぼんやりとオレンジに染まってきた。先輩は僕の左隣で同じ姿勢をとる。速そうだけれど、100メートル9秒64の僕にはかなわないだろう。琴音さんが、スタートの合図をするため、僕の右斜め前に立つ。緊張が高まった。何とかほぐしたくて自分の教室の窓を見ると、イケメンとゴリマッチョが手を振っている。何にもほぐれない。僕は前を向いて肩を落とす。それが準備オーケーに見えたらしく、琴音さんは手を掲げ振り下ろした。ザザッ!隣から砂粒と音が飛んでくる。あ。遅れた。僕は急いでスタートを切る。差は0・6秒くらいだった。先輩の背中が見えたのは、最初の3秒ほどで、そのあとはゴールラインが見えるばかりだった。余裕でゴールイン。記録は9秒79。まあまあだと思う。先輩は10秒33。今まで見た人の中ではトップクラスに速い。スタートラインを振り返ると、琴音さんが走ってくるのが見えた。意外と早い。僕は校門を指差し、意気消沈の先輩を置き去りに、二人で校庭を後にした。


「とても速かったですね!風矢君!」

キヨさんの家へ向かう途中、琴音さんは労をねぎらってくれた。もう2度と、あの先輩とは走りたくない。今頃どうなっているだろうか。明日以降、突っかかってこないことを願うばかりだ。

「私のせいで…、本当にすみませんでした。」

琴音さんが謝ることではない。僕は、自販機を見つけ、缶コーヒーを買う。悪いのはどちらかといわなくても、川上先輩だと思う。出て来たコーヒーはいい温度だった。カチュシュッ。空気の抜ける音とともに缶が開く。

「まあ、僕も琴音さんに恥はかかせられませんから。それに、かっこいいところも見せたかったから…。ね。」

言ってて恥ずかしいけれど、今はそれでいいと思った。恥ずかしさを飲み込むように缶コーヒーを飲み干し、缶をゴミ箱に入れる。照れくささは残ってしまっていたので、笑って誤魔化すことにした。琴音さんも、少し頬を赤らめて笑い返してくれる。そうやって笑いあってからまた、オレンジに少し染まった海を二人で眺めながら、僕らは歩き出した。



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