第一章 小説の基本ルール

第1話 小説の作法

「それでぇ~? ……」

「あ、ああ……これなんだけど、さ?」


 彼女はニヤリとした表情をしたと思うと彼に言葉を投げかけ、視線を机の上へと移していた。

 さきほど、彼が自暴自棄じぼうじきに叫びながらPCのキーボードの上に放り投げていた紙。つまり、彼の作品を凝視ぎょうしする彼女。

 そう、一部始終いちぶしじゅうを聞いていた彼女には、すべてがお見通しなのである。

 彼は彼女の視線の方向でさっしたのだろうか、振り向いて紙をつかむと振り返り、苦笑いを浮かべて彼女へと差し出すのだった。


「わぁ~い♪ ……あ、あのね、お兄ちゃん?」

「な、なんだよ?」


 差し出された彼の作品を、さきほどの紙袋と同じような笑顔で受け取る彼女。

 受け取った彼女は、作品には目を合わせずに突然恥ずかしそうな表情で彼に声をかけていた。

 すぐに視線を落とすと思っていた彼はジッと見つめる彼女に困惑の表情で答える。

 彼女の手元にある以上、読まれることは必至ひっし早急そうきゅうに済ませてほしいと感じていたのである。 

 しかし彼女は彼を見つめたまま、モジモジと体を揺さぶりながら言葉を紡ぐ。


「こ、これって……ううん、お兄ちゃんの書いた作品って……誰か読んだこと、ある?」

「は? ……い、いや、ある訳ないだろ?」

「ふ、ふ~ん? そうなんだぁ……」


 突然の言葉に驚きながらも正直に答える彼。

 その言葉を受けて、気のない素振そぶりを見せつつも、とても嬉しそうに頬を染めて言葉を紡ぐ彼女。そして。


「それじゃあ……私がお兄ちゃんの『はじめての相手』に……な、なるんだよ、ね?」

「――バッ! ななな何、馬鹿なこと口走ってんだよ!」

「間違っていないでしょ?」

「ぅ……そりゃ、まぁ、そうだけどよぉ……」


 恥ずかしそうなまま、彼女は彼に言葉を送っていたのである。

 彼女の言ったのは、当然「はじめての読者」と言うことなのだが。

 彼女の雰囲気からなのか、変に意識してしまい勘違いを起こしていた彼は慌てて否定しようとしていた。

 しかし、キョトンとした面持ちの彼女の問いかけに、冷静になって言いよどむ彼なのであった。


「……それじゃあ……いただきます♪」

「――たべないでくださーい!」

「――たべないよー!」


 一瞬だけ目を閉じて笑顔を浮かべた彼女は、目を開けると改めて彼に声をかけ……「いただきます♪」と宣言する。

 その瞬間、「やっぱり勘違いではなかったのか?」と錯覚さっかくすると両手を前でクロスしながら、自分の肩を掴むと体を少しだけひねりながら困惑の表情で彼女へと言い放つ。

 すると「ひっかかった♪」と言いたげな笑みをこぼしながら、こんな返答をするのだった。

 つまり、単純に彼は彼女にからかわれただけなのである。


「冗談はこれくらいにしてぇ~。……うんしょ。……読むね?」

「……お、おお……」


 笑顔を浮かべる彼女は床へと座り込み、彼に声をかける。

 彼女にならって彼も床に座ると、緊張の面持ちで返答していた。

 そして、彼女は緊張した彼の視線を感じながら、おもむろに彼の作品へと視線を移すのだが。


「――ッ! ……」

「ぇ? ぇ? ……」

「……おにいちゃん……」

「ど、どうしたんだ?」


 視線を移して五秒としないうちにネット用語で言えば『ブラバ』――ブラウザバックをしていた彼女。

 つまり作品を裏返しにしていたのである。

 目の前の彼女の行動に驚きを隠せないでいた彼は目を見開き驚きの声を発する。

 少しして、視線を移していた姿勢から微動だにしていなかった彼女の、少しトーンを落とした声が彼の鼓膜こまくおそう。

 何が起きたのかを理解できていない彼は彼女に声をかけたのだが。


「……うん。百年の恋が冷める瞬間って、こんな感じなんだろうねぇ……」

「は?」


 彼女の言葉が理解できずに疑問の声をあげていたのだった。

 だが、彼女がハッキリと「百年の恋が冷める」と言っていたのは理解していた彼。

 それは彼女に嫌われてしまったと言うことなのか? 彼は無意識に背中へと伝わる冷たいものを感じているのであった。


 色々複雑な家庭環境の二人にとって。特に彼にとって、彼女に嫌われることは非常に辛いことなのである。ある意味、自分の居場所すら失う可能性だって存在する。それだけ深刻な事態なのだろう。

 そんな一抹いちまつの不安を抱えながらも、必死に改善策を考えていた彼に。


「本当に……むぅ~。お兄ちゃんへの愛が……あと一万年と千九百年しか残っていないよぉ~」

「……そ、そうか……」

 

 頬をふくらましながら言い切っていた彼女。

 言葉を受けて「すごいな、俺への愛……」と言いたそうな困惑の表情を浮かべて曖昧あいまい相槌あいづちを打ちながらも、愛情が残っていることに心の中で安堵あんどする彼であった。

 だが、しかし。


「――って、いや、お前読んでねぇじゃんか……速攻そっこうで裏返していただろうがっ! ……読んでいないのに何言ってんだよっ?」


 そもそも彼女は視線を移してから五秒ほどでブラバしたのだ。そんな一瞬で小説が読めるなんて考えられない。

 中身を読んでのことなら理解できるが、読みもしないで好き放題言われる筋合いはない。

 そう考えた彼は彼女に食ってかかっていた。ところが。


「お兄ちゃん……確か、お兄ちゃんは私に『小説』を読んでくれって頼んだんだよね?」

「え? そうだけど?」

「じゃあ、聞くけど……どこに『小説』があるの?」

「は? ……いや、小説じゃねぇかよ……」


 不機嫌ふきげんな表情で意味のわからないことを聞いてきた彼女。

 確かに「小説を読んでくれ」とは頼んでいないのだが。

 小説の書き方を教えてほしいと頼み、彼が小説を書いて印刷しているのを知っているのだからと、彼女の言葉を肯定こうていする彼。

 すると彼女は表情を更にゆがめながら言葉を繋ぐと手に持っていた紙を彼に差し出す。

 一瞬、緊張していたせいで違う紙を手渡したのかと思い、差し出された紙を受け取り裏返す彼。

 しかし、そこには確かに彼の書いた小説が存在する。

 彼女の意図が理解できずに怪訝そうな表情で反論する彼なのであった。

 

「……はぁー。……ねぇ、お兄ちゃんって私の作品を読んでくれているんだよね?」

「当たり前だろ?」

「じゃあ、ラノベは?」

「読んでいるに決まってんじゃねぇか?」


 ところが彼女は、そんな彼の反論を呆れた表情を浮かべながら深く吐き出した息で一蹴いっしゅうすると、怪訝そうな面持ちで問いただしていた。

 彼女の作品も、所有しょゆうするライトノベルも何度も読み返している彼。それは彼女だって知っているはず。

 それなのに、なんで聞かれたのかが理解できずにいた彼。


「だったら……自分の書いた作品、読み返していないの?」

「はぁ? そんな訳あるかよっ!」


 すると、呆れた表情で疑問を口にした彼女。その言葉に腹が立った彼は語気ごきあらげて文句を言い放つ。


「第一、さっきから何言ってんだよ! お前は何も読んでいないだろ?」

「まぁ、そうだよねぇ……」

「だったら、どうして小説じゃねぇとか断言できるんだよっ!」

「読まなくても断言できるからじゃない?」


 彼女の返答に気分が悪くなっている彼。

 確かに彼女の作品は面白いと感じていた。自分の作品が面白くないことも。

 それでも「作者様には読まなくても駄作だって判断できるのか?」などといきどおりを感じていた。

 彼女がアニオタだからと言っても、エスパーではないのだろう。

 仮にアニオタのスキルが彼の想像を超えた代物しろもので、読まなくても駄作だって判断できるのならば。

 目の前のような反応をするのに、わざわざ読むなんて行為をするのは不自然だろう。

 彼女にとって愛の暴走は日常ではあるが、露骨ろこつに怒らせることは絶対にしない。これだけ言っても彼が怒らないなどと考えているのでもない。

 彼女はただ、真実を口にしているに過ぎないのであった。


「……じゃあ、よぉ? これが小説じゃねぇって言うなら、なんだって言うんだよ!」

「えっと、ね……ブログ?」

「――ッ! ふざけんなよ! なんで小説をブログだとか言われなきゃならねぇんだよ! ……あー、もういい、読んでもいない人間に何かを教わろうなんて思った俺が馬鹿だったわ!」

「……」


 しかし真実を理解していない。否、理解しようとも思っていない彼には彼女の言葉は暴言に聞こえていたのだろう。

 拍車はくしゃのかかる反論。されど暖簾のれんに腕押しな彼女は「ブログ?」などと平然な顔で聞き返す。

 当然彼は小説を書いているのであって、ブログを書いた覚えはない。

 ニュアンスは違えど、退学届に小説を書いていた彼女に言われたことを、お門違かどちがいだと感じたのだろうか。

 ついには自暴自棄におちいり、声を張り上げ彼女に言葉を突きつけていたのである。

 そんな彼の言葉を受けて頬を膨らませ、瞳に大粒の涙をためながらジッと彼のことを睨む彼女。

 彼女の姿に気後きおくれするものの、勢いに任せて彼は言葉を繋げるのであった。


「……はいはい、どうせ俺の小説なんて高尚こうしょうな小豆先生には読まなくても駄作認定できちゃうくらいの駄作なんでしょうね! ったく、俺だって真面目に教わりたいから頼んだのによ……ふざけるんなら最初から教えるなんて言うなよ――」


 既に「からかわれているだけ」だと感じていた彼は、「教われる」と言うあわい期待も消えうせてブツブツと情けないことをつぶいていた。ところが。


「ふざけているのは、お兄ちゃんの方でしょ!」

「――ッ!」


 突然、怒気どきを含んだ彼女の言葉が彼の鼓膜に響き渡るのであった。

 

 驚いて彼女を見つめる彼の視線の先。

 滅多めったに見ることがないであろう、彼女の怒りの表情が映し出される。

 だが、彼女にこんな表情をさせる要因よういんなど見当たらなかった彼は不思議そうに彼女を見つめていた。 

 少し声を張り上げたからなのか、一瞬だけ軽く息をついていた彼女は彼を見据えて言葉を紡ぐ。


「……これを読もうとしたのが私でよかったね?」

「ん? ……どう言う意味だ?」


 少しだけ気分がスッキリしたのだろうか、表情をゆるめて声をかける彼女に対して疑問の表情で聞き返す彼。


「私だったから裏返した程度で済んだけど……お母さんだったら紙ヒコーキ折っているだろうし、お父さんだったら鼻をかんでいると思うよ?」

「なんだよ、それ?」

「お父さん達は私以上に厳しいってこと」

「……」


 まったく理解が追いつかない彼。

 そんな彼に彼女は言葉を繋ぐ。


「お兄ちゃんは私が『何も読んでいないのに小説じゃない』って判断したと思っているようだけど?」

「違うのか?」

「悪いんだけど判断するだけなら五秒で可能なの」

「それって?」


 判断するだけなら五秒で可能。何を判断したのだろうか?

 気になった彼は先をうながしていた。


「正確には一行目の一文字目。その時点で判断したの……だから一秒なのかな。そのあと全体を見たから五秒くらい経過しただけで、お父さん達なら一秒で行動に移していると思うよ?」

「……いや、一行目の一文字目って何も判断できないだろ?」


 具体的に説明されたのだが、一行目の一文字目に何が判断できるのか?

 素直な疑問を彼女にぶつけていた。


「えー? 判断するには十分だよ? だって『小説の作法』を判断するだけだもん」

「……『小説の作法』って?」

「小説の作法は小説のルールだよぉ~」

「いや、具体的に教えてくれよぉ」


 当然ながら小説の作法など知らない。知らずに書いていた彼には理解できるはずもなく。

 困惑ぎみな表情で、突然知ることになった小説の作法と言うものを教えてもらおうとする彼なのであった。



「……ねぇ?」

「な、なんだよ?」


 知らないから「教えてほしい」と頼んだのに、ジト目で声をかけられる彼。

 彼が聞き返すと、なぜか表情を一変いっぺんさせて泣きそうな顔で言葉を紡ぐ彼女。


「お兄ちゃん……本当に私の作品読んでいるの?」

「あ、当たり前だろ?」

「ラノベも読んでいるんだよね? 自分の作品も読み返したんだよね?」

「だから、そうだって言っているじゃねぇかよ……」


 先ほどと同じことを聞かれたことに困惑しながらも同じ答えを返す彼。

 その言葉を聞いた彼女は淡々たんたんと言葉を紡ぐ。


「それでも何も違和感がなかったの?」

「……え?」

「自分で小説が書けているって思っているの? ……それはないよね?」

「い、いや……確かに違和感はあったし、書けているとも思っていないけどさ? って、原因がわかるのか?」


 彼女の言葉に理解が追いつけないでいた彼であったが、どうやら彼女には「彼の覚えた違和感の原因が理解できている」ようだと思えていた。

 いくら考えても見つからなかった原因。それが何なのか、彼はわらにもすがる思いで彼女にたずねるのだった。


「そりゃあ、ね? お兄ちゃんが普段小説を読まないんだったら違うかも知れないけどぉ~、ちゃんと小説を読んでいるのなら……この作品には違和感を覚えていたんだろうなって思うから」

「それで、何が原因なんだ? ……って、おい、待てよ!」


 苦笑いで紡がれた彼女の言葉を聞いた彼は先をうながす。

 すると彼女は満面の笑みを溢すと、立ち上がって無言で部屋を出ようとしている。

 答えを求めていたのに逃げられると思った彼は必死に呼び止めようとしていた。

 彼の言葉に呼応こおうするようにきびすを返して彼の方へ振り向いた彼女は――


「ああ、うん……長丁場ながちょうばになると思うから~、お菓子と飲み物もってくるねぇ? お兄ちゃんはテーブル出してノートと筆記用具を用意しておくんだよぉ~」


 笑顔に添えた言葉を残して、部屋を出ていくのだった。

 背中を見送っていた彼は彼女の言葉通り、クローゼットに入れてあるローテーブルを出して、ノートと筆記用具を用意しておいた。

 長丁場になる――それはあんに「ちゃんと教える」と言ってくれたのだと感じていた彼。

 その上でノートと筆記用具を用意するように伝えたのだろう。

 口頭こうとうで覚えられるほどの話でもないし、しっかりと覚えてもらう為に――。

 準備を終えた彼は、彼女の戻りを心待ちにしていたのであった。



「おっ待たせぇ~♪ ……よいしょっと。ふぅ~。ぁ……うんうん♪ ありがとぉ~♪」


 数分後、戻ってきた彼女は片手に大きめなビニール袋を持って扉を開けて、軽く息をついてから入ってくる。

 戻ってきたことに気づいた彼は彼女に近づきビニール袋を無言で受け取る。

 そんな彼に、頬を染めながら満足そうにうなずいてから礼を伝える彼女。

 その笑顔とお礼がビニール袋を持ってもらったことなのか、彼女の視線の先に見えている――きちんとテーブルを用意してノートと筆記用具を並べてあることに対してなのかは彼にはわからない。

 それでも彼は彼女の満足そうな声を背中で感じながら、微笑みを浮かべるとテーブルのわきにビニール袋を置いたのであった。


「それじゃあ、まずは……はい、お兄ちゃん♪」

「お、おう……サンキュー」


 テーブルに並んで座った二人。テーブルの脇に置かれたビニール袋から、彼女はお菓子と缶ジュースを取り出していた。

 だからと言って彼女は特に外出をしていたのではなく、お菓子と缶ジュース二本をお盆にせると安定感がないから台所で用意していたお菓子と缶ジュースをビニール袋に入れてきたのである。

 先にテーブルに置かれていたお菓子の包装を開封していた彼の視界に、差し出された缶ジュースが映りこむ。

 謝礼を伝えて受け取った彼に彼女は言葉を投げかけた。


「まずは乾杯しよっか?」

「……何に対してだ?」


 唐突とうとつに紡がれた「乾杯」の言葉に怪訝そうな表情で聞き返す彼。

 すると、ニンマリとした笑みで彼女は――


「もっちろん、お兄ちゃんと私の初体験――」

「小説のな!」

「ぷぅ~」


 とんでもないことを口走ろうとしていた。

 当然、小説を読むことへのことだと理解している彼であるが、釘をす意味で訂正しておいた。

 そんな彼に頬を膨らまして不満をらす彼女なのであった。


「……ま、まぁ、乾杯するか……ほれ?」

「……うん♪」


 とりあえず空気を変える意味で、彼女の提案に賛同していた彼。

 照れた表情ながらも缶ジュースを差し出してきた彼に彼女は小さく微笑みを送ると、満面の笑みを浮かべて自分も缶ジュースを差し出す。


「それじゃあ……乾杯」

「乾杯♪」


 声をかけあった二人は同時に缶を合わせると、プルトップを開けてのどの乾きをうるおし始めるのだった。

 喉を潤しながら、彼は目の前の美味しそうに喉を鳴らす彼女に視線を送る。

 乾杯は何度もしたことがある二人。

 しかし、今回の乾杯に彼は違和感を覚えていた。

 普段なら缶の高さを合わせる彼女が、今回は彼の缶と高さを合わせず、少し下側に当てていた。

 彼女の行動の意図いとを考えていた彼の目の前で、缶から口を離して軽く息をつく彼女。

 そして彼を見つめると言葉を紡ぐのだった。


「さて、お兄ちゃん……」

「……お、おう……」


 彼女の言葉に自分も缶から口を離し返事をする彼。


「お兄ちゃんが小説を書けていないって言った理由を教えるね?」

「あ、ああ……」


 彼女の口から中断されていた、小説を書けていないと言った理由が教えてもらえると感じた彼は、缶をテーブルに置くと緊張した面持ちでシャープペンシルを手に取る。

 真剣に教わろうと言う彼の心情を察したのだろうか。

 彼女は嬉しそうに微笑みを浮かべると、自分も缶をテーブルに置いてジッと彼を見据えていた。

 一拍後。軽く息を吐き出した彼女は、おもむろに口を開くのだった。


「そもそも、お兄ちゃんの作品には『小説の作法』が、何一つ守られていないんだよぉ?」

「……いや、だから具体的にだな?」

「……貸して?」

「お、おう……」


 中断前の言葉を突きつけられた彼は困惑ぎみに具体的な答えを求めていた。

 そんな彼の視界にスッと差し出された彼女の手の平。そして「貸して?」と呟く彼女の声に彼は瞬時にさとって手に持っていたシャープペンシルを差し出していた。

 彼女は満足げな笑みを浮かべて受け取ると、テーブルの上に置かれたノートを自分の方へと引き寄せて、表紙を開いて一ページ目に何かを書き始める。

「教えてくれたら自分で書くのにな?」なんて苦笑いを浮かべて文字をのぞき込むと――


『私はお兄ちゃんのことを愛しています。だから結婚してくだ――』

「――ていっ!」

「きゃうん!」


 なぜかプロポーズを書かれようとしていたので、容赦ようしゃなく水平チョップを彼女の脳天にお見舞いしていた彼。

 脳天に覚えた衝撃のせいなのか、か弱い一鳴きをした瞬間に『~~――』と言葉の効力こうりょくを失い、彼女のプロポーズは、あえなく幕を閉じたのであった。


「なにを書こうとしてんだよっ!」

「むぅ~~~。だってだぁって~~~!」

「……まったくよぉ……」

「あーーーーーーーーっ!」


 困惑ぎみに言い放った彼に対して涙目になりながらも抗議こうぎする彼女。

 そんな彼女に苦笑いを送りながら、消しゴムで彼女の文字を消し始める彼なのである。

 彼の行動に、目を見開いて部屋中に響き渡るほどに声を張り上げていた彼女。

 隣にいる彼としては「やかましい!」と言いたかったが、あえて無視してリセット作業に没頭ぼっとうする。

 大地に染み渡っていた黒が浄化じょうかされて固形となって表面に浮かび上がっている。

 彼がゴミ箱へと、浮遊ふゆうしている残骸ざんがいを捨て去ると、目の前には真っ白な大地がよみがえるのであった。

 波打ち際に建てられた建築ミスな城のように、完成間近で波にさらわれ跡形あとかたもなく消え去ってしまった人よろしく、うらみがましい表情で真っ白な大地を見つめる彼女。

 そんな彼女に呆れ顔を浮かべながら彼はノートを差し出して、優しい微笑みを浮かべて言葉を投げる。


「……ほら、あんな上の方に小さく書かないで、ど真ん中に大きく書けばいいだろ?」

「――え? ……いいの?」


 彼の言葉に驚きの声を発して彼を見つめる彼女だったが、ビクビクしながら「いいの?」と訊ねる。

「自分から書いていたのに、何を今更いまさら?」と言いたそうな表情を含んだ苦笑いを浮かべる彼。

 だが、彼女としては一度書いた文字を彼が消したのだ。それは彼女にとって「拒否きょひされた」と感じているのだろう。

 だから、いくら彼が「書いてもいい」と言ったとしても、素直に再び書けるほど彼女の神経は図太ずぶとくないのである。

 もちろん彼は最初から『真ん中に大きく書かせる』つもりで消したのだが――。


「……まぁ、書きたいのなら、な? ただし、ちゃんと小説の作法とやらを……『次の』ページに書いてくれるのなら、な?」

「そ、それはもちろんだよ! ……お兄ちゃん、愛しているよ」

「――なっ!」

「だから結婚してくだ――」

「文字で書け文字で!」

「――うにゅ! ぅぅぅ~。……」


 ビクビクとおびえたペットのような眼差まなざしで見つめる彼女に、苦笑いを浮かべて言葉を紡ぐ彼。

 そう、彼としては最初から書くことをこばんだつもりはない。

 彼女の機嫌をそこねると小説の作法とやらも書いてもらえない可能性があるのだ。

 それでは意味がないと判断した彼は、「まぁ、書く分には何も困らないな?」などと考えていたのである。

 だから条件を提示して、あえて『次の』の部分を強調していたのだった。

 真ん中に大きく書いてしまえば、基本その下に続けて書かないだろうと考えていた彼。

 小説の書き方を知らない彼だが、彼女の書いた作品の一枚目には。

 真ん中に『タイトルと氏名』だけがしるされていた。そして二枚目の冒頭から話が始まっていたのである。

 だから、きっと彼女なら「続けて書かない」と思っていたのだろう。

 二ページ目から書いてくれれば、一ページ目を飛ばして読むことも可能である。

 ――などと本人は言い訳がましく理由を考えていたのだが。

 実際のところは、彼にとって『特別な言葉』だから隔離かくりして、大切に残しておきたかったのだろう。


 そんな彼の言葉に賛同する彼女。その言葉を聞いた彼はホッと胸をなでおろしていた。

 ところが突然彼女がプロポーズの言葉を文字にしたためずに、頬を赤らめつつ口に出していたことに驚きの声を発した彼。

 彼女は少し興奮しているように見える。とは言え、暴走で口走っているのではなく。

 真摯しんしな曇りのない瞳で彼を見据えて、迷いのない言葉を紡ぐ。そう、このまま想いを届けるように言い切る勢いであった。


 文字で書くことを許容きょようしたのであって、言葉にしろとは言っていない。

 彼は思わず慌てて彼女の頭を押さえつけると、下に向けさせてから彼女の後頭部に向かって言い放っていた。

 そう、文字として書かれる分には個人的に読んで大切に残せるものではあるが――面と向かって言葉を送られれば、必然的に彼は彼女に答えを伝えなければいけないのである。

 結果がどうであれ、今すぐに結論を導き出す必要も、二人だけでなく周囲の人達との関係性も今は変える必要はないと考えていたのだろう。

 もしかしたら……彼女にもう少しだけ自分の時間を大切にしてほしかったのかも知れない。


 そんな彼の心情を知ってか知らずか。

 彼女は小さく声を漏らすと、ノートに向かって文字を書き始めていた。

 やがて声がしなくなり、シャープペンシルがノートを走る音だけが響いてくることに安心した彼は、おもむろに彼女の頭から手を離してノートを覗き込む。

 するとページの真ん中辺りに『求婚届』と言うタイトルが追加され。

 さきほどの文面と、最後に日付と署名が記されていた。

 完成された求婚届に苦笑いを浮かべている彼の視界に、彼女がめくったことにより新たなページが映し出されるのだった。


 新たなページの一行目。彼女は丁寧ていねいに『小説の作法』と書き綴る。

 彼は「いよいよか……」などと思いながら、気持ちを引き締めて彼女の文字を目で追っていた。  


「……」 

「……ああ、そう言うことか……」


 彼女の文字を目で追っていた彼は、書かれている内容を理解して納得の声を発していた。

 そんな彼の呟きを気にせず彼女は小説の作法を書き終える。


 彼は目の前に書かれた『小説の作法』――


① 文章の基本は縦書き。

② 段落の最初は一文字下げる。改行の際も同じ。ただし「」の場合はこれに限らず。

③ 行の最初と最後に入れてはいけない文字がある。

④ 「」の最後には、原則として句点や読点は入れない。

⑤ 三点リーダーは「・・・」ではなく「…」を偶数個で「……」が基本。ダッシュも「――」が基本。

⑥ 「!」や「?」などの後ろには一文字分ける。ただし「」の終わりの場合にはその限りではない。


 六つの項目を読んで彼女が自分の作品を「小説ではない」と言った理由。

 そして、彼女やラノベと比べて自分の作品に覚えていた違和感に気づくのであった。

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