第5話 山に住む『音』

 夜の山を健斗は全力で駆け下りていた。

 全面が暗闇で覆われている上に、足元は急な斜面。

 更には土地勘すらないのだから、傍から見ればそれは無謀な行動としか言いようがない。

 だが、彼にはそうとわかっていても急がねばならない理由があった。

 眠りについた山林。

 その中に広がる物音は、健斗が起こした衣擦れや荒い呼吸、木の枝葉等の奏でる環境音だけではない。

 それらの音に紛れて、低く、モスキートのように震えるような音が背後の闇から迫ってきていたのだ。

 それが何者なのか、健斗自身にもわからない。

 確かなのは、その場に留まっていたら危ないという、本能的な危機感を抱かせる存在だということだけだ。

 もう、どれだけの時間走り続けたのかもわからない。

 時間の感覚など、山の闇にとうに呑みこまれている。

「――さすがに、もう……いいだろ」

 健斗は鬼気迫る顔のまま、背後の様子をうかがう。

 そのせいで走る速度は一旦遅くなったが、それでも『ソレ』が来ていないという希望にすがりたかったのだ。

 瞳に映る、何の変哲もない、黒で染まった山の風景。

 そこには健斗を追っている何者かの姿は見えない。

 逃げ切ることができた――その安堵感から、健斗の足は止まり、しばらくぶりの休息を享受する。

 いまだに落ち着かない呼吸と心拍に息苦しさを覚えるが、それでも健斗は十分だった。

 あの忌々しい謎の音も聞こえては来ず、周囲には無音の世界が広がっている。

 どこか不安すら感じる光景ではあるが、今の健斗にとって、身の安全以上の感想はでてこない。

「とりあえず、休んで……それから考えよう」

 両脚に感じる強い疲労もあって、健斗はその場に座り込んだ。

 低くなった視線から見上げる空は、まるで夜の緞帳でも下ろしたかのように黒一色だ。

 月どころか星すらも見えず、かといって雲に隠れているという様子もない。

 そこで、健斗も違和感に気付いた。

「なんで、何の音も聞こえないんだ?」

 健斗のつぶやきが拡散し、景色に溶け込んでいったかと思えば、すぐに世界から音が消えた。

 枝葉が揺れる音も、虫の鳴き声も、風の吹き抜ける音も、一切がそこにはなかった。

 意識すればするほど強くなる、世界に対しての畏怖。

「……くそっ」

 何とか気を落ち着かせようとするが、全身どこを触っても日常を体現するものなど出てこない。

 それも当然、荷物はすべて投げ捨てたリュックの中だ。

「せめてスマートフォンくらいはポケットに入れておけばよかった」

 健斗は拳を作り、自らの腿を叩く。

 しかし、それでこの閉塞的な空間から抜け出せるわけもない。

 幾度となく訪れる暗黒に、健斗の心は徐々に摩耗していった。

 どれだけ歩いても、どれだけ呼びかけても、どれだけ足掻いても、変わらない風景。

 もう健斗の心は限界を迎えていた。

 あの音の主に見つかってしまうのではないかという、恐れすら消え果て、ひたすらに変化を求めて彷徨い続ける。

 完全に狂った時間の中、何時間も歩き続けた健斗だったが、その歩みの終わりは驚くほど唐突に訪れた。

 空気の震える音。

 無音をずっと感じてきた健斗にとって、それを察知するのは容易いことだった。

 反射的に顔を向け、目を凝らす。

 すると、写真のように変わり映えしない風景の、その奥にある暗闇が歪んでいるのがわかった。

 ――無事では済まされない。

 健斗は本能的にそう理解できた。

 だからといって、ここで逃げたとしても、あの終わりのない地獄に逆戻りするだけだ。

 得体のしれない闇に飛び込むから、本能に任せて別の脱出方法を探すか。

 決断を迫られた健斗は、必死に考える。

 次第に大きくなってくる音に、恐怖がすぐそこまで迫っているのがわかる。

 そして、追い詰められた健斗がその選択をするのは必然だった。

「うわぁぁぁぁっ!」

 それは決して勇気などではなかった。

 獣のように、ただ生きる為の最後の手段としての特攻だった。

 震える身体を必死に誤魔化して、健斗は拳を振りかぶりながら闇雲に走る。

 周囲に響く不協和音。

 狂った冷蔵庫のようにも、壊れたテレビのようにも聞こえる激しいノイズ。

 全身を包み込む、質量の無い闇が、健斗の感覚を奪っていく。

「――っ!」

 健斗は叫ぼうとするが、その声が自分の耳に入ってこない。

 腕を動かしても、何の感触もない。

 地面を踏みしめているはずの足も、宙を掻いているかのように空回りするばかりだ。

 体温が急速に奪われていくことに恐怖を覚えながらも、健斗の意識は黒色に侵食されていく。

 最後、健斗が目にしたもの――それは、暗黒の中にある、人型の穴だった。

 健斗は必死に手足を動かすが効果はなく、穴は真っ直ぐに迫ってくる。

 首を振り、拒絶の意思表示をする。

 それでも、穴は止まらない。

 絶望と、懇願が撹拌されて、健斗の顔はこの上なく歪んでいた。

 そして、ついに穴が鼻先まで近づく。

「――」

 声にならない絶叫が、健斗の体内に響いた。

 そして人型の穴がちょうど健斗の輪郭に重なるように通り抜ける瞬間、彼の意識は途切れ、全ての抵抗を放棄した。


 数日後、健斗は捜索隊によって遺体として発見された。

 発見場所はテントの中だった。

 だが、発見時点で健斗の息はなく、隊員たちの間でもちょっとした騒ぎになっていた。

 後の検査でもわかるが、何かしら病気があったというわけでもなければ、身体が不自由だったわけでもない。

 外傷もなかったことから、何らかの原因で心停止になったためだと結論付けられて処理された。

 不可解なことはそれ以外にもあった。

 健斗のいたテントの中では、大音量でラジオがかけられていたのだが、ノイズだらけで聞き取れるような番組はなかったのだ。

 健斗に一体何が遭ったのか、どうしてこんなことになってしまったのか、真実を知る者はいない。

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